2018年12月10日

様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」

前に、記事『「霊」とは何か』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/461645415.html )で述べたように、「霊」なるものがあるとすれば、人間にだけでなく、いろいろな存在にもあるはずです。また、もともと、霊だけで存在できるのだとすれば、物質的な身体をもたない「霊的存在」というのも、種々いるはずです。

実際、近代以前または近代以外の「普遍的」な文化は、そのように解して来ました。動物には、「動物霊」が宿り、木などの植物にも、その植物の「霊」が宿ります。そればかりか、石や鉱物にも、何らかの霊的なものが宿っているとされます。

また、物質的な身体をもたない霊的存在も、広く認められています。「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」など、文化や宗教形態により、様々な呼び方がありますが、これらはすべて、そのような存在です。「スピリチュアリズム」では、これらを「自然霊」と呼びます。

これらのほかに、現代では、「宇宙人」と呼ばれるものも、重要な存在となっています。「宇宙人」というと、太陽系外の惑星に住む、人間と同様の存在というイメージでしょうが、広く、宇宙起源の、地球の人間と関わり得る存在が問題です。そして、これらは、単純に、人間を基準にして、物質的な存在とするわけにはいきません。物質的なものを超えた、「霊的存在」の一種と解すべきものも多く、現に、かつては、先のような、「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」などと呼ばれていた可能性があります。

この「宇宙人」については、次回、改めて述べたいと思います。

日本の神道では、「神々」は、岩や鏡、神木などの、「御神体」に宿るとされますが、それは、一定期間、または一時的に宿っているのであって、本来、物質的なものを住処としないで、自由に移動できる、霊的な存在です。

「妖精」や「妖怪」などは、「UMA」(未確認生物)と言われることもあり、物質的な存在と同様に、視認され、人間と接することもよくあります。日本では、妖怪としての「狐」や「狸」、あるいは「カッパ」などが有名でしょう。

しかし、これらの存在も、常に、物質的な形態をとっているわけではなく、ある期間、または一時的に、「物質化」しているものと解されます。「神々」や「精霊」なども、一時的に「物質化」して現れることがあります。前に触れたように、人間の幽霊ですら、「物質化」して現れることがあるのです。

記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊的なもの」は、本来「物質的なもの」を含むので、それが凝縮して、物質的なものとして現れ出ることもできるのです。ただし、それには、相応のエネルギーがいるようで、長い間、物質化していることは難しいようです。

このような、様々な「霊的存在」が認められるようになったのは、一つには、このようにして、物質化して現れて、人間と接することが多くあったからと思われます。どこの文化にもある、「昔話」や「伝説」に記録されていることは、文化的な脚色を受けているとはいえ、本当にあったことなのです。現在でも、「都市伝説」として、このような「接触」は多く伝えられています。

私自身、(「宇宙人」も含める必要がありますが)これらの存在が物質化したもの(と解すほかないもの)に、出会ったことがあります。

しかし、これらの霊的な存在が、広く認められるもととなったのは、やはり、「シャーマン」という特別の能力をもった人間を、介してのものと思われます。シャーマンは、先住民文化において、どの共同体にも、一人はおり、これらの霊的な存在と交流する特別な能力を備えています。そして、それらの存在から、様々な知識を与えられたり、守護されたり、あるいは、こちらから、交渉して、さまざまな力を引き出したりします。それが、儀式などを通して、共同体の多くの者にも、共有されるわけです。

だから、先住民文化にとっては、このような霊的な存在が、普遍的に認められることになるのです。文明化した文化においても、その伝統は、多かれ少なかれ引き継がれており、かつてのシャーマンの役割をする者は、存在しています。 それで、そのような文化においても、このような霊的な存在は、認められているのです。ただし、先住民文化の「精霊」などの存在こそが、その原点のようなもので、より原初的な姿を現しています。文明化された文化の、「神々」や「神」などは、文化的に脚色された「観念」を、多くまとっていると言うべきです。

私も、また、記事『私の体験から』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/460455111.html )で述べたように、(物質化して現れたものとは別に)霊的な存在としての、様々な「精霊」と遭遇しました。これらは、人間と共通する面もあり、似たものとして現れ出ますが、人間とは異質の面が強く、かなり強烈(ときに攻撃的)な存在です。それで、それまで人間という存在しか想定していなかった私は、大きな混乱に見舞われました。実際、人間という範疇の想定しかない者にとっては、そうなるしかなく、その混乱が、周りには、「病的」とみなされるような、危うい反応をもたらすのです。「妄想」というのも、その遭遇を、自分の理解できる範囲のことに引き寄せて、自分流に解釈した結果です。

それは、かつては、そのようなものとして「知られたもの」だったわけですが、近代になって、そのようなものを「ないもの」として切り捨てたので、それに対処する手立てを失った、ということによる面が大きいのです。

これらの存在は、「神」や「神々」という言い方だと、洗練されたイメージになるでしょうが、実際、エネルギーに満ちた、「荒々しさ」というものを醸し出しているので、「精霊」という言葉がぴったり来ます。

それらは、性質にもいろいろあり、人間からみれば、「善」または「味方」、あるいは「悪」または「敵」という捉え方で、捉えることもできます。「天使」や「悪魔」という言い方は、それを反映したものといえます。ただし、そこには、やはり、多分に、人間の都合による、解釈が入り込んでいます。「善なるもの」といい、「悪なるもの」といっても、人間からみた、人間の都合により、それらに押しつけられた「観念」に過ぎない、という面が多くあるからです。

とはいえ、もし「悪魔は存在するか」と問われるならば、当然、「存在する」と言わなくてはなりません。人間にも、「悪人」がいるのに、霊的存在に、「悪なる存在」がいないはずがありません。そして、そのスケールも、当然、人間とは比べ物にならないものとなります。

様々な「霊的存在」について、みて来ましたが、それらが、ただ単に「存在している」というだけでは、それを特に問題にする意味もありません。それらの存在が、人間に対して、多くの影響を与えていると思われるからこそ、問題にする意味があるのです。

先にみたように、そもそも、先住民の文化からして、シャーマンとの交流を通して、「精霊」が、多くの部分をもたらしたといえます。木内鶴彦氏の臨死体験の例でもみたように、霊的な存在は、人間を通して(憑依して)、様々な行為をすることもできます。我々の意思に基づくと思われている、人間の行為の多くが、霊的な存在の影響によるという可能性は、常にあるのです。何しろ、我々が思っている以上に、霊的な存在の影響を受けているというべきなのです。

ところが、近代に入って、そのような存在がいないとみなされて、「排除」されたため、人間とそのような存在との関係は、大きく変化したと考えられます。特に、それらの存在の中でも、これまで人間に友好的に働きかけていた存在との関係が、大きく「断たれた」可能性があります。そして、それは、その間隙をぬって、逆に、「悪意」ある存在が、人間を好きなように、「支配」する契機をもたらしたといえます。自らの存在が知られることもなく、他の霊的存在に邪魔されることもないので、いいように、人間と関ることができるからです。

実際、現代とは、かつてないほど、人間が、「悪魔的存在」の影響のもとにある時代ということがいえます。現代の社会情勢や、人間同士のあり方を顧みれば、それも頷けることのはずです。争いや戦争が絶えないのも、その影響によるところが大きいのです。もちろん、人間そのものにも原因がありますが、人間の内部からのみそれを追究しようとしても、なかなかうまくいかないし、現にそれが止むことはないでしょう。人間が、そのような存在がいないと思っていればいるほど、なぜとは明確に分からないままに、その影響から脱せられない状況を、闇雲に拡大し続けてしまうのです。

何度も触れたように、「オカルト」という言葉が、「おどろおどろしい」ものを連想させ、嫌悪感をもたらすことにも、この「悪魔的存在」の影響が強く働いています。人間は、表面的には否定しつつも、「オカルト」という言葉が、「悪魔的なもの」と結びつくことを、心のどこかでは知っているというべきなのです。

記事『私の体験から』でみたように、この世的なものからはみ出して、霊的世界の入り口に踏み出す体験が、病的なものになりやすいのも、その影響が強く働いているからです。実際、私の遭遇した存在の多く、というより、私が最も強いインパクトを受け、影響を被った存在も、 そのような悪魔的存在です。そして、一連の体験の間には、このような存在が、いかに多くの人間に影響を与えているか、いやというほど、肌で知らされることになりました。

私は、このような存在を、人間の「善悪の観念」に入れ込んで、「悪魔」と呼ぶのは適当でないために、「捕食者」と呼んでいます。ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、多くそれに触れています。こちらでも、それについては、改めて述べることにします。

いずれにしても、現代では、特に、このような悪魔的存在との関係を問い直すことが、重要になっています。私が、「オカルト」ということを、正面から問題にする理由の半分も、実は、そのことにこそあると言ってもいいのです。

posted by ティエム at 23:39| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月20日

木内鶴彦氏の臨死体験

今回は、スウィフト・タットル彗星の発見者である彗星研究家、木内鶴彦氏の臨死体験を紹介したいと思います。

氏の臨死体験は、立花隆の『証言・臨死体験』(文春文庫)にもとり上げられているもので、とても興味深いものです。以下、簡単にまとめられている、『木内鶴彦の超驚異的な超宇宙』(ヒカルランド)(超「超」がついていますが…これは毎度おなじみの超「お約束」)を参照に、要点と特に興味深い点だけ述べます。詳しく知りたい方は、本やネットで調べてみてください。なお、インタビュー動画 (https://www.youtube.com/watch?v=PUtBIf4NnJE))があります。

氏は、死線をさまよう大きな病気により、二度の臨死体験をしています。初めの臨死体験には、脳波停止、心肺停止で「死亡」を宣告されて30分後に甦生したときの体験が含まれていて、医師のカルテにも「死後甦生」と記録されています。前回みたように、「脳内幻覚説」では説明できないものです。

氏も、臨死状態で、病院で周りの者がする処置を見ていたり、既に死んだ親類の女性に導かれて、祖先などのいる「死後の世界」を垣間見るなど、多くの人と共通の体験をしています。

ところが、氏は、「死亡」後の体験で、かなり「特異」な体験をします。死亡を宣告された後も意識がはっきりとあり、病室のベッドの自分の肉体を見て、意識だけの存在になったことに気づくと、自ら意思して、空間を自由に移動するだけでなく、時間を超えて、過去や未来にも行けるようになったというのです。

氏は、6才の頃、川の土手で遊んでいたとき、誰もいないはずの後ろから、「危ない!」という大きな声を聞き、上を見ると、大きな石が転げ落ちようとしているところで、前にいた姉を前に押して、すんでのところで助けることができたという体験をしています。

その体験のことを思い出し、その「声」が誰のものだったかを知りたく、その当時に戻ることを意識すると、まさにそのときの光景が上から見えました。そして、石が落ちそうになっているので、思わず「危ない!」と、大きな声をあげたのです。すると、当時の自分が姉を押して、助けるところが見えます。なんと、その「危ない!」という声は、後の自分、それも臨死体験で、意識だけの存在になっていた自分のものだったということです。まるで、SFドラマのストーリーのような展開です。

さらに、氏は、古代エジプト時代に戻って、ピラミッド建設の現場を見たり、原始の地球には月がなかったことを確認し、月の誕生は、今からなんと1万5000年前のことだったことを見たりします。また、さらに遡って、生命の誕生の瞬間を見たり、宇宙誕生の瞬間を見たりもしているのです。

ピラミッドについては、今から6000年前のことで、犬や鳥のような頭をし、体は人間のような「宇宙人」が、人間を使って、建設させたということです。「宇宙人」は、土に掘った穴に水と「薬品」のようなものを入れて、軽石のようなものを作り出し、それを人間が4人がかりで持ち上げて、隙間なく積み上げていくことで、完成したというのです。

月は、地球に近づいた巨大な彗星が、地球の引力によって捕獲されて月となったということです。その彗星は内部に大量の水や氷を蓄えていたため、それが太陽の熱により水蒸気と化して、地球に大量に降り注ぎ、地上の多くが海に沈むことになりました。当時、地球にも文明があり、それも失われましたが、それが「アトランティス大陸の沈没」であり、「ノアの洪水」ということてです。

宇宙の誕生については、氏が「膨大な意識」と呼ぶ、時間や空間を超越し、理性や知性をはるかに超えた「存在」に包まれる体験を通して、知ることになったものです。

その「膨大な意識」は、それ自体完全で、何の動きや変化もない「退屈」な状態で、自分自身を動かして進化させるために、不完全な状態にしたかったというのです。そのため、ある時点で歪みを作り出し、不完全な形にするべく、宇宙という「物質的な存在」を作り出したということです。

これらは、一般的な「常識」からはかけ離れているため、にわかには信じ難いものでしょう。私も、文字どおりには、受け入れ難いと思っています。氏の体験そのものとしては、「真実」であっても、前回みたように、霊的な体験とこの世的な「事実」との間に、食い違いがあることはあり得るので、その可能性もあります。あるいは、実際の過去の出来事そのものというよりも、一種の「パラレルワールド」的な体験ということも、あり得ます。

しかし、専門的な観点から、氏の「説」に注目する人もかなりいるし、物理学者の保江邦夫のように、氏の体験から示唆を受けて、理論を発展させた人もいます。

また、氏の体験には、「事実」と符合することが確認される部分も、あるのです。さらに、氏は、後に「事実」と確認できるように、自ら訪れた場所に、「痕跡」を残すことをしており、それが実際に確かめられたものもあるのです。

江戸時代の、四国のT神社を訪れたときのこと、氏は、「宮大工の体に入っ」て、造営中の柱に「つる」という字を書いておきました。甦生後、この神社に行く機会があり、そこで宮司に聞くと、「なぜそれを知っているのか?」と驚かれ、柱を見せてくれました。それは、間違いなく、自分が書いた文字に違いありませんでした。そして、宮司から、神社の古文書に、「造営中の柱に突然梵字のような文字が現れ、神様からの言葉かと大騒ぎになった」ことが書かれていると知らされます。

これは、実際に、その時代の物質的な状態に痕跡を残して来たものと解さざるを得ず、このような例をみると、氏の体験の多くも、文字どおり「真実」である可能性はあるものと思わざるを得ません。

そして、このように、「霊的な状態から物質的な現実に働きかけることができた」ことをはっきり示しているのも、興味深い点です

前回、私の体外離脱の体験では、周りの物体を、離脱時の「もう一つの肉体」を使うことでは、動かすことができなかったことを述べました。知覚的には、そのように働きかけることができたというものがあったのですが、物理的な次元では、実現していなかったのです。この点は、氏の場合でも、同じと思われます。ただし、氏は、自分のではなく、他の人の肉体に「入る」ということをして、その人の肉体を通して、物理的な現実に働きかけているのです。そして、それは、現に物理的な次元で、実現することになっているのです。

つまり、肉体から抜け出した「意識だけの存在」の氏が、他の人の「肉体」に一時的に「憑依」することで、物理的に働きかけたということです。しかも、時間を超越して、過去に影響を与えているのです

肉体を離れた存在に、このようなことが可能ということをはっきり示しているのは、興味深いと言わざるを得ません。肉体から離れた存在、あるいは、もともと霊的な存在が多くいるのだとした場合、このようなことは、恐らく、かなり頻繁に行われているはずだということも予想させます。このような存在によって、何らかの行為をさせられている場合があり、しかも時間を超越してなされる場合もあるということです。

この点は、我々が自分の「行為」と思っているものが、本当に、自らの意思に基づいているのかどうか、改めて問い直さなくてはならないことにもなるでしょう。

何しろ、氏の体験は、臨死体験というものが、単に、「死後の世界」を垣間見せるというだけのものではなく、物質的な世界に対する、「霊的な世界」というものの、広大な広がりや深みを垣間見せてくれるもので、貴重なものと言うべきでしょう。

次回も、さらに、そのような霊的な世界の広がりや深みに通じる、人間以外の霊的な存在について、みることにします。
posted by ティエム at 17:25| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月02日

「霊」についての総合的考察 3

次に、理由の2「多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない」について、検討します。

たとえば、霊能力を持っていて、普段から霊と交流しているとか、身近に、そういう人がいるとか、疑いようのない幽霊の体験をしたとか、幽体離脱や臨死体験をして、「霊」の状態を自ら体験したというのでない限り、現在の日本で、「霊」というものを、現実的なものとして捉えるのは難しいことでしょう。

しかし、それは、現在の日本で、「霊」というものが、一般に否定されていること、またあるとしても、稀なことだと思われていることが、強く影響しています。実際には、我々の本質が、「霊」ということなので、「霊」を見たり、体験したり、自ら「霊」の状態を感得したりすることは、本来いくらもあることなのです。

ただ、ほとんどの人は、何らかの形で、そういった体験をしているのですが、それを強く抑圧してしまうため、意識にのぼらないか、のぼっても、一瞬にして忘れ去られてしまっているのが、実情だと思います。

やはり、「オカルト的なもの」についての嫌悪や恐怖が、強く影響しているのです。
このような状況で、「霊」について現実的に捉えることが難しいのは、当然のこととも言えます。しかし、そのような状況でも、「霊」についての現実的な把握を、思いのほか高めてくれる体験があります。それが、前回もみた、「体外離脱」の体験です。

「臨死体験」は、死に臨むという状況での、特別な体験なので、誰もが通常体験できるものではありません。ところが、「体外離脱」の体験そのものは、誰でも、生きている間に体験し得るもので、肉体を抜け出して、「霊」の状態をリアルに体感できる、またとない機会となります。前回みたように、誘発する方法や訓練によって、体験できるようになる人もいますが、そうでなくとも、自然発生的に起こることも多いのです。私の場合は、自然発生的なもので、何度か連続して起こりました。

自ら肉体を抜け出して、外界を知覚し、霊的な世界をかいま見る体験は、強烈な印象を残します。覚醒しているときと同様の、はっきりとした意識を伴うので、その現実感は、明白なものです。「夢」とは異なることが、はっきり分かります。肉体に戻ったときにも、それを自覚できます。体験中、不安や恐怖はありますが、肉体に戻ったときには、非常に気分が爽快です。

たとえ、「霊」についての嫌悪や恐怖が強かったとしても、この実際の体験は、そのようなイメージが違ったものであることを、明らかにしてもくれます。

今後は、この体験のことや、誘発する方法が知られることなどにより、この体験をする人が、相当増えてくると思われます。そうすれば、多くの人にとっても、「霊」というものが、かなり現実的に捉えられるものになる可能性があります。体験そのものをしないにしても、そのような体験について知るだけでも、かなり違うと思います。

そこで、今回は、この体験の、特に、誰もに共通する部分である、「肉体から抜け出してなされる外界の知覚」ということについて、もう少し、具体的な説明をしてておきたいと思います。それこそが、肉体から独立して働く「魂」や「霊」の存在を把握する、基礎となるものだからです。私の場合を中心に述べますが、多くの人の例も参照にはします。

私の場合、それは、ベッドで眠りに入るとき、または眠っていて、一旦目覚めた(と意識された)ときに、起こっています。といっても、後に、肉体に戻ったときに、完全に目覚めるので、通常の覚醒状態ともまた違う、特殊な意識状態です。ただし、意識ははっきり伴うし、覚醒時と同じように、周りの状況をリアルに把握できる状態です。

初め、頭の上の当たりに、強烈な振動を感じ、不安に思いますが、それが全身を包み込むようになったとき、気がついたら、肉体を抜け出して、宙に浮いていたというのが、私の場合の大体のパターンです。肉体を抜け出す感覚は、はっきりとした、リアルなものです。そして、実際に、自分が、部屋の天井の近く当たりまで、浮くのが分かります。外界の知覚は、現実の自分の部屋そのままであり、宙に浮くのに従って、その位置から知覚しているのです。

前々回、臨死体験の知覚と同様の体験は、側頭葉の刺激でも起こせるという実験があることを述べました。しかし、その体験は、あくまで「類似」の「バーチャル」な感覚であって、現実に、宙に浮いた位置から、知覚しているのではないと思います。ただし、側頭葉の刺激によって、本当に、「体外離脱」が誘発されること自体は、あり得ることです。「ヘミシンク」のような、音響効果でも誘発されるので、側頭葉の刺激で誘発されたとしても、不思議はありません。これは、前回述べたように、脳と「魂」や「霊」の関係の仕方の問題であって、そのことが、「幻覚」であることを証するものではありません。

さて、その「知覚」ですが、それは、実際に、自分のいる部屋という物理的な「外界」を、映し取っています。そこが、「夢」との大きな違いだし、夢を見ている自覚のある「覚醒夢」というのとも、違うところです。

だたし、その「知覚」は、通常の覚醒時の「物理的な知覚」とは、また違う面もあるのです。「知覚」そのものの性質が違っているし、「知覚される対象」も、やはり、違う面があります。

この辺りが、多少、「体外離脱」を明解でないものにしていますが、しかし、それは、物理的な身体による知覚ではないのだから、違っていて当たり前だと私は思います。むしろ、物理的な身体による知覚と同じであるとしたら、それは、脳による知覚そのものということになってしまうでしょう。

具体的に言うと、まず、その「知覚」は、視界に外界の全体が満遍なく映るというよりは、特に注目したものが、図と地の「図」のように、はっきり鮮明に浮き上がって見え、その他のものは、「地」のように背景に退く感じです。また、私の場合、初めは、なかなか鮮明ではなく、色もついていない、「白黒」というよりも、「半透明」の濃淡のある感じの場合が多かったです。

この辺りは、「慣れ」ということの影響も考えられ、体験を重ねるにつれて、徐々に知覚が明確になって来るということはあるようです。自ら体外離脱を多く重ねたモンローも、そのように言っていたと思います。

外界にある知覚の対象も、「現実」と符合してはいるのですが、細部では、異なる面もあります。色だけでなく、形なども、微妙に違います。触れば、感触はありますが、「手」が突き抜けたりします。私は実際に実験してみましたが、その対象を、物理的な意味で、本当に動かすことはできませんでした。ただし、知覚としては、あるものを、動かしたという感覚が伴ったので、そのときはそのとおりできたと思っていたのですが、後で肉体に戻ったときに、動いていなかったので、面食らいました。そのような意味でも、その状態の知覚と物理的な現実との間には、食い違いが生じることがあります。モンローも、このことを指摘しています。

ただし、その体験をしているときは、外界が「現実」そのままであることの方に意識がいき、強く驚きます。細部の違いは、あまり気になりません。「食い違い」があるにしても、全体として、「現実」そのままを反映しているということが重要です。

臨死体験で、体外離脱中に、周りの状況を客観的に観察していて、医師が自分にしている施術を事細かに語ったり、窓の外など、見えない位置にあるものを見たりして、それが事実と符合することがあるのは既にみました。これなどは、外界が、実際に、「現実」を反映しているからこそのことです。ただし、そのように現実と符合する場合にも、細かな部分で、その知覚が「物理的な知覚」と同じであるかというと、そうではないと私は思います。

この辺りは、臨死体験者が、あまり明確には語ってはいないようだし、もしかしたら、通常の体外離脱と死の状況で起こる臨死体験では、違う面もあるのかもしれません。しかし、体外離脱でも、モンローを被験者にした実験で、宙に浮いて、ある特定の位置から見ない限り、中が確認できないような装置を使って実験すると、統計的に有意に、それを確認できたという事実もあります。体外離脱でも、外界と客観的に符合する知覚が得られているということです。

いずれにしても、物理的な外界と客観的に符合するかどうかは、その体験が、単なる「幻覚ではない」ということを示す意味で、重要ではありますが、それ以上に、拘る必要のないものと思います。

その体験のリアリティは、必ずしも、知覚における外界との符合ばかりから来ているのではありません。要は、そのような知覚は、「物理的な対象」そのものの知覚なのではなく、肉体から離れて、「魂」や「霊」として、「霊的な世界に踏み出した領域から知覚された限りでの物理的な対象」ということです。あるいは、そのような領域は、「物質的なもの」と「霊的なもの」が相交わる「境界領域」ともいえます。そのような境界領域を「霊界の境域」と言って、それには、独自の性質があることを、シュタイナーも述べています。たとえば、主観的な要素もまた、霊的な領域に「実体」として反映され、知覚の対象となるなどのことです。

しかし、それには、またいずれ触れたいと思います。何しろ、ここでは、肉体を抜け出たときの感覚をはっきり捉える、ということが重要です。

「肉体を抜け出る」という点では、多くの場合、肉体を抜け出て、宙に浮いているときに、自分自身の「物理的な肉体」を見て、衝撃を受けるということがあります。それが、自分が、肉体を抜け出たことを、はっきり意識するのにも影響しているのです。しかし、私の場合は、これはありませんでした。宙に浮いているときに、自分の肉体を見ようとしたことはあるのですが、そうすると、一瞬にして、自分の肉体に戻ってしまったのです。ああ、「戻ってしまった」と思って、また離脱した状態に戻りたいと思うと、その状態に戻ることができました。それで、以後、肉体を意識すると肉体に戻ってしまうので、それはしないようにしたのです。

ただ、そのように、肉体に戻ることと、肉体を離脱することを繰返したので、両者の状態の違いがよく分かるということはありました。それで、自分の肉体を見たわけではなくとも、確かに自分の肉体から離脱したということを、強く意識できたのはあります。

また、多くの人は、肉体を離脱したときに、自分が、物理的な肉体そのものとは別だが、それとそっくりの、「体のようなもの」をまとっていることを知覚します。私も、それは知覚しましたし、また面白いことに、肉体に戻ったときに、物理的な肉体とその「もう一つの体」の両者を、同時に知覚するということもありました。

「もう一つの体」は、先にみたように、「もの」に触れることはできますが、突き抜けたりもします。また、その「体」で、「もの」を動かしたつもりが、実際には動いていなかったことを述べました。これは、物理的な肉体にあるときの習慣で、その体を使って、ものに働きかけようとしても、それはうまくいかない(物理的な次元では実現しない)ということです。考えてみたら、それは当然とも言えます。これが簡単にできたら、そこら辺のもの、たとえば信号機なども、人が体外離脱して好きなように動かしたり、変えたりできるということになって、大変なことになるでしょう。

ただし、霊によって、物理的な現象が起こされること自体は実際にあることなので、霊的な状態において、物理的なものに働きかけることができないということではありません。

いずれにしても、肉体から抜け出て、「魂」または「霊」となったら、我々が通常生きている「物理的な世界」そのものから、もはや離れて、「霊的な世界」に足を踏み入れて、その世界から「物理的な世界」を知覚したり、体験したりしているのだということです。

重要なのは、「肉体」という物理的なものから抜け出ても、意識や知覚があり、それこそが「魂」や「霊」という、我々の本質的な部分を指し示しているということです。物理的な肉体の機能している状態での、体外離脱という現象だけでは、このことが十分把握できないかもしれません。が、前回みたように、臨死体験の脳波が停止した状態で起こる体験は、通常の体外離脱の場合にも、このことを十分示しているというべきです。

「体外離脱」の体験だけが、そのように、「霊」についての現実的な把握を高めるのではないですが、多くの人が体験し得る重要なものとして、少し詳しく述べました。

最後に、「霊」についての考察をもう一度振り返ります。

「霊」については、その存在を証明することはできないが、総合的に考察する限り、十分認められるということでした。「証明されない限り、認められない」という人も多いかもしれませんが、「証明されない」のは、「霊が存在しない」という見方についても同じことです。

いずれにしても、「証明」という形で、有無を言わさず、決着がつけられることはないのだから、結局は、各人それぞれが、どのように判断し、主体的に選び取るかの問題となります。それは、「証明」などによって、半ば「強制的」な形で結論が「押しつけ」られるような「解決」の仕方よりも、むしろ「建設的」なことと言えるでしょう。

現状では、全体として社会に行き渡っている見方のために、霊を認めることは難しいですが、そのような事情は、今後、少しずつでも、解消していくと思われます。現に、霊について、認められる度合いは、私が子供の頃から比べれば、断然高まっています。根底にある「オカルト的なもの」への嫌悪や恐怖は、そう簡単には解消されませんが、それでも、多く人が霊について認める余地が増え、それを体験していく人も増えるに従って、弱まっていくと思います。

霊については、「超ESP仮説」というものがあり、超常的な現象が起こったとき、霊の作用と認めるより、実験的に存在が確かめられている、超能力の作用とみるべきという考え方をみました。それは、「科学的」には、一応正しい態度でしょうが、しかし、霊の方が本質的なものとすると、むしろ見方が逆転していることになります。本来、「霊」があるからこそ、「超能力」のような物理的な法則を超えた力があり得るのです。「霊」抜きに、「超能力」のような現象を理解しようとしても、うまくいかないと言うべきです。そればかりか、本来、霊こそが本質とすれば、「物質的な現象」を、その「物質的なもの」の内部からのみ説明しようとしても、必ず行き詰まり、うまくいかなくなるでしょう。そのようなことを示唆しているのが、量子力学の諸問題だと思います。これらについても、いずれまた踏み込むことになります。

「オカルト」とは本来、「隠されたもの」の意味で、それは「物質的なもの」を含めた「存在」の根底にあるものでもありました。それに迫ろうとする場合、物質的なものの理解が深まることも重要ですが、その物資的なものを超えた、「霊的なもの」についての視点を据えることも重要です。そうでないと、「物質的なもの」の延長上にしか、「存在」を捉えることができないことになります。霊的なものを無視したり、軽視している限り、全体としての「存在」にはとても迫れないということです。

次回は、私の体外離脱の体験との関連でも、とても興味深い、一つの臨死体験の例を紹介してみたいと思います。


posted by ティエム at 00:32| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月20日

「霊」についての総合的考察 2

前回みたように、総合的に考察する限り、「超能力」のみならず、「霊」についても、十分認められることが分かります。しかし、現代の状況は、全体として、「霊」を認めることにはなっていません。

まず、その理由として、「表面的」なものをあげると、大きく、次の2つになると思います。

1 「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている。
2 多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない。


「表面的」と言いましたが、決して「軽い」ということではなく、近代人にとっては、十分に「重い」理由です。ただし、その根底に潜む、真の理由が、より「重い」ということです。その理由こそ、ブログの初めに述べたように、「オカルト」的なものへの独特の嫌悪感であり、恐怖です。近代が、「魔女狩り」によって始まったと言えるほど、「オカルト」的なものを、排除しようという意思と、結びついていることは、既にみました。

「霊」というのも、「オカルト」的なものを象徴するといえるほど、それを代表する一つです。近代人にとって、それを認めることは、そもそも、心情的に難しいのです。それは、我々の無意識の奥底に、潜んでいるものなので、通常、自覚することはないでしょうが、強力に根を張っているのです。

この無意識的な意思が、強く作用している限り、たとえ、「表面的」なところで、十分の「論理的」な理由があったとしても、容易に、それを認めることはできないことになります。

ただし、そうは言っても、その無意識的な意思を克服するには、一種の「タブー意識」を排して、「表面的」なところからでも、それを正面から問題にして、考察することを積み重ねていくしか、ないのだと思います。

そこで、今回は、上にあげた、2つの理由について、検討します。

まずは、1の「「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている」について

既に、「科学的」なアプローチによって、「霊」の存在は、十分示唆されることをみました。だから、「霊」は、決して「科学的」に認められないのではないのです。まして、「あり得ない」などということは、ありません。

「霊」を否定するのは、「科学」そのものではなく、「(物質)科学的な方法によって、その存在を証明できるものだけが、存在し得るものである」という、「ものの見方」です。端的には、「物質的なものだけが存在する」という「唯物論」ということです。この見方による限り、「物質的なもの」ではなく、従って、物質科学的な方法で、直接捉えることのてきない「霊」などは、初めから、存在し得ないことになります。

「ものの見方」が「霊」を否定しているのであって、「科学」という方法そのものが、否定しているわけではないということです。

前に、「霊」も、物質的なものと完全に別ものなのではなく、物質的なものと結びつきながら、働いていることをみました。だから、その限りで、「科学的なアプローチ」は可能ではあるのですが、それは、直接、「霊」そのものを捉えるものではありません。(もし、「科学」で「霊」そのもののが捉えられるのであれば、それは「霊」ではなく、何らかの、「未だ解明されていない物質」の一種ということになります。)

ただ、そのようなアプローチの結果、間接的に、霊の存在を想定した方が、論理的に整合的になるということで、「示唆」されるということに過ぎません。「霊」については、恐らく、「証明」ということは、不可能と思われます。というより、どうすれば、「証明」したことになるかという共通の理解を得ることは、無理ということです。

「(物質)科学」は、「存在するもの」を、数学的、客観的な法則として捉えて来たので、多くの人に、共有することができ、しかも、その法則を、実際に、技術として応用することができます。この点で、「物質科学」は、多くの人に、共通の理解と利便をもたらし、人間を取り巻く、「存在するもの」が、人間によって、コントロール可能なものと思わせてくれました。だから、「存在するもの」のすべてが、「物質科学」によって捉えられると思うことには、大きな理由があります。

しかし、本来、そのような保証は、どこにもないものです。そのように望むのは、人間の側の都合であり、あるいは一種の思い上がりでしかないと言うべきです。

そして、実際に、そのような発想により、もともと、文化的に共通に認められていた「霊」なるものを、「存在するもの」から「排除」したのです。「霊」は、数学的、客観的な法則として捉えられるものではなく、曖昧なもので、何よりも、人間のコントロールが効かないと思われるものです。そのようなものは、科学が、「存在するもの」すべてを、説き明かしてくれることを期待する者にとっては、「邪魔もの」だったということです。

このようなことは、単に、一般の「常識」というだけでなく、「科学者」の考え方としても、当たり前のようにみられるものです。それを象徴するのが、そのような「科学的に捉えられないもの」を知覚したというときに、必ず持ち出される、「幻覚」という見方です。

前回、臨死体験の場合にも、科学者の主流は、「幻覚」とみなすことを述べました。

「幻覚」とみなす見方は、「科学的に捉えられない」すなわち、「一般的に共有できない」形の知覚がなされたとき、それがある脳の活動と結びついていることが判明すると、それは脳が生み出した「幻覚」とみなすものです。臨死体験の場合は、脳の活動が停止した状態でなされることがあるので、その「幻覚」とみる説すらも、成り立たなくなります。しかし、そうでなくとも、人間が生きている限り、ある知覚が、脳の活動と結びつくことは当たり前なので、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」の根拠となるものではありません

(逆に、脳の活動と結びつくことが「幻覚」の根拠となるなら、いわゆる「唯脳論」がいうように、すべての知覚は、脳が生み出した、「幻覚」の一種ということになるべきであり、それなら、一貫していると言えます。)

脳波活動のある場合の「臨死体験」や、臨死状態とは別に起こる、通常の「体外離脱」についても、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」であることの根拠となるものではないということです。

この点は、「霊」なるものがあるとしたときに、「脳」とどのような関係にあるのかという問題となり、いわゆる「心脳問題」とも関わる、厄介な問題なので、いずれ改めて検討します。(「体外離脱」の場合については、次回にも、少し触れるつもりです。)

いずれにしても、「幻覚」とされることの根拠は、それが「科学的に捉えられない」ものについてであることであり、「一般に共有することのできない」ものであることの方なのです。初めから、「科学的に捉えられないもの」を「排除」する限りで、成り立つものの見方だということです。「結論」が既に「前提」として、先取りされているのであり、一種の「トートロジー」(循環論法)ということです。

このような見方は、「科学」の内部においても、かなり一般化されているのであり、それによってこそ、科学の「権威」が保たれているところがあるのです。

このように、「霊」なるものが、「科学的には認められない」とか「あり得ない」というのは、それ自体、一つの、かなり偏狭な「ものの見方」であり、本来、「科学」的な見方とは、とてもいえないものと言うべきです。

次回は、理由の2の点について、検討します。

posted by ティエム at 02:40| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月14日

「霊」についての総合的考察 1

前回みたことから、科学的な「証明」はできないにしても、「肉体」とは独立して、死後も存続すると考えられる、「魂」または「霊」のような存在があるということは、十分示唆されることが分かると思います。

特に、臨死体験の事例で、脳死判定後、脳の活動が停止した後に起こる、鮮明で一貫した内容の体験は、強くこのことを示唆するといえます。

ただし、もちろん、それによってすぐさま、臨死体験の内容、特に、境界を超えて、既に死んだ人と出会ったり、光の存在と出会ったりするなどの内容が、「真実」のものとなるということではありません。

臨死体験において、「肉体」から独立して働く、「魂」または「霊」のような存在を、最も強く指し示す要素は、「体外離脱」の体験というべきです。肉体から、意識及び肉体とそっくりな「(霊的な)体」が抜け出して、外界を知覚するという体験です。この体験こそが、肉体を離れて、独自に存在する「魂」や「霊」の存在を、本人の主観においても、客観的にも、最も直接に指し示しているのです。

本人の主観というのは、実際に、肉体を離れても、現に働く意識や知覚が、「現実のもの」として明白に感じられるからで、その点は、次回にも、少し詳しく述べます。実際、多くの臨死体験者が、その体験内容を「真実」のものと感じ、死後の存在を確信するようになるのは、この離脱の体験のリアリティこそが基礎になっています。

客観的にというのは、前回もみたように、その離脱の状態で知覚する外界の状況が、医師が患者にする施術の詳細など、現実のものと符合するというのが、典型的なものです。

このように、臨死体験において、体外離脱は、重要な位置を占めますが、実は、体外離脱そのものは、必ずしも、臨死状態と結びついて起こるわけではありません。日常において、いくらでも、自然発生的にも起こり得るのです。私が、記事『私の体験から』で述べた体験というのも、このようなものです。有名な、ロバート・モンローのように、自らの意志で、自由にこの体験を起こせる人もいます。モンローは、「ヘミシンク」といって、音響効果を利用して、体外離脱またはそれと類似の意識状態を引き起こす方法も開発しています。

臨死体験は、「死に臨む」という、特別な体験であり、誰もが生きている間に、普通に体験できることではありません。しかし、「体外離脱」そのものは、その気になれば、割と誰もが、体験できるものなのです。臨死体験での体外離脱は、死後も存続する「魂」や「霊」を示唆しているわけですが、だとすれば、「魂」や「霊」は、生きている間にも、肉体や脳と関係しながら、常に存在しているはずで、それが肉体から抜け出すということが起こっても、不思議はないわけです。

実際、そのような体験の例は、多く積み重ねられていて、興味深い事例も多くあります。日本では、坂本政道という人の研究が有名でしょう(『「臨死体験」を超える死後体験』など参照)。

超心理学においても、先のモンローなどを被験者として、体外離脱状態の特異な知覚について、興味深い研究がされています。ただし、それが、「魂」や「霊」そのものが、本当に肉体から抜け出して起こった体験かということを、「証明」することはできません。肉体から抜け出したといっても、肉体が生きて機能している限り、脳波等の活動が止まるわけではないので、脳から独立した体験と確かめることは困難だからです。離脱状態での知覚は、「魂」や「霊」を持ち出さなくとも、「ESP(超能力)」によって説明し得るという考えも、ネックになっています。

ただ、この点では、臨死体験において、脳活動が停止した状態で起こる、体外離脱の事例が、一般的な、体外離脱においても、示唆をもたらすといえます。臨死体験における体外離脱が、脳から独立したものであることが示されるなら、一般の体外離脱も、そのようなものである可能性があるからです。

いずれにしても、体外離脱状態の意識状態や知覚は、臨死体験以外でも、多くの人に、日常的に体験し得るもので、「魂」や「霊」というものがどういうものかを知る手がかりとして、非常に重要なものなのです。そこで、これについては、次回にも、さらに述べることにします。

前回、もう一つの科学的なアプローチとして、「前世記憶」の研究をあげました。こちらは、臨死体験のように、死の状態に関わる体験ではなく、過去の「記憶」として、詳細に内容を語ることで、生まれる以前にも、その者と同一性をもった「魂」や「霊」などの存在があった可能性を示唆するものです。

あくまでも、「記憶」として語られるものなので、「魂」や「霊」の存在を示すものとしては、臨死体験よりも弱いと言えるでしょう。「記憶」というのは、外部的な形で植えつけられる可能性もあるという点も、考慮されなければなりません。たとえば、「心臓移植」などによって、その移植した本人の記憶ではなく、臓器を提供した者の記憶と解されるものが、喚起されるという現象があります。(https://matome.naver.jp/odai/2138917667091407001?&page=1 参照)

これなどは、臓器の、たとえば細胞などに蓄えられた記憶が喚起するというよりも、臓器にまとわれた「気」のような媒体(オカルト的には「エーテル体」)に貯えられた記憶が、移植によって喚起されたものと考えられます。そうすると、前世記憶のようなものも、他者から、物質的な媒体はなくとも、霊的なレベルで、何らかの形で移植された記憶という可能性も、考えられないわけではありません。

しかし、前世記憶が非常に詳細な内容をもち、本人のものと強く意識されて、語られることや、その人物が受けた身体的な痕跡まで、生まれたときから、同じように移ることがあることを考えると、本人と同一性あるものとして受け取る方が、自然であるとは言えるでしょう。さらに、「中間生」の記憶なども合わせると、「前世」と「中間生」ということで、本人と同一性のある、「魂」や「霊」の記憶として、十分一貫した内容にはなります。

この「前世記憶」の事例も、少なくとも、臨死体験とは違った観点から、「魂」や「霊」の存在を、強く示唆する現象には違いないでしょう。

このほかに、前回あげたものとしては、霊媒による霊界通信などの現象もあるわけですが、それはそれで、霊の存在を示唆するものが多くあります。また、内容からいっても、これまでみてきた現象とも、十分符合するものがあります。さらに、一般でもよく体験されるような、幽霊体験などを合わせると、少なくとも、死後も同一性をもって存在する、「魂」や「霊」のような存在を示唆する現象は、数限りなくあるということになるでしょう。

さらに、「総合的な考察」ということでいうと、「超能力」の場合に述べたように、他の文化によって、どのように捉えられているかという点も、重要な視点です。しかし、それは、超能力のところでも述べたように、「霊」というものがあり、それこそが人間の本質であることは、近代社会以外の、ほぼどの文化でも、共通の認識です。また、人間の霊ばかりか、他の「神々」や「精霊」のような存在も、当然のように認められています。その、「魂」や「霊」というのも、ただ漠然と信じられているというのではなく、前に述べたように、いくつかの具体的な要素に分けられるなど、その構造や性質についても、非常に詳しく述べ伝えられます。(たとえば、佐々木宏幹著『シャーマニズム』や、藤村久和著『アイヌの霊の世界』など参照)それは、まさに、近代人の知る、臨死体験や体外離脱の体験の事例からみても、十分符合するものなのです。

このような視点から、総合的に考察する限り、肉体から独立して、死後も存続する、「魂」や「霊」が存在するということ自体は、もはや十分過ぎるほど、認められると言わなければならないと思います。ただし、その「魂」や「霊」の性質がどのようなものなのか。死後も同一性をもって存在するといっても、その「同一性」とは、どの程度のものなのか。それらは、「生まれ変わり」をするものなのか。それらは、消滅することなく、永遠に存在し得るものなのか、といった点は、不確かなことで、別に考察する必要があるものです。

しかし、そうは言っても、事実上の問題として、残念ながら、近代において、このようなことは、まだまだ一般に認められることではありません。それには、「科学」や、その他のものの見方についての、近代に特有の事情があることも事実です。それについては、既に多くのことを語ったつもりですが、次回は、その点を含めて、もう少し考察を進めたいと思います。


posted by ティエム at 23:12| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする