2018年10月20日

「霊」についての総合的考察 2

前回みたように、総合的に考察する限り、「超能力」のみならず、「霊」についても、十分認められることが分かります。しかし、現代の状況は、全体として、「霊」を認めることにはなっていません。

まず、その理由として、「表面的」なものをあげると、大きく、次の2つになると思います。

1 「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている。
2 多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない。


「表面的」と言いましたが、決して「軽い」ということではなく、近代人にとっては、十分に「重い」理由です。ただし、その根底に潜む、真の理由が、より「重い」ということです。その理由こそ、ブログの初めに述べたように、「オカルト」的なものへの独特の嫌悪感であり、恐怖です。近代が、「魔女狩り」によって始まったと言えるほど、「オカルト」的なものを、排除しようという意思と、結びついていることは、既にみました。

「霊」というのも、「オカルト」的なものを象徴するといえるほど、それを代表する一つです。近代人にとって、それを認めることは、そもそも、心情的に難しいのです。それは、我々の無意識の奥底に、潜んでいるものなので、通常、自覚することはないでしょうが、強力に根を張っているのです。

この無意識的な意思が、強く作用している限り、たとえ、「表面的」なところで、十分の「論理的」な理由があったとしても、容易に、それを認めることはできないことになります。

ただし、そうは言っても、その無意識的な意思を克服するには、一種の「タブー意識」を排して、「表面的」なところからでも、それを正面から問題にして、考察することを積み重ねていくしか、ないのだと思います。

そこで、今回は、上にあげた、2つの理由について、検討します。

まずは、1の「「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている」について

既に、「科学的」なアプローチによって、「霊」の存在は、十分示唆されることをみました。だから、「霊」は、決して「科学的」に認められないのではないのです。まして、「あり得ない」などということは、ありません。

「霊」を否定するのは、「科学」そのものではなく、「(物質)科学的な方法によって、その存在を証明できるものだけが、存在し得るものである」という、「ものの見方」です。端的には、「物質的なものだけが存在する」という「唯物論」ということです。この見方による限り、「物質的なもの」ではなく、従って、物質科学的な方法で、直接捉えることのてきない「霊」などは、初めから、存在し得ないことになります。

「ものの見方」が「霊」を否定しているのであって、「科学」という方法そのものが、否定しているわけではないということです。

前に、「霊」も、物質的なものと完全に別ものなのではなく、物質的なものと結びつきながら、働いていることをみました。だから、その限りで、「科学的なアプローチ」は可能ではあるのですが、それは、直接、「霊」そのものを捉えるものではありません。(もし、「科学」で「霊」そのもののが捉えられるのであれば、それは「霊」ではなく、何らかの、「未だ解明されていない物質」の一種ということになります。)

ただ、そのようなアプローチの結果、間接的に、霊の存在を想定した方が、論理的に整合的になるということで、「示唆」されるということに過ぎません。「霊」については、恐らく、「証明」ということは、不可能と思われます。というより、どうすれば、「証明」したことになるかという共通の理解を得ることは、無理ということです。

「(物質)科学」は、「存在するもの」を、数学的、客観的な法則として捉えて来たので、多くの人に、共有することができ、しかも、その法則を、実際に、技術として応用することができます。この点で、「物質科学」は、多くの人に、共通の理解と利便をもたらし、人間を取り巻く、「存在するもの」が、人間によって、コントロール可能なものと思わせてくれました。だから、「存在するもの」のすべてが、「物質科学」によって捉えられると思うことには、大きな理由があります。

しかし、本来、そのような保証は、どこにもないものです。そのように望むのは、人間の側の都合であり、あるいは一種の思い上がりでしかないと言うべきです。

そして、実際に、そのような発想により、もともと、文化的に共通に認められていた「霊」なるものを、「存在するもの」から「排除」したのです。「霊」は、数学的、客観的な法則として捉えられるものではなく、曖昧なもので、何よりも、人間のコントロールが効かないと思われるものです。そのようなものは、科学が、「存在するもの」すべてを、説き明かしてくれることを期待する者にとっては、「邪魔もの」だったということです。

このようなことは、単に、一般の「常識」というだけでなく、「科学者」の考え方としても、当たり前のようにみられるものです。それを象徴するのが、そのような「科学的に捉えられないもの」を知覚したというときに、必ず持ち出される、「幻覚」という見方です。

前回、臨死体験の場合にも、科学者の主流は、「幻覚」とみなすことを述べました。

「幻覚」とみなす見方は、「科学的に捉えられない」すなわち、「一般的に共有できない」形の知覚がなされたとき、それがある脳の活動と結びついていることが判明すると、それは脳が生み出した「幻覚」とみなすものです。臨死体験の場合は、脳の活動が停止した状態でなされることがあるので、その「幻覚」とみる説すらも、成り立たなくなります。しかし、そうでなくとも、人間が生きている限り、ある知覚が、脳の活動と結びつくことは当たり前なので、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」の根拠となるものではありません

(逆に、脳の活動と結びつくことが「幻覚」の根拠となるなら、いわゆる「唯脳論」がいうように、すべての知覚は、脳が生み出した、「幻覚」の一種ということになるべきであり、それなら、一貫していると言えます。)

脳波活動のある場合の「臨死体験」や、臨死状態とは別に起こる、通常の「体外離脱」についても、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」であることの根拠となるものではないということです。

この点は、「霊」なるものがあるとしたときに、「脳」とどのような関係にあるのかという問題となり、いわゆる「心脳問題」とも関わる、厄介な問題なので、いずれ改めて検討します。(「体外離脱」の場合については、次回にも、少し触れるつもりです。)

いずれにしても、「幻覚」とされることの根拠は、それが「科学的に捉えられない」ものについてであることであり、「一般に共有することのできない」ものであることの方なのです。初めから、「科学的に捉えられないもの」を「排除」する限りで、成り立つものの見方だということです。「結論」が既に「前提」として、先取りされているのであり、一種の「トートロジー」(循環論法)ということです。

このような見方は、「科学」の内部においても、かなり一般化されているのであり、それによってこそ、科学の「権威」が保たれているところがあるのです。

このように、「霊」なるものが、「科学的には認められない」とか「あり得ない」というのは、それ自体、一つの、かなり偏狭な「ものの見方」であり、本来、「科学」的な見方とは、とてもいえないものと言うべきです。

次回は、理由の2の点について、検討します。

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2018年10月14日

「霊」についての総合的考察 1

前回みたことから、科学的な「証明」はできないにしても、「肉体」とは独立して、死後も存続すると考えられる、「魂」または「霊」のような存在があるということは、十分示唆されることが分かると思います。

特に、臨死体験の事例で、脳死判定後、脳の活動が停止した後に起こる、鮮明で一貫した内容の体験は、強くこのことを示唆するといえます。

ただし、もちろん、それによってすぐさま、臨死体験の内容、特に、境界を超えて、既に死んだ人と出会ったり、光の存在と出会ったりするなどの内容が、「真実」のものとなるということではありません。

臨死体験において、「肉体」から独立して働く、「魂」または「霊」のような存在を、最も強く指し示す要素は、「体外離脱」の体験というべきです。肉体から、意識及び肉体とそっくりな「(霊的な)体」が抜け出して、外界を知覚するという体験です。この体験こそが、肉体を離れて、独自に存在する「魂」や「霊」の存在を、本人の主観においても、客観的にも、最も直接に指し示しているのです。

本人の主観というのは、実際に、肉体を離れても、現に働く意識や知覚が、「現実のもの」として明白に感じられるからで、その点は、次回にも、少し詳しく述べます。実際、多くの臨死体験者が、その体験内容を「真実」のものと感じ、死後の存在を確信するようになるのは、この離脱の体験のリアリティこそが基礎になっています。

客観的にというのは、前回もみたように、その離脱の状態で知覚する外界の状況が、医師が患者にする施術の詳細など、現実のものと符合するというのが、典型的なものです。

このように、臨死体験において、体外離脱は、重要な位置を占めますが、実は、体外離脱そのものは、必ずしも、臨死状態と結びついて起こるわけではありません。日常において、いくらでも、自然発生的にも起こり得るのです。私が、記事『私の体験から』で述べた体験というのも、このようなものです。有名な、ロバート・モンローのように、自らの意志で、自由にこの体験を起こせる人もいます。モンローは、「ヘミシンク」といって、音響効果を利用して、体外離脱またはそれと類似の意識状態を引き起こす方法も開発しています。

臨死体験は、「死に臨む」という、特別な体験であり、誰もが生きている間に、普通に体験できることではありません。しかし、「体外離脱」そのものは、その気になれば、割と誰もが、体験できるものなのです。臨死体験での体外離脱は、死後も存続する「魂」や「霊」を示唆しているわけですが、だとすれば、「魂」や「霊」は、生きている間にも、肉体や脳と関係しながら、常に存在しているはずで、それが肉体から抜け出すということが起こっても、不思議はないわけです。

実際、そのような体験の例は、多く積み重ねられていて、興味深い事例も多くあります。日本では、坂本政道という人の研究が有名でしょう(『「臨死体験」を超える死後体験』など参照)。

超心理学においても、先のモンローなどを被験者として、体外離脱状態の特異な知覚について、興味深い研究がされています。ただし、それが、「魂」や「霊」そのものが、本当に肉体から抜け出して起こった体験かということを、「証明」することはできません。肉体から抜け出したといっても、肉体が生きて機能している限り、脳波等の活動が止まるわけではないので、脳から独立した体験と確かめることは困難だからです。離脱状態での知覚は、「魂」や「霊」を持ち出さなくとも、「ESP(超能力)」によって説明し得るという考えも、ネックになっています。

ただ、この点では、臨死体験において、脳活動が停止した状態で起こる、体外離脱の事例が、一般的な、体外離脱においても、示唆をもたらすといえます。臨死体験における体外離脱が、脳から独立したものであることが示されるなら、一般の体外離脱も、そのようなものである可能性があるからです。

いずれにしても、体外離脱状態の意識状態や知覚は、臨死体験以外でも、多くの人に、日常的に体験し得るもので、「魂」や「霊」というものがどういうものかを知る手がかりとして、非常に重要なものなのです。そこで、これについては、次回にも、さらに述べることにします。

前回、もう一つの科学的なアプローチとして、「前世記憶」の研究をあげました。こちらは、臨死体験のように、死の状態に関わる体験ではなく、過去の「記憶」として、詳細に内容を語ることで、生まれる以前にも、その者と同一性をもった「魂」や「霊」などの存在があった可能性を示唆するものです。

あくまでも、「記憶」として語られるものなので、「魂」や「霊」の存在を示すものとしては、臨死体験よりも弱いと言えるでしょう。「記憶」というのは、外部的な形で植えつけられる可能性もあるという点も、考慮されなければなりません。たとえば、「心臓移植」などによって、その移植した本人の記憶ではなく、臓器を提供した者の記憶と解されるものが、喚起されるという現象があります。(https://matome.naver.jp/odai/2138917667091407001?&page=1 参照)

これなどは、臓器の、たとえば細胞などに蓄えられた記憶が喚起するというよりも、臓器にまとわれた「気」のような媒体(オカルト的には「エーテル体」)に貯えられた記憶が、移植によって喚起されたものと考えられます。そうすると、前世記憶のようなものも、他者から、物質的な媒体はなくとも、霊的なレベルで、何らかの形で移植された記憶という可能性も、考えられないわけではありません。

しかし、前世記憶が非常に詳細な内容をもち、本人のものと強く意識されて、語られることや、その人物が受けた身体的な痕跡まで、生まれたときから、同じように移ることがあることを考えると、本人と同一性あるものとして受け取る方が、自然であるとは言えるでしょう。さらに、「中間生」の記憶なども合わせると、「前世」と「中間生」ということで、本人と同一性のある、「魂」や「霊」の記憶として、十分一貫した内容にはなります。

この「前世記憶」の事例も、少なくとも、臨死体験とは違った観点から、「魂」や「霊」の存在を、強く示唆する現象には違いないでしょう。

このほかに、前回あげたものとしては、霊媒による霊界通信などの現象もあるわけですが、それはそれで、霊の存在を示唆するものが多くあります。また、内容からいっても、これまでみてきた現象とも、十分符合するものがあります。さらに、一般でもよく体験されるような、幽霊体験などを合わせると、少なくとも、死後も同一性をもって存在する、「魂」や「霊」のような存在を示唆する現象は、数限りなくあるということになるでしょう。

さらに、「総合的な考察」ということでいうと、「超能力」の場合に述べたように、他の文化によって、どのように捉えられているかという点も、重要な視点です。しかし、それは、超能力のところでも述べたように、「霊」というものがあり、それこそが人間の本質であることは、近代社会以外の、ほぼどの文化でも、共通の認識です。また、人間の霊ばかりか、他の「神々」や「精霊」のような存在も、当然のように認められています。その、「魂」や「霊」というのも、ただ漠然と信じられているというのではなく、前に述べたように、いくつかの具体的な要素に分けられるなど、その構造や性質についても、非常に詳しく述べ伝えられます。(たとえば、佐々木宏幹著『シャーマニズム』や、藤村久和著『アイヌの霊の世界』など参照)それは、まさに、近代人の知る、臨死体験や体外離脱の体験の事例からみても、十分符合するものなのです。

このような視点から、総合的に考察する限り、肉体から独立して、死後も存続する、「魂」や「霊」が存在するということ自体は、もはや十分過ぎるほど、認められると言わなければならないと思います。ただし、その「魂」や「霊」の性質がどのようなものなのか。死後も同一性をもって存在するといっても、その「同一性」とは、どの程度のものなのか。それらは、「生まれ変わり」をするものなのか。それらは、消滅することなく、永遠に存在し得るものなのか、といった点は、不確かなことで、別に考察する必要があるものです。

しかし、そうは言っても、事実上の問題として、残念ながら、近代において、このようなことは、まだまだ一般に認められることではありません。それには、「科学」や、その他のものの見方についての、近代に特有の事情があることも事実です。それについては、既に多くのことを語ったつもりですが、次回は、その点を含めて、もう少し考察を進めたいと思います。


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2018年09月29日

「霊」についての科学的アプローチ

歴史的経緯

今回は、「霊」について、科学的にアプローチしたものをとりあげます。

前々回、超能力については、「超心理学」という学問があることをみました。超心理学は、超能力について科学的に研究する学問ですが、それは、もともと、霊について科学的な研究をしようとする心霊科学」(スピリチュアルリサーチ)から、始まったものです。

西洋で、19世紀頃、死者との交信などの心霊現象を起こす霊媒が多く現れて、交霊会も頻繁に催され、多くの者の注目を集めることになりました。科学者や心理学者、作家などさまざまな分野の著名人も注目して、霊について科学的に検証しようという機運が高まりました。そこで、「心霊科学協会」が設立され、科学的な研究が始まったのです。参加した者には、シャルル・リシェやウイリアム・クルックスなどのノーベル賞級の科学者や、心理学者ウイリアム・ジェームス、哲学者ベルグソン、作家のコナン・ドイルなどもいました。

しかし、霊媒の起こす現象は、かなり気まぐれで、研究の方法を確立するのは難しく、ときにトリックであることが判明することもありました。超能力者を対象とする研究も、難しい問題があることをみましたが、霊媒については、さらに難しい事情があります。

霊媒が、霊のもたらす情報を語ったとしても、霊は「生きている者」ではなく、「既に死んだ者」であって、間違いなく、その者がもたらす情報かどうかを確認する方法が確立できないからです。

「クロスコレスポンデンス」(霊が何人かの霊媒に情報を分断して伝えて、一人の者では意味をなさず、全体で始めて意味をなすような内容となる交信方法)など、多くの工夫もなされ、確かに霊によるものと思わせるだけの、肯定的な結果も出ているのですが、「決め手」には欠けることになります。また、その死者しか「知らないはず」の情報が得られることも多くありましたが、他の何らかの方法で霊媒がそれを知る可能性は排除できず、その「証明」となると非常に困難です。

しかし、「証明」ということは別にすれば、死者や高級霊とされる霊が語る霊界通信の内容には、驚くほどの一貫性があって、とても作為的に作られたとは思えないものも多くあります。霊や霊界について、かなり踏み込んだ内容の、興味深い事実が知られることもあるのです。

そういうことから、霊界通信の内容自体を重視し、「科学的な研究」ということからは離れて、「霊」そのものを「物質的なもの」とは別に存在する価値あるものと認めて、生きるうえでの糧にしていこうとする立場も現れて来ます。それが、何度か触れて来た、「スピリチュアリズム」(心霊主義)の始まりです。

一方で、あくまで、「科学的な研究」ということを重視する立場もありました。その中には、死者と交流する霊媒を対象とするのでは、厳密な研究はできないということで、生きた者の現す超能力現象を研究対象とするべきだというものも出て来ます。それが、実験的な「超心理学」の始まりとなるのです。

この辺りの、歴史的経緯については、前にもあげた、超心理学を概観する、このサイトが簡単に説明していますので、参照してください。( http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/1-2.htm )

ところが、既にみたように、超心理学によって、「超能力」の存在が明らかにされると、それは霊の存在の証明についても、難しい問題を追加しました。超能力があるということになると、霊媒が語る内容が真実である場合にも、それは、霊が語ったのではなく、霊媒が、超能力によって得た情報である可能性があるからです。超能力は一応とも証明された能力とすると、科学的には、証明されていない霊の存在より、優先して採用されなければなりません。さらに、本来、超能力は、限界の想定されるものですが、「超ESP仮説」といって、普通は起こり得ないような込み入った内容の情報や物理的な現象でも、超能力で得られた(なされた)ものとみなすべきという考えも出て来ます。そうすると、事実上、どのような現象でも、霊ではなく、霊媒が超能力で起こしたものとみなければならないことになり、霊の証明自体が、不可能となります。

これは、極端な例ですが、そうでなくとも、やはり、霊の存在を認めることは、超能力の場合以上に、難しい事情にあるということです。

ただし、超心理学の内部にも、霊や、あるいは人間の死後生存の問題を研究することを志す人たちはおり、超能力のように、厳密な実験的方法は無理としても、可能な限り科学的なアプローチで、迫ろうとするものがあります。これらは、それなりに、多くの成果をあげ、いわば「情況証拠」的な積み重ねをもたらしています。

たとえば、テレビなどでもよくとりあげられる、「臨死体験」の研究や、イアンスティーヴンソンを初めとする、「前世の記憶」を語る者の研究などです。

研究の成果の概要

このような科学的アプローチの成果を、ざっとみていきたいと思います。

臨死体験

「臨死体験」は、人が死に瀕するときに体験する、特異な体験です。人により、様々な内容がありますが、大枠で、共通する要素があり、肉体から意識が離脱する、体外離脱、人生を一瞬にして振り返る、走馬灯体験、三途の川や壁などの、ある「境界」との遭遇、既に死んだ者との遭遇、光の存在との遭遇などがあります。日本でも、昔から、民間で、死ぬときに体験する現象として、語り伝えられていたものと多く重なります。それが、現代は、病院で死を迎えることが多くなって、その間際の体験というのが、立ち会った医師にも知られることが増えたことが、科学的な研究の可能性をもたらすことになりました。

たとえば、体外離脱では、肉体は臨死状態でも、肉体から抜け出した意識が、その場をはっきりと観察していて、医師が自分に施した手術などの内容を事細かに語るということがあります。当然、医師はそれを聞いて、驚きます。さらには、その者が病室で見れるわけがない、病院の別の階の窓の外にあったシューズのことを、体外離脱中に見て、詳細に語ったという例もあります。

このように、臨死体験は、個々的に、様々な内容がありますが、核となる共通の要素があるので、全くの作り話とか、単なる幻想とは言えません。また、先にみたように、物理的な事実と符合する内容を含むことがあるので、ただの幻覚ともいえないものです。そのようなことから、できる限り科学的に、多くの事例を解析して、人間の死後生存の問題や、霊の存在について、何らかの結論が見出されることが期待されるのです。

もっとも、これらの体験が、すぐさま、人間の死後の存在や、霊の存在を証明することにならないのは当然です。これらの体験が事実としても、それはあくまで「死に臨した」状態の体験であって、「死後の体験」そのものではないということもあります。臨死の状態では、脳の活動は停止しておらず、体験の内容も、脳の危機的な状態が生み出した、何らかの幻覚という可能性があります。たとえば、酸素の供給不足の状態が脳に幻覚をもたらすことや、側頭葉の刺激により、臨死体験と類似の幻覚が生み出されることが、実験的にも分かっています。だから、科学界の主流は、これらの体験を、事実とは認めず、幻覚とみます

しかし、自動車事故などで、脳を大きく損傷し、とても意識が機能する状況ではないのに、鮮明な内容の体験を報告する例もあります。さらには、脳死と判定され、脳波の活動も停止した状態で体験された臨死体験も、かなり報告されています。そのような状態では、幻覚を見ることや、記憶が残ることも不可能のはずで、脳の活動から独立した意識の働きが、想定されなければ、説明がつかないことになるはずです。また、たとえ、何らかの微弱な脳波の活動は残っていたとしても、その状態で、臨死体験のような、鮮明で、一貫した内容の体験が可能とは、とても思われません。

このような、脳活動停止後の臨死体験について、斎藤忠資という研究者が、ここに、簡潔にまとめています。(https://home.hiroshima-u.ac.jp/tadasi/ronbun-12.pdf )

さらに、先に見たような、体脱体験中に、物理的現実と符合する事実を報告するなどの例は、とても幻覚では説明できません。ただし、これも、肉体から離脱した「魂」によるのではなく、「超ESP仮説」のように、一種の「超能力」のなせる技である、と解する立場もあるのですが。

何しろ、「科学的」に厳密にいうならば、現在のところ、臨死体験が意味することについて、明確な結論は出ていないというしかないでしょう。ただし、科学界の主流は、先にみたとおり、臨死体験を、脳が生み出した幻覚とみなします。しかし、それでは説明できない場合が、あまりに多くあるのは明らかというべきです。

こういったところが、臨死体験の研究の概要ですが、臨死体験の例は、現在も非常に増えていて、かなり興味深い例も出て来ています。次回は、それも紹介しつつ、私なりに考察を試みたいと思います。

前世記憶の研究

次に、「前世記憶」の研究です。

後に、7,8才位になると、自然と記憶を失ってしまうことも多いのですが、幼年期に、「前世の記憶」を思い出して、詳細に語るという現象があります。欧米や日本など、輪廻転生または前世が信じられていない文化では、それも、何かの間違いとして、特に注目されずに、やり過ごされてしまうことが多いでしょう(ただし、最近は、注目されることも多くなっています)。ところが、インド圏のような、輪廻転生が信じられている文化では、その現象に注目され、実際にその語ることが、事実と符合することが確かめられるという事例も、多く存在しています。

バージニア大学のイアン・スティーヴンソンは、そのような「前世の記憶」を語る子供の例を、できる限り科学的に研究することで、事実に迫ろうとしました。そして、実際に、前世の存在を仮定するのでなければ、説明がつかないという事例が、多く存在することを明らかにしています。(『前世を記憶する子供たち』)

前世の記憶として語られた内容が、事実に符合するといっても、何らかの方法で、その子供がその事実を知ったという可能性は、当然あります。たとえば、親や親族などが、自分では覚えていなくとも、その前世とされる者のことを過去に語っていて、子供が何らかの仕方でそれを記憶していた、ということなどが考えられます。しかし、そのように、親や周りの者が、通常の仕方では知り得ないような内容のことを、詳細に語って、後に特別の調査により、事実と符合することが分かったという事例も多く存在します。

『超心理学読本』の著者である、笠原敏雄が、このようなスティーヴンソンの研究の概要を簡単にまとめたものが、ここにあります。(http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/parapsy/previousmemory.html )

スティーヴンソンの研究を引き継ぐタッカーは、より調査のしやすい、欧米の子供の例においても、詳細に前世の記憶を語る子供の事例を報告しています。たとえば、アメリカの事例で、第二次大戦時に、戦闘機に乗って戦闘に参加したが、日本軍により撃ち落とされたという記憶を詳細に語る、ジェームズ君の事例があります。これは、その記憶の内容を疑う父親により、詳細に事実関係が追究されて、逆に真実と符合するものが多くあることが判明したというもので、非常に興味深いものです。たとえば、ここに、その事例が紹介されています。(https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=126720 )

このようなものは、もはや単純に、記憶錯誤とか、潜在的に知り得た記憶を語ったに過ぎないなどの説明は、つかないでしょう。ただし、「前世の記憶」であると結論するのは、「前世」ということの意味内容が、十分具体的で明確でないこともあり、難しいのも確かでしょう。

ただ、最近は、「前世」ではなく、「中間生」と呼ばれる、死んでから、生まれ変わるまでの間の、(霊界での)生についての記憶を語るというものも、出て来ています

記憶を遡る退行催眠によって、「中間生」の記憶が語られるというものもあって、その内容にはみるべきものがあるのですが、その場合には、術者の影響が入り込んでいる可能性を排除できません。しかし、自然に思い出して「中間生」の記憶を語る例もあり、日本でも、産婦人科医池川明は、そのような事例を多く体験し、紹介しています。(『子どもは親を選んで生まれてくる』。なお、講演の動画 https://www.youtube.com/watch?v=PLBj0HvmkyI

このような「中間生」というものが間にあるとすると、死後の生との関係で、「生まれ変わり」とか、「前世」ということについて、ある程度一貫した、具体的なイメージをもつことも、可能かもしれません。

いずれにしても、いきなり「前世」の存在そのものを認めることは難しくとも、これら「中間生」や「前世」の記憶というものが、自分のものという明確な意識のもとに、詳細に語られ、事実と符合することもあることを考えると、死後も何らかの形で、同一性をもって残る、「霊」または「魂」のようなものを想定することには、十分の理由がある、とは言えると思います。

以上、「臨死体験」と「前世記憶」という2つの研究について概観しました。これらは、今後の研究においても、さらなる発展が見込まれるもので、注目されるところです。

次回は、これらを参照しつつ、さらに「霊」について総合的に考察してみたいと思います、。

posted by ティエム at 22:32| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月13日

「霊」とは何か

「霊」の見方

「霊」は存在するのでしょうか。しかし、「霊は存在するか」と漠然と問うても、そもそも「霊とは何か」というのは、結構難しい問題です。この場合も、「存在する」とはどういうことか、ということが問題となります。少なくとも、「物質的なもの」と同じ意味で、「存在する」というのではないことは明らかだからです。

とはいえ、あまり、このような問題に拘るのも、得策ではありません。以下、一通り、「霊」の意味するところを、みておくことにしましょう。

「霊」は、辞書でみると、「たましい」、「魂」、「精神」を意味するとされています。まあ、これは、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というものを、広く漠然と指す意味に解してよいでしょう。

しかし、普通は、「霊」というと、人間の死後、その者の生前の特徴をもって現れ出る「霊」、すなわち「幽霊」のことを指すと思われます。「霊」は、人間の死後も、つまり、肉体がなくなった後も残る何物かであることが、前提とされているのです。先の、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というのとも、「死後にも残るもの」ということで、通じることになります。「霊」は、死後は消滅する、「肉体」とは区別されるものという意味を、特にもっているということもできます。

同じような意味合いで、「魂」という言い方もよくされますが、「霊」と「魂」は、本来は同じ意味ではなかったようです。それは、中国でも、西洋(「スピリット」と「ソウル」)でも同じです。

そもそも、このような、人の心にある「実体」を、「一つのもの」のようにみなすのは、近代人の発想に過ぎません。人には、一つのまとまった、分割できない「自我」がある、という発想です。しかし、たとえば、古代エジプトでも、「霊」には、「バー」と「カー」という二つのものがあり、中国でも、「魂」と「魄」という二つのものがあるとされていました。そして、「バー」や「魂」は、天に帰り、「カー」や「魄」は、地に帰ると解されていました。

「バー」や「魂」は、より肉体から離れた、純粋に「精神的」要素の強い「霊」の部分で、「カー」や「魄」は、より肉体に近い、(「物質そのもの」ではないが)「物質的要素」の強い「霊」の部分ということがいえます。「魂」と「魄」で言えば、「魂」は「陽の気」で、「魄」は「陰の気」ということもいわれます。

さらに、先住民の文化やアイヌなどでは、「霊」には、二つどころか、多くがあり、かなりややこしいものがあります。ただ、もともと、生まれながらに多くあるというより、後に、「憑く」という形で、取り込まれるものもあるようです。

シュタイナーなどの「オカルト」説では、「霊」「魂」「体」の三分説というのが
よくいわれます。「霊」というのは、純粋な「意識」の部分で、「魂」というのは、「霊」と「体」をつなぐ、中間的な部分、「体」というのは、「肉体」的な部分です。ただし、この「体」は、「物質的な肉体」に限らず、「エーテル的」、「アストラル的」なものが、あるまとまりをなして、まとわれるという形の、「体」も含みます。

このように、肉体以外の「体」を認めるわけですが、一般に、幽霊などが目撃されるときも、生前の肉体とそっくりの「体」をまとっていることから、理解できると思います。「幽体離脱」などでも、肉体にそっくりの体が離れるということが言われ、また、体験者には、そのとおり実感されます。

何しろ、「三分説」では、これらの「霊」「魂」「体」の三部分が、互いに絡み合って、全体として人間の個体を、構成しているとみるのです。

いずれにしても、「霊」とは、単純に「一つのもの」とは言えないということを、確認しておくことは必要です。近代人には、違和感があるでしょうが、自分の中にも、相入れない心の要素が多くあること、「多重人格障害」などの例でみるように、多くの人格が現れ出ることもあることを顧みれば、納得できないことではないでしょう。

とすれば、「死後に残る霊」といっても、必ずしも、一つのものとは限らないわけです。また、「スピリチュアリズム」においては、「類魂」と言って、死後の魂は、同じ魂のグループに融合すると解するものがあります。この場合は、むしろ、死後の霊が融合して、生前のような、一つのものではなくなる可能性があるわけです。

また、「霊」は、一つのものではないとすると、自分の中の、一部の霊が、生きている間にも、「抜け出る」ということもあり得るわけです。「生き霊」といわれるものがそうで、それが他人に憑くということもあるとされます。

「物質的なもの」と「霊」

先に触れたように、「霊」というのは、「肉体」つまり、「物質的なもの」に対する言葉ということも、重要な視点です。前に、スピリチュアリズムは、「物質的なもの」に対抗する意味合いをもって、出て来たことを述べました。まさに、「物質」ではなく、「霊」をこそ重視するからです。

ただし、「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかというと、そんなことはないのです。

たとえば、「幽霊」というのも、物質的なものと同じように現れることがあります。『呼び覚まされる 霊性の震災学』でも、まったく普通の乗客と同じように、しゃべり、触れることができるので、タクシードライバーが、メーターを倒して普通に載せると、途中で消えてしまったという「幽霊」の話が載っています。私も、経験がありますが、見かけ上、まったく生きている、普通の人間と変わらない幽霊もあるのです。ただし、いずれ、消滅したり、既に死んでいる人であることが分かることから、「幽霊」と判明するのです。

「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかのようにみなす発想も、近代に始まるといえます。デカルトの「物心二元論」というのが、その象徴でしょう。スピリチュアリズムも、科学など、物質的なものについての知見が重ねられて、「物質的なもの」というのがある程度明確になって、初めてそれに対抗する「霊的なもの」が、重要なものとして認識されたということができます。

ところが、近代以前には、「霊的なもの」といっても、「物質的なもの」と明確に区別されず、不可分のようにみなされていたのが分かります。それは、「物質」についての知見が、あまりなかったからということもありますが、しかし、全体としては、より真実そのままを捉えていたことになります。

先の、「バー」と「カー」や「魂」と「魄」の発想も、そのような「物質的なもの」と結びついた「霊的なもの」をはっきりと認める発想です。

しかし、「霊的なもの」が「物質的なもの」のように現れ出ることがあることを、理解するには、「霊的なもの」と「物質的なもの」の関係を、ある程度はっきりさせておくことも必要でしょう。

いずれ詳しくみますが、簡単に述べておくと、シュタイナーなどの「オカルト説」では、「霊的なもの」が「物質的なもの」を包含し、「霊的なもの」が凝縮されて、「物質的なもの」として現れ出るという発想をします。先の、物質的なものとして現れる幽霊も、そのような見方によって、理解できます。幽霊以外にも、ポルターガイスト現象や、ラップ音など、物質的な現象を起こす「霊」は多くありますが、それにも、同様の発想ができます。スピリチュアリズムでは、「エクトプラズム」という、半物質的な霊的エネルギーを使って、「物質化」がなされると解します。

人間以外の存在と「霊」

しかし、人間に「霊」というものがあり、死後も残るのだとしたら、人間以外のものにも、そのような霊がある可能性があることになるはずです。それは、人間以外の動物ということに、とりあえずはなります。しかし、人間の霊が、肉体がなくても、霊だけで存続できるとすれば、もともと肉体がなくても、霊だけで存在しているものもいるのではないか、ということが問題となります。

実際、昔からいわれた、人間以外の「精霊」や「神々」「妖怪」なども、そういった存在です(先にみたように、「物質化」して現れることはあります)。一神教にいう「神」もまた、そういうものともいえます。「霊」を認めるとなると、このような、昔から信じられた存在を、認める可能性も出てくることになります。というより、「霊」を認めるなら、人間だけにしか認めないという方が、むしろ不自然なことになるでしょう。

「霊」が「存在する」ということ

初めに述べたように、このような「霊」が「存在する」とした場合、それは、「物質的なもの」と同じ意味で「存在する」ということではありません。たとえば、幽霊の場合、姿かたちが、一部分だけだったり、半透明に透けていたり、大きく変形していたりと、「物質的なもの」では不可能な現れ方をしたりします。また、先にみたように、「物質的なもの」と同じ現れをすることはあったとしても、いずれ消えてしまうなど、「物質的なもの」そのものとはみなせないことになります。

このようなものは、「物質的なもののみが存在する」という見方からすれば、「存在する」とはいえないものとなるでしょう。逆に言えば、「霊」を認めるということは、「物質的なもの」とは別のものが「存在する」ことを、認めるということです。「存在する」ということの意味合いそのものに、大きな変更を加えることになるということです。「世界観」としても、大きな変更になるのは、当然のことでしょう。

ただし、「霊」も、「物質的なもの」と結びついている範囲で、科学の対象にはなり得るとも言えます。実際に、霊についても、科学的にアプローチしようという試みは、超能力の場合と同様に、あります。次回は、それについてみることにします。



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2018年08月27日

「超能力」について 3

文化的な視点から

超能力については、科学的な視点のほかにも、文化的な視点から考察することが、重要と思います。というより、そもそも、「科学」という発想そのものが、「近代社会」という、特定の文化に生まれたものなので、広い意味では、文化的な視点の一つにほかならないのです。

科学には、特に、その一神教的な発想が強く影響しています。簡単に言うと、唯一の神によって作られた「宇宙」は、その神が設定した、唯一の数理的な法則によって統べられている、という発想です。この発想は、そこからはみ出るもの、つまり、あやふやなものだったり、明確な法則で捉えられないものは、極力排除しようとします。このような発想は、非常に狭く、排他的なものですが、それによってこそ、成功を収めた面もあるのは確かです。しかし、後にみるように、他の文化をみれば、何ら普遍的なものではなく、一つの、特殊な「文化」の見方に過ぎないことが分かります。

「科学」については、いずれまた、改めて考察することになりますが、何しろ、それだけで、超能力やその他の「オカルト的」な現象を判断することはできないということです。

そこで、「文化的な視点」ですが、それは、このような近代社会以外の文化において、超能力のような現象が、どのようにみられているかという視点です。

「近代社会以外の文化」とは、西洋または世界全般でいえば、近代以前の時代の文化ということになります。しかし、現在でも、それが生きている文化は、いくらもあります。日本の伝統文化もそうですし、特に、「先住民の文化」がそうです。

これらの文化においては、共通して、超能力のような現象は、当然のように認められていました(す)。超能力だけでなく、「霊的な存在」が広く認められ、人間の霊のほかにも、様々な「精霊」または「神々」といった存在が認められていた(いる)のです。認められていた(る)だけでなく、生活上において非常に重視した(する)のです

「超能力」というのも、近代人が解すように、「個人的な能力」というよりは、これらの「霊的な存在と交流する能力」、あるいは、「霊的な存在の力を自分を通して現す能力」という意味合いが強くなります。霊的な存在や神々との関係抜きには、あり得ない能力ということです。そのような能力は、一般の人も現すことがありますが、特にそれを現すのは、やはり、「シャーマン」あるいは「霊能者」という特別な者になります。そういった者が、逆に、これらの存在を「使役」するということもありますが、そうなると、それは、「呪術師」とか「妖術師」ということになります。

「魔女狩り」のところで述べたように、西洋の近代以前には、「魔女」が広く信じられていました。これは、一神教的な神への信仰が、これら伝統的な文化の「精霊」や「神々」を「悪魔」として貶めたために、それと結びつけられて、「魔女」という風に捉えられたのです。一神教的な変更を受けていますが、「魔女」も、一種の「呪術師」的な存在として、信じられ、恐れられていたのです。

それを「排除」するべく、「魔女狩り」が起こり、そこから、近代社会が出現したことは、既にみたとおりです。だから、近代社会は、出自そのものが、そのようなものの「排除」と結びついているのです。

何しろ、こういったことは、近代以前の文化としては、歴史的な記録を通して知るしかありません。しかし、現在においても、それが生きている、先住民文化などでは、人類学者などのフィールドワークを通して、多くのことを知ることができます。これらの文化では、超能力や霊的存在が、当然のように信じられているわけですが、研究者の中には、自ら、実際に、そのような現象を体験して、報告する者もいます。たとえば、シャーマンによる、「治療儀礼」などの儀式において、感染症のような病気が治るなどのことです。

『ミュータントメッセージ』という本は、「事実に基づいて書かれたフィクション」ということですが、アポリジニーの普通の人たちが、互いに離れたところでも、当たり前のようにテレバシーで意思を通じ合わせるところが、詳しく描かれています。これに近いことの報告は、他にもよくあります。

日本でも、アイヌ文化を踏み込んで研究した藤村和久は、アイヌの長老が、いつ誰それが来るとか、カラスの鳴き声を通して、誰それが死んだとか、天気がどうなるなどのことを的確に当てることを、驚きとともに報告しています(『アイヌの霊の世界』小学館)。カルロス・カスタネダの「ドンファンシリーズ」を知っている人は、メキシコのシャーマンであるドンファンが、やはりカラスの鳴き声を通して、同意や前兆を受け取っていたのと、似ているのが分かるでしょう。

これらは、ほんの一例に過ぎませんが、もちろん、厳密な科学的方法によって、明らかにされたものではありません。しかし、これらの文化が、普遍的に、共通して、しかも、非常に長い間にわたって、このような現象や存在を身近に信じ、文化の中心にして、生きて来たことは、驚くべきことというべきです。それに比べれば、西洋の近代とは、わずか200年余りの最近の出来事によって生じたのに過ぎず、実績もあまりに短いものです。しかも、それは、既に、綻びをみせています。そのような近代社会とは、人類の文化全体の中では、むしろ「異端」というほかありません。

西洋近代の方では、それらの文化を、迷信であり、科学的な知識がないために、怖れから、信じたに過ぎないものとみなします。しかし、たかだか200年余りの文化が、それだけ長く続いた、普遍的な文化に対して、そんなことを言えるはずがないでしょう。それが本当だとすれば、人類は、ずっと長い間、誤った迷信を信じて生きて来たのが、ここ200年の近代人が、ぽっと出てきて、突然それを覆し、唯一、「真実」を生きるようになった、ということになります。しかし、そんなことは、とても信じ難いことです。

何も、長く続いているから、普遍的だから「真実」で、異端だから「間違い」だということではありません。しかし、少なくとも、普遍的な文化が、そのように信じることで、長い間、生を全うして来たなら、そこには何らかの真実が含まれているはずだ、という風に考えるのが、当然のことなのではないでしょうか。

再び、超能力を認めることの意義

ここで問われているのは、何も、近代社会の「すべて」ということではありません。問題なのは、初めに少し述べたように、近代の排他的な見方である、「科学によって全てを捉えることができる」という発想なのです。普遍的な文化は、「科学」によっては捉えられない領域というものを信じ、そちらこそを重視して来た文化といえます。だから、このような見方をする限り、これらの普遍的な文化を、入れる余地はありません。まさに、「排除」するしかないのです。

そのような普遍的な文化と、「融和」があり得るとすれば、頑なな「排除」は止めて、「科学によっては捉えられない領域」もあり得ることを、認めるしかないことになります。しかし、それは、近代社会にとっては、そのあり方自体についての、根本的な変革を迫るものとなるのは事実です。そもそも、近代社会とは、そのようなものを「排除」することでこそ、成り立ってきた文化なのですから。

しかし、前回みたように、近代社会の側の、科学という方法によっても、超能力の存在が、「統計的な有意性」という範囲であれ、明らかにされているのです。このことは、これらの文化の信じて来たことを、見直すだけの根拠も十分与えているというべきです。超能力は、科学との接点を持つが故に、そのようなことが明らかにできたといえます。そのことがもたらす意義は、とても大きく、それは、これらの文化の普遍的に信じる、「霊的なもの一般」へと目を向けさせる契機にもなるはずのものです。

超能力は、脳または身体を持つ、生きた者が発揮する能力ですが、それは、意識が、脳や身体など物質的なものを超えて、作用することがあることを、物語っています。超能力は、「電磁波」の作用によって起こるという見方もありましたが、電磁波を通さない条件でも成功した実験は多くあり、また距離に影響を受けないこと、意志により選択的に働くことなどからも、もはや無理なものとなっています。

従って、超能力は、それが認められるなら、脳や身体から独立して働く「魂」のような存在を、少なくとも示唆することにはなります。そして、それを広げれば、「霊的な存在」一般の存在をも示唆するものとなり得ます。これらのことは、結局、普遍的な文化が信じて来たことと通じることになるのです。

前回みたように、超能力の存在は、一般人による、「統計的な有意性」という範囲でしか、明白にはなりませんでした。しかし、それは、一般人を対象とした、科学的な方法という限定された方法で、明らかにされた範囲のことだからです。さらに言うと、そのような範囲にとどまるのは、近代人は、超能力のような現象を否定する文化的環境の中にいること、また、日常的に物質的な技術を頼るので、そのような能力を発揮する機会も必要性も少ないことが大きく影響しているというべきです。(前者については、実際に、超心理学的にも、「信じる」人の方が能力を発揮しやすいことが分かっています。)

それに対して、普遍的な文化、特に先住民の文化では、周りの環境は、普通に信じる人たちに取り囲まれているし、また、様々な生活上の危機や必要に対処するために、それを使う機会や必要性も多くあったということが大きいのです。

近代人においても、超能力を排除せず、一般に認められるようになれば、それを発揮する機会は、確実に増えることでしょう

前々回も触れたように、超能力を認めることは、たとえば、「呪い」のような、望ましくない方向での力の発現も認めることになります。近代人が恐れる意味での、「オカルト」そのもののような現象を、引き入れることになるということです。それが、ネックになるのは間違いないでしょうが、それさえ克服されれば、本当に、かなり劇的に、これらの現象を迎え入れることになると予想されるのです。

前回、多くの人の集合的な意思が、超能力の明白な発現を拒んでいる可能性について述べました。しかし、既にみたように、それは、しょせん、「近代人」という特殊な文化の中でのことです。人類の普遍的な文化は、既にずっと、そういうものを認めて来ているのです。だから、それが覆ることもまた、全体としてみれば、さほど困難なことではないはずです。

次回は、さらに進んで、「霊」について述べます。

posted by ティエム at 23:43| Comment(0) | 超能力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする