2019年06月07日

「陰謀」と「魔術」「悪魔主義」

前回、「この世的には難しいと思われることでも、背後にある、「オカルト」的な領域から働きかけることによって、それがこの世的に実現しやすくなる」ことがあるということ。また、「そのような効果を期して、この世の人物が、オカルト的な力を頼って、陰謀を働くことが多くある」ということを述べました。

これは、一種の「魔術」にほかなりません。「魔術」などというと、多くの人にとっては、関わることなどない、疎遠なものと言うかもしれません。

しかし、多くの人も、たとえば神社などに行けば、何かしら「願をかける」ということはあると思います。「願をかける」というのも、神々という、この世の背後にある存在の力を借りて、願いを叶えようとすることなのですから、もはや立派な「魔術」の一種です。本人の意思は、必ずしも、実際に「叶えられる」と思っていないとしても、どこかでそのようなことを期待しているとすれば、その「思い」が、神々に通じないとも限りません。

あるいは、このようなことは、単純に自分の「幸せ」を願うことなのだから、「魔術」というのとは、異なると思うかもしれません。

しかし、日常においても、誰かに、何か酷いことをされたというときに、「コノヤロー」「〇〇!」みたいな感じで、呪いの言葉を吐いたり、心に思ったりすることはあるはずです。これなども、もし、この世の背後の存在の力と通じるようなことがあるとすれば、やはり、十分一つの「魔術」(呪術)となり得るのです。この場合は、他人への攻撃の意図を含みますから、「魔術」という言葉にも、違和感はないはずです。

このようなことは、「支配者」として、自分の望みのとおり人々を動かし、自分の願望を叶える必要に多く迫られる人々にとっては、より強く望まれ、行われることであるのが分かると思います。そして、このような人々は、直接、背後の存在に、願いをかけることもあるでしょうが、背後の存在と強く結びついて、それを取り次ぐことのできる、特別な能力をもった人間を、身近に抱え込んでいることも多いのです。

最近では、レーガン大統領が、お抱えの「占い師」に、政治的な判断について、アドバイスを受けていたことは有名ですし、このようなことは、現代の多くの政治家にも、当てはまることのはずです。「占い師」というと、穏当なイメージですが、本当は、「魔術師」である可能性は、いくらもあるのです。

現代では、政治家よりも、金融資本家等の経済力を持つ者の力の方が絶大であり、それらの人々もまた、自らの富を拡大し、支配力を高めるため、このような行いを、多かれ少なかれ必要としていることでしょう。

日本の戦国時代も、それぞれの武将が、何ほどかの「霊媒師」「シャーマン」を身近に抱えて、背後の存在に、戦いについて伺いを立てたり、守護してもらうなど、その力を頼るということが多くあったと思われます。その前の時代では、むしろ、多くのことが、背後の存在の力でこそなされると解されたのであり、そのような存在と通じることができる人物が、支配者の元で重宝されました。「陰陽師」の安倍 晴明などは、そのような存在として、有名です。さらに、卑弥呼や神功皇后など、支配者自身がそのような力を有した場合もあります。

いつの時代も、支配者は、「陰謀」と「魔術」に染められていたということが言えるのです。本当に,、人間の合理的な計算で、人々を支配できる部分などは、わずかと言うべきですから、そのような力を頼るのは、当然のこととも言えます。そして、「超能力」や「霊」についての記事でみたように、そのような力が現実にあるということは、少なくとも近代以前の多くの文化にとっては、当然のことだったのです。

前回、「それを、本当に、この世的な現象として実現させるには、人間の協力がある方が、威力を発揮する」と述べました。現代では、技術も飛躍的に発展したので、人間としてなし得る限りの行いは、人間がなすことの方が、より合理的になっています。しかし、それでも、最後のところは、やはり、そのような存在の力を頼らざるを得ないことも多いのです。

そして、そのような存在の力を頼ることは、必ずしも、「意識的」である必要はありません。先に述べた、「願をかける」とか「呪いの言葉を吐く」などの行いも、必ずしも、「意識的」に、そのような力を頼るものではありませんでした。「無意識」レベルで、通じ合うところがあり、結果として、そのような力を呼び寄せることがあれば、十分なのです。あるいは、背後の存在の方が、主導権を握り、この世の支配者を、(本人は意識しなくとも)「憑依」的に操るということも、いくらもあるのです。

このような、「支配者」が「陰謀」としてなすような、「魔術」に関わる存在は、支配者の意識はどうあれ(本人は、正義に適うことと思っている場合も多いでしょうから)、多くの場合、「悪魔的な存在」と言うことになるでしょう。その場合、自分の望みを叶えるとは、端的には、敵や不都合な者に、危害を加えることを意味することも多いからです。

そして、もし、支配者が、自ら積極的に、このような「悪魔的存在」の力を頼り、引き出そうとするなら、それはまさに、「悪魔主義」ということになるでしょう。それは、同時に、悪魔との「契約」において、悪魔の望む、非人間的な行いをも辞さないことになることを意味します。

そうして、その効果を実感した者は、より「悪魔」の力を信じ、それに「魂を捧げる」ことで、さらに深く、悪魔主義のとりこになっていくこともあり得ます。そうなれば、普通は考えられないほどの、非人間的な行いも、平気でなすようになるということもあるのです。人間そのものが、悪魔に近づくという言い方もできるでしょう。

現代は、そのような支配者も、かなり多くいると推察されるのです。現に、最近は、そのようなことが、多く行われているとしか考え様のない出来事も、多いはずです。

ところで、このように、悪魔と結託して、人々に危害を加える者は、かつて「魔女」として恐れられ、「狩られた」者でもあったのでした。次回は、そのこととの関係を顧みると同時に、「陰謀論」のネガティブな効果にも、改めて触れてみたいと思います。

【関連する記事】
posted by ティエム at 01:52| Comment(0) | 陰謀論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月31日

「オカルト」と「陰謀論」

記事『「明治維新」の捉え方の変化―「進化史観」』でも触れたように、「陰謀論」というのも、「オカルト」と同じような扱いを受けるのが、現代の状況です。「非理性的」「反理性的」で、「怪しく」「おどろおどろしいもの」としてのレッテルが貼られているのです。

実際、巷の陰謀論的なものには、根拠が薄く、飛躍的な論理で、ある出来事を、支配者である「誰々」の陰謀であるという、強引な結論に結びつけるものも多いです。あるいは、ユダヤ人など、特定の民族の陰謀に結びつけるものも多いです。感情的に、絶望感や無力感に陥らせたり、怒りや反感を煽って、扇動するようなものが多いということです

この傾向は、「この世的」な陰謀論というか、「オカルト」的なものや存在の影響を認めない、人間による単純な陰謀ということを説くものに顕著だと思います。というよりも、人間による単純な陰謀ということでは、どうしても論理に、飛躍や無理が出て来て、それが、ある種の「いかがわしさ」や「おどろおどろしさ」を醸し出してしまうことにもなるのです。

しかし、このような陰謀論というものが、単純に、「ウソ」「偽り」だけで成り立つはずがないのも、確かなことです。そこには、一定の「真実」が含まれているからこそ、長い間生き残り、また、多くの陰謀論が対置されることで、淘汰されて、ある程度真実でない部分が、削ぎ落とされたりもしています。少なくとも、現代の陰謀論として生き残っているようなものには、かつてほどの、強引な傾向や扇動的な傾向は、少なくなっていると感じます。

そもそも、ある支配的な層があるとして、その人たちが、何の「陰謀」や「企み」もなく、この世の執事に当たる、などということは考え難いことです。支配的な人たちも、「聖者」ではなく、自分たちの利益や権力を維持し、できるだけ自分たちの都合の良いように人々を動かしたいのですから、その方向での働きかけがあるのは、当然のことなのです。

ただ、巷の陰謀論は、一般の人には、人間として、倫理的にも、技術的にも、あまりに信じ難く、実現不可能と思われるような事柄を、断定的に「陰謀」として説くことから、不信を招いているということが言えます。

この点は、本当に、そのような「非人間的」なことを、平気でなすような人々もいるということを、一般の人たちは、なかなか認め難いということもあります。また、技術的な面も、一般に知らされ、表に出ている部分は、あまりに少ないということは、改めて押さえておかなければなりません。

しかし、実際、「この世的」な陰謀論というものでは、どうしても、無理や飛躍を来す面を拭い去れないことが、多いと思います。

実は「オカルト」と「陰謀」とは、分かち難く結びついているのであり、「オカルト」への注目抜きに、本当に「陰謀」を説くことは難しいと言うべきなのです。あるいは、「オカルト」と「陰謀」とは、本当に、「非人間的なもの」でこそ、結びついているということです。

「オカルト」とは、この世的なものの背後に働く「力」であることは、既にみて来ました。この世的には難しいと思われることでも、背後にある、「オカルト」的な領域から働きかけることによって、それがこの世的に実現しやすくなる、ということがあるのです。あるいは、そのような効果を期して、この世の人物が、オカルト的な力を頼って、陰謀を働くことが多くあるということです。直接、この世的に知れたものを「操作」するだけではなく、背後の「オカルト」的な領域から、この世的には知れない情報や力に基づいて、この世的なものを、「操作」するということです。

これは、一種の「魔術」であり、この観点からすると、「オカルト」とは、「陰謀」そのものです。隠れたところから、その「企み」または「諮り」という「思考」を、直接、実現しようとするものだからです。

そして、このような領域で力を発揮するのは、人間ではなく、元々の、霊的存在、または異次元的な存在、あるいは宇宙人的な存在です。「超能力」に関する記事でみたように、人間には、このような力があるとしても、かなり制限されたものです。ところが、このような存在は、元々、物質的な領域ではなく、オカルト的な領域に住んでいるので、そのような力こそが、通常の意思実現の方法なのです。つまり、「オカルト的-非人間的な存在」にとっては、「陰謀」こそが、意思実現の方法とも言えるのです。

ただし、それを、本当に、この世的な現象として実現させるには、人間の協力がある方が、威力を発揮します。人間では難しい部分を、「オカルト」的な存在が担うとしても、この世的に、現実になし得る行動は、人間がなすことの方が合理的です。そのような協力関係によって、真に、精度が高く、実現しやすい陰謀が可能となります。

ここで、「人間では難しい部分」とは、人間では通常知り得ないような、情報を得ることや、人間の世界を俯瞰しつつ、よいタイミングを計ること、また、技術的な面でも、宇宙人による高度の技術の提供を受けることなどです。

このように、(一見、人間的には信じ難いことがもっともである)陰謀というものは、オカルト的な領域との連携により、可能になるのです。言い換えれば、オカルト的な領域への注目なしには、本当には、陰謀には迫れないということです。

現在、オカルト的なものに十分注目しつつ、かなりの説得力をもって、陰謀を説き明かしている者に、デーヴィッド・アイクがいます。一面的な要素や、扇動的な面もあり、陰謀の背後にいるオカルト的な存在として、「レプティリアン」のような、特定の宇宙人のみをあげているのも、偏りがあるとは思います。

しかし、全体としてみる限り、概ね、「真実」を捉えているものと感じられます。アイクについては、改めてとり上げたいと思いますが、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『アイクの「陰謀論」など 』でもとり上げているので、参照ください。

人によっては、この世的な陰謀論以上に、背後に「オカルト」的な力を認める陰謀論の方が、より「おどろおどろし」く、絶望感や無力感も大きい、という人もいるでしょう。

しかし、それは、何度も述べたように、「オカルト的なもの」そのものに対する、イメージや嫌悪感が、大きく影響していると思います。「オカルト」そのものを、忌避せず、じっくりと学んで行けば、陰謀論的なものからもまた、多くを学べ、得るところが大きくあることが分かると思います。

アイクも言っているように、人間が、陰謀の支配する奴隷的な現実から脱するには、人間の霊的な本質を知り、その意識に目覚めることが必要です。現在の陰謀の多くが、人間の霊的な本質を覆い隠し、「物質的なものこそが存在するすべてである」という、唯物論的な発想を基盤にしているからです。

霊的な面を知る、または体験するのには、「闇」に彩られた、「オカルト」的な面こそ、入り口にならざるを得ないのは、何度か述べたように、必然的なところがあります。が、そこから入って、「霊的なもの」の本質に、より深く迫ることは、できることなのです。

陰謀論は、オカルト的なものと同様の、レッテルが貼られ、オカルト的なものと同様の、嫌悪感をもたらすということを述べました。これは、実は、多くの人が、「陰謀論」と「オカルト」には、(単に表面上、理性に反するように思えるということを超えて)通じ合うところがあることを、どこかで感じ取っているためと思われます。そして、その感覚は正しいと言うべきなのです(ネガディブな反応として現れているとは言え)。

そして、それは、「オカルト」の領域に踏み込もうとする限り、「陰謀論」もまた、無視できないものとして、見据えなければならないものであることを、物語ってもいるのです

posted by ティエム at 23:29| Comment(0) | 陰謀論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月15日

「意識説」と「多世界解釈」

前回、量子力学の観測問題の解釈として、「意識説」をとり上げましたが、これには、ほかにもいくつかの解釈があります。その中で、「多世界解釈」というのが、最近は、物理学者の支持を多く得ていて、主流になりつつあるようです。

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』でもとり上げていますが、この説は、意識説の対極をなす説と言えます。

意識説では、量子力学的な過程から独立した意識が、波束を収縮させて、(粒子としての)確定的な事象を生起させるのでした。しかし、「多世界解釈」では、意識といえども、量子力学的な過程から独立したものではなく、波束を収縮させるなどということはないと考えます。意識をもった観測者も、量子力学の波動関数に従うとするのです。

これは、「波束の収縮」などという現象はなく、量子力学の波動関数により、宇宙のすべてを記述できるとするものです。しかし、それが、実際に意味するのは、ミクロの物質だけでなく、マクロの物質も、意識をもった観測者も、すべてが「確率的な重ね合わせ」の状態として存在し、それが確定するなどということはないということです。

観測者の観測によって、確定したようにみえるのは、(重ね合わせの状態そのものを、それとして観測することはできないから)観測の制限的な性質によって、その重ね合わせの状態の中の、ある状態だけを写し取ったようなものに過ぎないことになります。それで、他の状態は、何ら崩壊または喪失したわけではなく、他の世界として、そのある状態だけを観測した世界と共に、併行して存在しているというのです。

前回の、「シュレディンガー猫」という思考実験でいえば、箱を空けて観測して、猫が死んでいたとしても、猫は死んだことに確定したのではなく、猫は、それを観測する観測者と共に、他の世界で、併行して生きていることになります。

まさに、「パラレルワールド」のように、多くの世界が併行して存在するので、「多世界解釈」と呼ばれます。

ただし、一般の「パラレルワールド」の理解と違って、ある世界が、他の世界と交わることはなく(認識する可能性もない)、観測者が、他の世界に移行するということもありません。つまり、他の世界が存在するということを、確かめる手立ては一切ないのです(もっとも、この「確かめる手立てがない」というのは、あらゆる解釈について言えることです)。

通常の感覚からすれば、このようなことは信じ難いことでしょう。しかし、量子力学というものが、数学的に、物質の振る舞いをいかによく説明するかということを知る物理学者にとっては、この説は魅力的なもののようです。

量子力学は、物質の状態を「確率の重ね合わせ」の状態としてしか記述できません。それが、多くの人に、不満や疑問を誘います。しかし、それは、数学的にみる限り、波動関数として、見事に記述できます。このように、「数学的に見事に記述できる」ということが、物理学者にとっては、重要であり、良く言われるように、「美しい」ことともされます。数学的に見事に記述できて、それで矛盾なく完結しているのであれば、それが意味すること自体はあまり重要でなく、「そのように宇宙はできている」ということで、割とすんなり受け入れられるようなのです。

最近の物理学的理論というものは、多かれ少なかれ、この傾向があると言えます。

それに対して、意識説というのは、意識なる、物質的に説明できないものを持ち出して、物質の状態を記述する量子力学の波動関数そのものの、崩壊を認めるようなものです。そのようなものは、多くの物理学者の感覚からすれば、「美しくない」どころか、物質科学そのものの放棄のようなものでしょう。

要するに、宇宙の全てを、「物質的なもの」として捉えたい、言い換えれば、数学的に、完結したものとして捉えたい、という物理学者の願望からすれば、「多世界解釈」の方こそが、好ましいということです。

しかし、それは、あくまで、一つの世界観であり、それを維持したいという、願望の問題に過ぎないと言うべきです。宇宙がそのようにできているという保証は、何もないはずなのです。

多世界解釈の方からすれば、一つの世界観であり、願望に過ぎないのは、意識説も異ならないということになるでしょう。そういう面は確かにあります。

しかし、これまでみて来たように、意識は、観測問題に限らず、様々な場面において、物質的なものを超える働きをすることが示唆されます。超能力もそうですし、臨死体験(特に脳波停止状態によるもの)もそうです。

また、量子レベルでも、ラディン博士の提示した次のような実験の結果は、観測問題とも絡む形で、意識による影響を強く示唆するものです。

すなわち、電子の二重スリット実験では、電子が波として、AのスリットとBのスリットを同時に通り抜ける(重ね合わせの状態としてある)ことによって、干渉し合い、スクリーンに干渉縞を作ります。しかし、人間が、意識によって、電子がAのスリットかBのスリットを通るように強く念じると、干渉縞に、実際にその念じたとおりの偏りが生じることが、統計的に有意に確認できるというものです。

記事としては、たとえばここ( https://tocana.jp/2019/03/post_90057_entry.html )に簡単な説明があります。この実験は、NHKの『サイエンスゼロ』という番組でもとり上げられていましたが、その部分の動画(https://www.youtube.com/watch?v=yLufAR6k8tw )もあります。参照ください。

このように、意識が物質に影響を与えることは、実際にさまざまな方面から示唆されることで、観測問題そのものとも関わる例もあるのです。このことは、観測問題を、意識の問題としてとりあげることが、決して、単に「世界観」の問題で済まされるものではなく、それ自体、「事実」の問題として、検討されるべきことを十分に示していると私は思います。

少なくとも、意識を、(あえて避けるかのように)当然のように、量子力学的過程に収めて、スルーさせ、確かめようのない「多世界」を認める、「多世界解釈」よりは、自然で説得力のある解釈と思うのです。

posted by ティエム at 22:40| Comment(0) | 科学・量子論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月09日

「量子」と「霊的なもの」

記事『相対性理論との関係』では、「相対性理論」を参照にして、「時間・空間を超える」という面から、「物質的なもの」と「霊的なもの」の関係をみました。

今回は、「量子論」を参照にして、物質の本質である「量子」ということと、「霊的なもの」との関係を、ざっとみておきたいと思います。

私自身、かつて10代の終わり頃、「霊」などというものは全く信じられなかったのですが、ある工学博士の書いた、量子と霊の振る舞いが似ているということを述べた本を読んで、少し考えを変えさせられたことがあります。

霊が信じられないというのは、「物質」というものが、明白に存在を確かめ得る、確たる存在としてある、という思いによっていました。物質というものを、そのようなものと思っていたので、それとの対比で、「霊」なるものは、余りにも曖昧かつ、不確かなものなので、存在することなど確かめられるはずもなく、そもそも、存在するなどとは、とても思えないものだったのです。

しかし、物質というものが、その本質である、量子というレベルでは、決して確たる存在とは言えないことが分かると、その見方も揺らぐことになります。それは、決して、「霊」なるものを、積極的に認める理由となるものではありませんが、少なくとも、「簡単には否定できない」ということは、顧みさせるものとなったのです。

量子というのは、とりあえず、電子などの素粒子ということですが、その電子は、教科書などで、よく、原子の中心の原子核を雲のように取り巻く図として描かれます。そして、その「存在確率の高い」ところが、黒く濃く描かれ、「存在確率の低い」ところは、薄く描かれます。電子という一個の素粒子が、そのように明確な位置や存在を示さないで、雲のように、「漠然と」取り巻いているというのは、どういうことなのか、私は、全然分かっていませんでしたし、それが重大な問題であるとも思っていませんでした。

しかし、そのとき読んだ本では、一応の量子力学的な説明がされていて、それがかなり重大で、本質的な問題であることを知ることになりました。

これは、簡単に言ってしまうと、要するに、電子というものは、位置と運動量を同時に測定することができないので、位置と運動量を確定できず、雲のように、全体に広がっているものとして、捉えるしかないということなのです。そして、それは、「技術的」な問題ではなく、「原理的」なものだということです。つまり、どのように観測の精度を上げても、原理的にそうなるということです。これを「不確定性原理」といいます。

「雲」のようにと言いましたが、電子は、「波」として、全体に広がっているとも捉えられます。ただし、その波は、「電磁波」や「水の波」とは違って、実体のあるものの振幅ではなく、「確率の波」という抽象的な(波動関数として数学的に表現できるだけの)ものなのです。

先ほど、「存在確率の高い」ところは、黒く濃く描かれると言いましたが、それは、観測した場合に、そこで電子がみつかる可能性が高いところということです。波として広がっているといっても、観測により、特定の位置に電子をみつけることは可能なのですが、それは「確率的」にしか予測できないことになります。「観測以前」には、あくまでも、「波」として、全体に広がっているという捉え方をするしかありません

このように、電子というものが、明確なあり様を示す、確かな存在というよりも、雲のように、漠然と取り巻いているというものであるならば、それは幽霊にかなり近いものとも言えます。また、電子は、ある場所にあったものが、一瞬にして、他の場所に移動して、現れることもできます。これを「量子テレポーテーション」と言います。これなども、まさに幽霊そのものの振るまいと言っていいでしょう。

記事『相対性理論との関係』では、「物質的な領域のぎりぎりの境界にある」のが、「光」だと言いました。これは、「電磁波」という観点からみたものですが、「素粒子」というレベルでは、光に限らず、あらゆる物質が、霊的な領域に近づいて、「ぎりぎりの境界にある」とも言えるのです。物質が、霊的なものと似た振る舞いをするということです。

このような、量子の問題は、実は、「観測されるもの」と「観測するもの」の問題とも言うことができます。

先にみたように、量子とは、観測以前には、存在確率の波で示されるしかないものですが、観測すれば、特定の場所に位置を示すこともできます。つまり、波のように全体に広がっていたものが、一瞬にして、ある場所に粒子としての姿を現すのです。波として振舞っていたものが、一瞬にして粒子として姿を現すということは、「波」が一瞬にして、消えて、一点に収縮したということになります。これは、「波束の収縮」と言われ、量子力学の波動関数自体からは、導けない事態です。

このようなことが、信じ難いものであることは、たとえば、シュレディンガーの提示した、「シュレディンガーの猫」という思考実験に照らすと、より明らかになります。

放射性物質の崩壊は、ミクロの現象なので、量子力学的な確率に従いますが、ある時間に2分の1の確率で崩壊する放射性物質を用意します。そして、箱の中に、この放射性物質と、その崩壊を感知すると毒を出すような仕掛けを施した装置を、猫とともに入れておきます。そこで、ある時間に、放射性物質が崩壊すると、猫は死んでしまうことになりますが、箱を開けて観測する以前には、猫はどうなっているかというものです。

箱を開けて観測すれば、もちろん、猫が生きているか死んでいるかは確定します。しかし、観測以前には、放射性物質は、崩壊する確率と崩壊しない確率が2分の1同士の重ね合わさった状態として存在するとしか言えません。電子が、存在確率の波として、広がっているとしか言えないのと同じことです。そうして、その重ね合わせの状態を、マクロの装置や物質も引き継ぐとすると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わさった状態」にあるということになるのです。しかも、それが、観測すると同時に、一瞬にして、生きているか死んでいるかに決定されたということになります。

まさに、「波束の収縮」ということの、信じ難い性質が、浮き彫りになることでしょう。

このような、波束の収縮ということが醸し出す問題は、「量子力学の観測問題」とも言われます。それをどう合理的に解釈するか、様々な説は出されていますが、決定的なものはありません。しかし、「観測問題」と言われるとおり、これは、「観測」(物事を「観る」、「認識する」)ということの本質は何かという問題とも関っていることは、確かと思われます。単に、「観測されるもの」としての客観的な対象の内部の問題ではなく、観測する側の「主体」との関わりの問題であり、最終的には、「意識」との関わりの問題ということです。

相対性理論においても、観測者の位置ということが問題となります。ただし、それは、物質的な過程そのものを、独立したものとしての「主体」が問題となると言うものではありません。あくまで、事象に対する観測者の相対的な位置の問題です。しかし、この「観測問題」では、単に、観測者の「位置」ということではなく、物質的な過程そのものからは独立することとなる、観測主体の本質そのものが、問題となっているものなのです。

実際、「観測問題」の解釈として、「意識説」というのもあります。これは、フォン・ノイマンやウィグナーによって提出された説で、量子力学全般の中では、主流ではないですが、一定の説得力があることは確かと言うべきものです。

その論の基本は、マクロの物質といえども、量子の集合体ですから、量子力学の過程から独立したものではあり得ず、量子力学的な波束を収縮させることはできない、ということにあります。つまり、観測において、波束を収縮させるようなものは、量子力学からは独立した(物質的な過程から独立した)存在としての、「意識」しかあり得ないということです。

この辺りのことは、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』に、ある程度詳しく検討しているので、是非参照ください。

ともあれ、「意識」というのは、記事『「霊」とは何か』でもみたように、「霊的なものの本質」というべきものです。つまり、「意識」との関わりというのは、「霊的なもの」との関わりでもあり、物質的なものと霊的なものの交わる、「境界的」な事象を浮かび上がらせるものと言えます。だから、量子の観測という事態において、物質的なもののぎりぎりの境界的なあり様が露わになるというのは、頷けることのはずです。

ただし、この意識というのを、人間のものに限るとみると、矛盾や疑問が多くなります。実際、最終的に、人間の意識が観測するまで、現象が確定しないとは、とても考え難いことです。同記事でみたように、物質的なものと霊的なものは、画然と区別されるというよりも、互い混交しているというべきものです。あらゆる物質が、霊的な要素も含んでいるということです。

たとえば、猫にも、ある意味の「意識」があり得るし、あるいは、観測装置などのマクロの物質にも、ある意味の「意識性」が働いているとみる余地があります。また、人間以外の霊的な存在は、多く想定でき、そのような存在の意識も関与している可能性があります。根源的には、宇宙そのもの、あるいは、「神」の意識というものも想定できます。

いずれにしても、そのような、全体的な展望のもとでなら、観測問題の波束の収縮は、「意識」が引き起こすものと言っていいものと思います。

そういうわけで、量子という物質の本質レベルでは、通常の物質というものの理解を超えた、物質としての境界的なあり様、つまり、霊的なものとの境界的なあり様が、露わになるところがあるのです。さらには、霊的なものの本質である、「意識」との関係を、浮かび上がらせるものがあるのです。相対性理論の場合とは別の観点から、というよりも、より本質的なレベルで、物質的なものと霊的なものとの関係を、露わにするものがあるということです。

posted by ティエム at 23:19| Comment(0) | 科学・量子論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月17日

「廃仏毀釈」の意義

明治政府が、それまでの日本の伝統文化を破壊するというのは、様々な面にわたって、様々な制度においてなされたことです。しかし、それを象徴するような施策を一つあげるなら、何と言っても、「廃仏毀釈」ということになるでしょう。

「廃仏毀釈」というのは、「仏教を廃し釈迦の教えを棄却する」という意味の施策です。実際に、明治政府により、推し進められ、実行されたものです。

日本の民間における信仰は、中世の頃から、「神仏習合」して、神社にも仏像など仏教的な形態のものが多く祀られて来ました。「仏」と「神」は、仏教移入当初から、様々に葛藤をもたらすものではありましたが、これを習合させて、平和的に共存させ、共に信仰の対象として敬って来たのは、庶民の知恵とも言えます。

しかし、明治政府は、外国から移入した仏教を排斥し、神道を国教化すべく、神社から、仏教的なものを廃棄したのです。また、それだけでなく、多くの仏教寺院を破壊し、僧を還俗させました。

仏教は、江戸幕藩体制では、「権力」に結びつく、重要な位置にあったため、その地位を貶めるべく、日本の固有の信仰ではないということで、排斥すべきものとしたのです。特に、新権力の一翼を担う薩摩では、凄まじい排斥がなされたようです。

ネットでも、『日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか?』という記事(https://diamond.jp/articles/-/114630 )は、この「廃仏毀釈」について、簡単に、概要とその重要な意味が述べられていますので、参照ください。

一見すると、これは、やり方が破壊的だったとしても、「日本の固有の信仰を取り戻そうとした」ということ自体は、肯われることと解されるかもしれません。しかし、これは、「国家神道」という、新たな「国教」の樹立に向けられたものであって、日本の固有信仰を取り戻すようなものでは、全然ありません

むしろ、この「国家神道」は、天皇を「現人神」として中心に据えて、あらゆる信仰形態を再編し、それに沿わないものは排除する、ほとんど「一神教」的なものだったと言えます。西洋風の絶対君主制の模倣であり、日本の固有信仰とは、似ても似つかないものだったということです。

安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)も、《「廃仏毀釈」といえば、廃滅の対象は「仏」のように聞こえるが、しかし、現実に廃棄の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである》と言っています。

仏教を排斥するというのは、一つのとっかかりのようなもので、実質的には、神々への信仰を、権力的な意図により、それまでの形態とは大きく変えてしまうことこそが、なされたことなのです。そこで、真に破壊されたものとは、一言で言えば、それまでの「民間信仰」であり、「固有信仰」そのものなのです。

たとえば、それまでの信仰では、神々への信仰であっても、必ずしも、神社という建物と結びついたものではなかったし、形式的な「祭司」や「儀式」ということが、重要なことでもありませんでした。さらに、「巫女」や「修験」のような「シャーマン」を通しての、「憑依」や「託宣」ということを通して、神々と交流する場もありました。しかし、明治政府によって、そのようなものは、「迷信」として禁止されたのです。

氏神というのは、村の共同体にとって、重要な統合のシンボルのようなもので、「社」と結びつくことが多かったのは確かです。しかし、それは、それぞれの共同体独自のものであったのが、「廃仏毀釈」により、国家が押し付けた神道形態のものに変えられます。それは、端的に、共同体にとって、固有の信仰の破壊と、新たな信仰の押しつけということになるはずです。

他にも、破壊されたものは多くあるのですが、要は、それまでの信仰において、「実質をなすもの」こそが、破壊されたということです。そして、国家に都合のよい形での、形式的、物質的な要素に嵌められるものとなったのです。私からすれば、実質的には、「目に見えない」「霊的な要素」こそが排除されたということになります。

それは、これまでにも何度も触れた、「オカルト的なもの」を排除するという、近代のあり方を決定づけた出来事でもあるのです。

普通は、戦後において、「国家神道」というものが、それ自体「オカルト的なもの」のようにみなされて、廃すべきものとされることになったと解されるのでしょう。しかし、実際には、その「国家神道」自体が、既に「オカルト的なものの排除」と結びついていたことを見逃すと、それによって、本当に排除された江戸以前の固有の文化をも、見逃すことになるのです。

posted by ティエム at 00:30| Comment(0) | 近代社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする