2020年12月30日

次回以降の投稿についてのお知らせ

前回、次回は「輪廻転生」の問題を述べると言いましたが、この問題は、そう単純ではなく、「時間」の問題や、「輪廻の主体」をどうみるかという問題とも絡む、かなり難しい問題です。私自身、現時点の考えはありますが、明確にふに落ちる形で提示できるか心許ないので、もう少し、自分なりに煮詰めてから、投稿したいと思います。

場合により、数カ月あるいはもっとかかる可能性もあるので、ご了承ください。

このブログで扱う、「オカルトの基本」の問題としては、このほかに、あと、「パラレルワールド」の問題を予定しています。

ところが、この問題も、「時間」とともに、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題とも絡む、難しい問題なので、やはり、しばらく時間をかけてじっくり取り組みたいと思います。

いずれ、この2つの問題は、「オカルトの基本」の問題として抜かせないものと思うし、最後にとり上げるにふさわしい問題とも思うので、自分なりにしっかりした形で、提示するつもりではいます。
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2020年12月04日

「共時性現象」の受け止め方

前々回にも、「共時性現象(シンクロニシティ)」の受け止め方が問題となることについて、簡単に述べました。今回は、この点について、まとめて述べたいと思います。

「共時性現象」は、その受け止め方によって、現象自体も変わって来るほど、「受け止め方」こそが重要な問題と言ってもいいものです。もちろん、「受け止め方」によって、その現象に関わる者の精神状態や理解も大きく左右されます。

「受け止め方」によって、現象自体が変わって来るのは、前回もみたとおり、要するに、受け止める側の「意識」が、現象の発生や継続に、作用することになるからと言えます。そもそも、「共時性現象」は、(様々なレベルにおける)「意識」により、「意味」的に関連する出来事が「引き寄せ」られて、同時的に起こるものでした。ですので、「受け止める」、「注目する」、「解釈する」という、本人の「意識」の作用(その「結果的な意味」)も、現象に対してフィードバック的に、影響を与えることになるのです。

このことは、単純に、共時性現象が起こったときに、それに「注目する」かどうかによっても、かなり違って来ます。それだけで、その現象は、繰り返し、起こる傾向があるのです。さらに、それに強い印象をもち、感情的な反応を伴えば、それはなおさら、強化されます。

それは、その現象に注目したことにより、繰り返し起こるのではなく、注目しないでも、たまたま、まれな現象として、繰り返し起こっていたものに、注目したが故に気づかれたというに過ぎない、という見方もあり得ます。しかし、私も、注目することで、明らかに、連続的に起こるようになるということを、何度も体験していますし、ユングや、その研究者河合隼雄も、そのことを示唆していました。

本当に、単純な例では、たとえば、ある数字に特別に注目するだけで、その数字を身の回りに目にすることが、明らかに、連続して、増えるということが起こります(何か、世界相手に、ゲームをしているような感覚に陥ります)。皆さんも、是非試してみてください。これは、マージャンやその他のギャンブルでも、よく起こることで、むしろ、ギャンブルにおいては、あえて、そのように意図して、その数字を「引き寄せる」ということが、(無意識にも)行われるものとみることができます。

そして、前々回も述べたように、「霊界の境域」に入り込んだときには、「共時性現象」は頻発し、このような、「受け止め方」によって、現象自体が変化する傾向も、如実に感じ取れるものとなります。

そのような現象は、たまに起こるということであれば、特に影響を受けることもないでしょうが、そのように頻発するときには、混乱したり、振り回されて、よからぬ精神状態に陥ることにもなりがちです。ですから、そのような場合は、どのように受け止めるかが、殊更重要なことにもなります。

多くの人が、日常的にしているように、そのような現象を、単なる「偶然」として、受け流すという方途もあり得ます。後にみるように、「共時性現象」を、否定的、恐るべきものと受け止めれば、その現象自体も、実際に、そのような傾向を帯びて、それが繰り返される可能性があります。それで、下手に「共時性現象」などと受け止めるぐらいなら、「偶然」として受け流す方が、賢明ということもできます。

しかし、「共時性現象」は、前々回みたとおり、日常を超えた、「オカルト」的な現象を身近に感ずるよい機会だし、これまでの常態化した「世界」の受け止め方を変え、新たなものをもたらす機会にもなります。また、「霊界の境域」に入り込んだときのように、それが、明らかに、偶然とは考えられないというほどに、頻発するときには、もはや、偶然ということで、受け流すことは難しくなるでしょう。

従って、そのようなときは、「共時性現象」をそれとして受け止めたうえで、それに囚われることなく、振り回されないようにするという方向に向かうことが、建設的です。そして、その受け止め方によって、その現象の現われ自体を、良い方向に変えていける可能性があることを知ることも重要です。

「共時性現象」を、それとして受け止めるということは、前々回も述べたように、その現象を、単純な因果律の延長上に解釈することを止め、因果律を超えた別の原理が働いたものとして受け止めるということです。

単純な因果律の延長上に解釈した場合、前々回の例でいくと、たとえば、「心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながる」ということがあります。あるいは、「逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも、何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまう」ことにもなります。

どちらも、それが頻発する状況では、妄想的に凝り固まってしまって、かなり危険な状態をもたらし得ます。

このような場合には、「理由は何にせよ」、「意味的に関連する出来事が、同時的に起こったに過ぎない」ということ。そして、「単純な因果律を超えた原理が働いた」のだと、まずは率直に認めることが必要なのです。

前回もみたように、「共時性現象」にも、それが起こる「原理的な理由」はあって、それは、(種々のレベルにおける)「意識」にこそあると言えるのですが、それは、物理的な世界における「因果律」、特に、単純な「一義的」な因果律とは異なります。そこを、短絡的に、因果的に解釈すると、上のような、「妄想」につながる解釈をし、囚われを生むことになるのです。

しかし、先にみたように、「意識」の作用が元であるとすると、その現象自体に対する、自分自身の「受け止め」方もまた、現象自体に影響を与えることになり得ます(頻繁に起こる状況では、それを自ら確かめることもできるはずです)。そのことを自覚して、その受け止め方自体を、できる限り、肯定的、建設的なものにしていくということが必要になるのです。

「共時性」は、「意味」において関連する出来事が同時的に起こるのですから、その「意味」というのを、よい兆候として、肯定的に受け止めるか、または、悪い兆候として、否定的に受け止めるかということが問題となります。

そもそも、「共時性現象」は、頻発して起こると、恐怖をもたらすものがあるので、悪い兆候として、あるいは、自己に対して、攻撃的なものとして、否定的に受け止められる可能性が高まります。否定的な受け止め方は、感情的な要素も伴って、より強化されがちなので、その否定的な受け止め方自体が、現象に影響し、さらに否定的な現れを繰り返し、循環されるようになる傾向もあるのです。

このことに関連して、一つの典型的な例として、このような現象を、「集団ストーカー」の被害を受けている、と解釈するものがあります。

人などと、不自然な形(自分の内心にとって特別なタイミング)で、出会うことなどが重なると、自分に誰かが、つきまとっているというような感覚に陥ることにもなります。そして、それを、集団としての組織が、嫌がらせのために、ストーカー行為をしていると解釈するようなことも起こるのです(最近は、ネットでも、多くの「被害報告」が挙げられていることにもよります)。

そして、そのような解釈にはまり込むと、その「被害」は、延々と繰り返されて、止まない傾向があります。

これなどは、(単なる誤認でないとすれば)、偶然を超えた「共時性現象」が元になっている可能性があり、それを否定的、攻撃的なものとして受け止めてしまったために、まさに、その否定的な現れを、実際に強化して、繰り返し現れるようにしてしまったものと解されます。

ですので、「共時性現象」は、できる限り、肯定的、建設的なものとして受け止めることが望ましいのです。明らかに、否定的なものがあるときでも、肯定的、建設的な受け止め方ができれば、その方向に変わってくる可能性もあります。

たとえば、前々回あげた、ユングの「黄金虫」の例でも、「黄金虫」の夢を、何か奇妙な、攻撃的な現われとして、受け取る可能性もあったはずです。しかし、それを、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味として受け取ったことが、(患者自身にも)作用し、「癒し」へ向けた、よい結果を「引き寄せ」たとも考えられます。

ただし、そのように、あえて、肯定的に受け止めることなどをしないでも、殊更、否定的に受け止めなければ、その現象が繰り返されることもないとして、受け流すような態度を身につけることも必要でしょう。むしろ、「共時性」として受け止めたうえで、あえて「意味」を詮索したりしないで、ただそのまま受け止めておくことの方が、現象に拘らないようにするうえで、望ましいとも言えるのです。私自身は、そのようにしています。

現在は、この世界自体が大きく揺らいでいる(ある意味「霊界の境域」と化している)ので、このような現象は、一般にも、ますます頻発して来ると思われます。そのような現象は、何か特別なことではなく、自然なこととして、受け止めることの方が、適切になって来ると思われるのです。

以上、要するに、「共時性現象」は、因果律を超えた現象とはっきりと受け止めつつも、それには囚われず、受け流し、あるいはできる限り、肯定的、建設的に受け止めるようにすることが望ましいということです。

次回は、難しい問題として、触れるだけにしていた、「輪廻転生」の問題を述べたいと思います。

※ もう一つ、「共時性現象」を受け止めるときの、ポイントとなる見方をあげておきます。それは、「現実」というものは、「確定的」なものではなく、「流動的」なものである。あるいは、「一つ」のものではなく、「多様にある」という見方です。

現実が、確定的なものとして、一つしかないものであるならば、意味において関連する事柄が、同時的に起こるなどということは、(「現実を変えてしまう」事柄なので)起こり得ない、という見方にもなります。これは、共時性現象自体が、受け入れ難く、恐ろしいものと感じる基盤となります。

これについては、記事でも、たとえば、『「量子」と「霊的なもの」』で、実際には、現実とは、観測以前に確定しているものではないことを述べました。量子のレベルでは、このことが認められていても、なかなか日常の現実において、このことを認めることは難しいとも言えます。しかし、共時性を受け止めるにおいても、現実について、このような柔軟な見方をしておくことは、大きく作用すると思われるのです。

なお、『狂気をくぐり抜ける』の方の、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1,2』では、さらに踏み込んで、現実は知覚と別にあるのではなく、「知覚自体が現実を作る」ということも述べていますが、これも「共時性」の受け止め方に大きく影響する見方なので、ぜひ参照ください。
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2020年11月03日

「共時性」と「引き寄せ(思考が現実を作る)の法則」

今回は、「共時性(シンクロニシティ)」の現象は、スピリチュアルの方面で、「引き寄せの法則」ないし「思考が現実を作る」といわれることと関わって来ることをみます。

前回みたように、「共時性(シンクロニシティ)」は、内界と外界が、共時的に結びついていることから、原理的に起こるものでした。内界の心的なものが、外界の物質的な現象と、意味において、同時的に結びついて起こるのです。これは、言い換えれば、内的な「意味」が、外界の現象を「引き寄せる」ということになります。

内界において、ある「意味」が、情動を伴って、活性化すると、その「意味」と関連する出来事が、実際に「引き寄せられる」のです。

ただし、ユングによれば、その作用は、個人的な意識ではなく、その奥(「心的なものと物質的なものを超えた領域」)にある、「普遍的な無意識」によるのでした。従って、引き寄せる「意味」というのも、単純な言語的な意味というより、普遍的な無意識に特有の、「神話的、象徴的な意味」になります。

前回あげた、「黄金虫」の例でも、その、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味が、外界にも(患者自身にも)作用し、「引き寄せ」られているのでした。

しかし、ユングにおいても、普遍的な無意識は、我々の個人的な意識や無意識と、互いに関わり合って、働くものです。従って、我々の個人的な意識のあり様や受け止め方によって、「共時性」という現象の起こり方も、変わって来.るのです。

その範囲で、ユングにおいても、個々人の意識、思考が、外界の出来事を、共時的に、「引き寄せる」ことを認めていた、と言うことができると思います。

ところで、前に、記事『「霊」とは何か』において、物質的なものを越えた領域は、「霊的なもの」として認識できることをみました。共時性を起こす、「物質的なものと心的なものを越えた領域」というのも、本来、この「霊的な領域」とみなすべきです。「物質的なもの」を超えた、「霊的な領域」と捉えることで、「引き寄せ」という現象が、流動的、包括的な「霊的な領域」から、固体的、限定的な「物質的な領域」へと、具現化される過程も、より具体的に理解できることになります。

ただ、ユングは、あくまで、心理学者として、「霊的な実体」とはせずに、「心理的」な規定をしたのです。

しかし、記事でもみたように、「霊的なもの」も、「霊」「魂」「体」の三要素に分割でき、その本質をなすのは、「霊」とすると、結局は、(心的な)「意識」そのものなのです。ただし、この「意識」は、個人的な個々の意識から、もっと深く、普遍的なレベルの意識まで、すべてを貫き通しているものです。最も深い意味では、ユングの考えたような、人類に共通の「普遍的な無意識」というのを超えて、より広大な、「宇宙大」の、あらゆる存在の根底に働く、根源的な「意識」と解されるのです。

ただ、記事『「量子」と「霊的なもの」』でも触れたように、その根源的な「意識」は、我々の個々の意識の「大元」であり、本来は、我々の意識と一つのものとも言えるものです。スビリチュアルの方面で、「一なるもの(ワンネス)」ということが言われるのも、そのようなことに基づいています。

結局、「共時性」とは、このように、様々なレベルを含む、「意識」の作用により、起こるということができます。「それは、最も、根源的な「意識」のレベルから、我々の個々の意識のレベルまで、様々なあり方で、いわば、それに「ふさわしい」あり方で、起こるということです。

通常は、ユングも言うように、我々の意識または思考が、直接起こすというのではなく、それが、それを超えた「普遍的な意識」と通じることにより、結果として、「引き寄せられる」ということができます。我々の意識の側からすると、いわば「他力」的な面が多くあります。

しかし、場合によっては、我々の個々の意識、思考が、直接、「主体的」に、「共時性」を「引き寄せる」かのような現象もあるのです。そうなると、これは、もはや、「引き寄せる」というよりも、「思考が現実を作る」と言った方がふさわしいことになります。あるいは、これは、ほとんど、我々の思考、願望を直接実現させる、「魔術」ということにもなります。

しかし、本来、我々の個々の「意識」も、根源的、普遍的な「意識」と通じているものとすれば、それは、起こっておかしくないものだし、むしろ、起こることの方が「本質的」なことなのです。

前に、記事『「生き霊」と「想念形態(エレメンタル)」』で、思考というものは、「想念形態」として霊的世界で実体化し、それが物質的な世界へも影響を与えることをみました。ただし、あやふやで曖昧な思考は、実体化しにくく、強い影響をもちませんが、明確に練られた、統制された思考は、実体化する力も強くなります。つまり、「思考が現実化する」ことをもたらしやすくなるのです。

あるいは、「引き寄せ」または「思考の現実化」は、「意識」のもたらす波動(周波数)が、共通の要素を引きつける(共鳴させる)ために、起こるという理解もできます。この観点からは、波動(周波数)として、より明確で、安定的に形成されたものが、「引き寄せ」または「思考の現実化」を起こしやすいことになります。

ただし、この「波動」は、「霊的なもの」を含めて初めて捉えられるような性質のものであって、現在捉えられている、「物理的な波動」ということで、理解できるものではありません。(但し、量子力学などは、比喩的に多くの示唆をもたらすものではあります)。

このように、「引き寄せ」ないし「思考が現実を作る」ということは、とりあえず、実際にあることですが、スピリチュアルの方面で言われるほど、簡単で、単純なことではないのが分かると思います。

それは、「意識」の作用と言っても、自己を超えた大きな意識の作用であることから、単に、現にある自己の欲望の実現であるようなことまでを、広く含むのです。

また、人間の意識、思考とは、単純に、一面的ではないので、ある思考または欲望をもっているとしても、それに反するような欲望を同時にもっているということも多くあります。あることを望んでいるようで、無意識の奥では、反対のことを望んでいるとすれば、その反対のことの方が実現するということにもなります。

さらに、前回も触れたように、人間は、ボジティブな思考よりも、ネガティブな思考に囚われやすいので、ネガティブな思考の方が、感情をも巻き込んだうえ、強力化しやすく、そちらを現実化することの方が、どうしても多くなると言えます。

さらに言うと、「意識」には、さまざまなレベルがあると言いましたが、記事『「霊」とは何か』でもみたように、人間のほかにも多様な「霊的存在」がおり、それらの「意識」もまた、「共時性」を起こす一つの要因となります。これらの存在は、人間と違い、時間(従って、因果律)に縛られていないので、より共時性を起こしやすいのです。中には、意図的に共時性を起こすことで、人間を惑わすような存在もいます

記事『「捕食者」という存在の実質と限界』などで述べたように、「捕食者」という存在は、まさに、このような現象を起こすことで、人間を混乱させ、それをネカティブに受け止めさせることで、さらにネガティブな思考や感情を継続的に強化させようとします。

「共時性」ないし「引き寄せ」、「思考の現実化」には、このように、様々なレベルのものがあるので、まずはそのことを認識することが必要です。それには、ボジティブな面もあれば、ネガティブな面もあります。また、多様な「霊的な存在」に通じる面もあります。従って、安易に、「引き寄せ」や「思考の現実化」を望むのが、適当とは思われません

ただし、「引き寄せ」、「思考が現実を作る」こと自体は、事実と言えるで、それを自ら自覚し、それが望ましい方向に実現化するように働きかけることは、適当なことと言えるでしよう。

次回は、前回も触れた、「共時性」や「引き寄せ」の受け止め方の問題について、もう少し、具体的にみてみることにします。
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2020年10月01日

「共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性

「共時性(シンクロニシティ)」もまた、「オカルト」にとって、基本的で重要なことがらの一つてす。割と誰でも体験するものでありながら、それが意味することは、「オカルト」にとって、深く重要なことを指し示してもいるからです。

「共時性(シンクロニシティ)」とは、一般に、「因果的にはつながりがない、意味において関連する複数の出来事が、同時的に起こること」です。「意味のある偶然の一致」などとも言われます。

「偶然の一致」と言われますが、偶然とはとても考えられないものを含みます。つまり、物理法則の範囲を超えた、「超常的」な出来事の一とみなし得るのです。だからこそ、強く印象づけられることにもなります。それで、この現象は、通常の物理法則を超えたもの、つまりは、「オカルト的なもの」を、意識させるきっかけにもなりやすいのです。

「超能力」についての記事でも触れましたが、誰かのことを考えたら、ちょうどその人から、電話が来た、とか、あることについて気にかけていた(知りたいと思っていた)ら、ちょうどそのことが、読んでいる記事などに載っていた、などのことは、割と誰でも頻繁に経験することでしょう。

ただ、この概念を提唱した心理学者のユングは、初め、この現象を、一般的なものではなく、深層心理的な関連のもとに起こる、特別な意味合いのものと考えました。個人的な無意識の奥にある、「普遍的無意識」が活性化したことにより、その象徴的(元型的)な意味が、外界と結びついて、特別に現れ出たものとしていたのです。それは、「聖なるもの」といった感覚に近く、人生の方向性においても、大きな示唆をもたらすものです。

たとえば、ユングが治療していた患者が、古代エジプトの神話的な存在である「黄金虫」の夢を見て、とても印象的だったことをユングに話していると、ちょうどそのとき、それと似た黄金虫が、治療室の窓を叩いて来たということがありました。2人はそれに驚きますが、以後、それをきっかけに、(その象徴的な意味合いのとおり)治療が進んだということです。

しかし、ユングは、晩年、弟子から、「共時性は、内界と外界が共時的に結びついていることから、必然的に起こるのではないか」という指摘を受けて、それを認めることになりました。つまり、「共時性」そのものは、特別の現象ではなく、内界と外界の結びつきとして、常に起こっている、一つの「原理」ということです。

(物理的な)「外界」では、時間的な原因と結果の関係で示される、「因果律」という原理が働きます。しかし、心的な「内界」と「外界」の関係は、時間的な因果律ではなく、つまり、どちらかが原因となるというものではなく、意味において、同時的に、「共時性」の原理で、結びつくものとしたのです。

「外界」あるいは「物質的なもの」と、「内界」あるいは「心的なもの」が、どのような関係にあるのかというのは、古来からの哲学的問題でしたが、それに一つの解答をもたらすことにもなっています。

現代に行き渡る、通常の「唯物論」では、「物質的なもの」が、「心的なもの」の原因とみなされます。特に、「脳」が、「心的なもの」の原因とされることになります。反対に、「唯心論」では、「心的なもの」こそが、「物質的なもの」を作り出した原因とされます。この見方も、現代にも、かなり根強く残っています。

ところが、「共時性」の原理は、「物質的なもの」でもなく、「心的なもの」でもなく、その奥には、それら両者を超えた働きがあり、それが両者を、意味において同時的に結びづけているとするのです。

それは、とりあえず、「心的なもの」と「物質的なもの」の、どちらかが原因となるわけではないですが、「意味」において結びつくのですから、「心的」な要素が、主要な位置に来ることは明らかです。ユングとしては、個人的な意識や無意識ではなく、「普遍的無意識」または、それを通して「元型」という、個人を超えた、超越的ともいえるものが、働くことを想定したわけです。しかし、「心的なもの」一般もそれに関わる以上、次回以降にみるように、そこに、個人的な思考や意識が、関与するという可能性も、十分考えられることなのです。

それは、スピリチュアルの方面で、いわゆる「引き寄せの法則」とか、「思考が現実を作る」といわれることに、関わってくるのです。

さらに、「心的なもの」が、「物質的なもの」と、「共時性」の原理で結びついているということは、「内界」も「外界」も含めた、あらゆる存在が、本来一つのものとしてつながっていることを、示唆しています。「心的なもの」が、単に個人の意識や無意識ではなく、普遍的なものとすれば、一見切り離されているように見える、個々の人も、また、その普遍的なものを通して、我々の知覚する個々の物質も、本来、一つにつながっているということになるはずなのです。

このことは、やはり、スピリチュアルの方面で、すべては「一なるもの」(ワンネス)として、つながっている、といったことに関わって来ます。

このように、「共時性」の原理は、理論的な面でも、「オカルト」に関わる、さまざまな問題を引き起こします。

しかし、「共時性」に関しては、何よりも、実際的な面が重要
です。

そもそも「内界」と「外界」が「共時的」に結びついているのであれば、外界において、内的な意味と結びつく事柄が同時的に起こることは、それほど不思議ではないことになります。従って、誰でも、また、頻繁に起こり得ることになります。

同時に、それは、特別に、重要な意味をもつものとは、限らないことにもなるのです。通常は、「偶然の一致」ということで、顧みられない出来事の多くが、実際には、「共時性」の現れということは、常にあり得るのです。また、我々が、普通「運」と呼ぶものも、「共時性」の一つの現れということに、十分なり得ます。

つまり、実際に、我々が、多く体験する事柄、日常的に体験しているが、普段顧みない現象が、実際には、そのような、「オカルト的なもの」と関わる現象である、という可能性があるということです。通常は、唯物的な発想のため、覆い隠されていますが、「共時性」に着目することで、「オカルト的なもの」が、意外と身近なものであることが、改めて認識されると思います。

ただし、このような「共時性」は、ユングが考えたように、プラスの面だけでなく、マイナスの面もあることには注意が必要です。

ボジティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジするのはいいですが、反対に、ネガティブな意味で、内界と外界が結びつき、それが現象をアレンジする場合には、その意味にかなった、ネガティブな現象が生起します。しかも、往々にして、人は、ネガティブなことがらにこそ囚われ、感情的にも巻き込まれて、それを循環的に繰り返し、そこから逃れ難くなりがちなのです。

具体的には、次回以降にみますが、こういったいわば不幸の連鎖は、割と起こりやすいことであり、それを避けるためにも、「共時性」への注目は、必要なことと思われるのです。

また、「共時性」は、先にみたとおり、因果律ではなく、原因と結果の関係ではないのですが、因果的な解釈に慣れている我々は、往々にして、この現象が起こったとき、因果的に原因と結果の関係で解釈しがちです。そうすると、たとえば、心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながります。

あるいは、逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも。何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまうことにもなります。

さらには、先にみたように、「共時性」は、内界と外界がつながっているために起こるのですが、この現象は、確かに、内界と外界のつながりを意識させ、それらが切り離されているという、それまでの認識からは、異常で逸脱した事態と感じられます。それは、恐ろしいことでもあり、「閉じられた」ものとしての自己が、安定的な基盤を失って、いわば周りに拡散したり、あるいは、周りから操作されるというような、不安定な状態をもたらします。

これらは、統合失調との関わりを連想されるでしょうが、まさにそのとおりで、統合失調という、予期せぬ、「霊界の境域」への侵入状況は、「共時性」が頻繁に起こる状況でもあるのです。そこで、「共時性」をそれと認識して、それに必要以上に囚われないようにするためにも、「共時性」については、ひととおりの知識を得ておく必要があると思われるのです。

今回は、一通り概観するにとどめましたが、次回以降は、さらに具体的に、こういったことにも踏み込んでいきたいと思います。
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2020年08月21日

「自我の発達」や「均衡」という行き方との関係

これは、本来、かなり込み入った問題ですが、ここでは、疑問に思う人のために、参照になる程度に、簡単に、触れておくだけにとどめます。

1 「自我の発達」との関係

「捕食者の心を脱する」という行き方は、普通一般に言われる、「自我の発達」ということとは反するように思われるでしょう。「自我の発達」が望ましいことだとすれば、「捕食者の心を脱する」ことは、望ましくないことになります。普通に言われる「自我の発達」とは、現代の社会に適応するためのものなので、「捕食者の心」を中心にできている、現代の社会にとっては、確かに沿わない方向に行くことになるのです。

しかし、本来、「自我」ということには、今まで述べた、「捕食者の心」と「元々の心」の両方が含まれているとみなすことができます。「元々の心」を発達させるという意味では、「自我の発達」は、やはり必要なことと言えるのです。

前に、「低次の自我」と「高次の自我」について述べましたが、「捕食者の心」と「元々の心」は、必ずしも、そのままそれに重なるわけではありません。「元々の心」も、現実に発達していないと、「高次の」働きができるわけではないからです。

かなり割り切った言い方ですが、「捕食者の心」=(自我ではなく)「エゴ」と捉えると、分かりやすくなると思います。他者との関係で、保身、優位に立つこと、収奪などのために、自分自身を重視して行く心です。しかし、これは、本当には、「自分自身を重視」するものとは言い難いものです。自分自身の本来の意向というよりも、他者や社会との関係で、そうならざるを得なくして、そうなっているようなものだからです(もともと、他者から、植えつけられたものなので、そうなってしまうのも必然ということができます。まさに「奴隷」ということです)。

しかし、普通に「自我の発達」というときは、こういう面を多く含むのです。

それに対して、「元々の心」は、他者や社会との関係というのではなく、単純に、自分自身の経験のために、「主体性」を発揮して行く心と言えます。ただ、現状では、「捕食者の心」に乗っ取られているために、その「主体性」を発揮できない状態になっているということです。

「元々の心」=「主体性」、「捕食者の心」=(一見主体的であるようで、実は)「他者依存性」というのが、ポイントです。

「自我の発達」ということには、本来、このような「主体性」の発達ということも、含められるべきものです。

ドンファンの説明では、「捕食者の心」を脱して、初めて、「元々の心」、つまり、真の主体性を発達させることができる、という意味合いが強いです。確かに、「捕食者の心」がその邪魔をするので、「捕食者の心」を脱しないと、「元々の心」を発達させることは難しいでしょう。

しかし、私は、「捕食者の心」を脱してからでないと、「元々の心」を発達させることができないとは思いません。つまり、「捕食者の心を脱する」という方向を見据えつつ、それと併行して、「元々の心」を発達させることも可能ということです。「捕食者」という存在を認識し、「捕食者の心」に、意識的、自覚的になれれば、「捕食者の心」の邪魔には気づきつつ、「元々の心」をある程度発達させることは、可能と思うのです。

また、「捕食者の心」を脱するまでは、「元々の心」を発達できないとすれば、まさに、ドンファンの言うように、「元々の心」は全く使い物にならない無力な状態のままなので、たとえ「捕食者の心」を脱することができたとしても、その後、やっていけるかどうかは疑問ということになるでしょう(その意味では、ドンファンの説明は、多少誇張の面があります)。

要するに、「自我の発達」は、通常は、「捕食者の心」の発達を意味するので、「捕食者の心」を脱する行き方と相入れないのは、とりあえず本当です。しかし、真の「主体性」の発達という意味では、決して矛盾せずに、共存することも可能ということです。あるいは、むしろ、積極的に、共存させて行く方が望ましいということです。

2 シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」との関係

シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」という行き方も、一見、「捕食者の心」を脱する行き方とは相入れないようですが、「自我の発達」の場合と同様、実際には、共存可能の面があります。

シュタイナーの行き方については、ここでは改めて説明しませんので、それについては、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の以下の記事を参照してください。

「ルシファー的な性向」と「アーリマン的な性向」について→記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)。「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」について→記事『「分裂気質」と「均衡」という行き方』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-513e.html)さらに、ドンファンの「捕食者の心」を脱する行き方と必ずしも矛盾しないことについて→記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-8eb4.html)。

「捕食者の心」が、シュタイナーのいう「アーリマン的な性向」と多く重なることは、これまでも何度か述べて来ました。実際そうで、反対に、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向」には、「元々の心」と重なる面があります。ただし、「ルシファー的な性向」も、外部的に植えつけられたものなので、「エゴ」的な欲望や高慢さという意味では、「捕食者の心」と重なる面もあります。

このように、「捕食者の心を脱する」とは、「アーリマン的な性向」と「ルシファー的な性向」の多くを脱することになるので、それらの均衡を図るというあり方とは、相入れないようにも思われます。しかし、結果としてみると、「均衡」とは、過剰な部分をそぎ落とすということなので、それらを「脱する」ということとそう違うわけではありません。

また、「自我の発達」の場合と同様、「捕食者の心」を脱したとしても、「元々の心」を発達させて行かなくてならないので、その発達の方向は、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということと、そう違わないことにもなるのです。「元々の心」の発達は、真の「主体性」の発達と同時に、捕食者や、捕食者的な社会との関係でなされる以上、「ルシファー的な性向」の「アーリマン的なものとの(妥協ではなく、主体的な意味での)折り合い」という面をもつからです。

このような、「元々の心」の発達というのは、結局、「自己の完成」とも言えますが、それは、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのと、違わないものになるということです。

(但し、それも「終わり」ではなく、バーナデット・ロバーツによれば、さらに、そこから、「虚無への溶解」ということが起こるとされ、ドンファンでも、「無限との一体化」ということが言われます。)

ただ、その行き方には、かなりの違いがあるのは事実で、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのは、既にあるものの、均衡を図るという意味で、より穏当で、一般向きと言えます。こちらの方が合うという人は、その方法でいけばいいと思います。

「捕食者の心を脱する」という行き方は、「捕食者」というものを如実に経験し、それを脱したいという動機づけをもった人に、最適の行き方と言えます。ただ、前回も述べたように、「捕食者」の活動が特別に高まっている現在、こちらの行き方の方が、一般的にもふさわしくなりつつあるという面はあると思います。

posted by ティエム at 23:38| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする