ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方で『「オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか」』の記事を6回にわたって連載したので、紹介しておきます。
オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1 —「血取り」「膏取り」と「迷信撲滅運動」
~ オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 6-総括及び結論
まで
なお、この記事の前提となる記事をその前にいくつかあげているので、そちらも合せてお読みいただけると、より理解しやすいと思います。
『精神病の日本近代』―「憑く心身」から「病む心身」へ
~
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
まで
こちらのブログでも、このような論点については、何度か述べていますが、これらの記事は、「オカルトを否定する世界観の根本的変化」が起こった経緯や背景を、より詳しく明らかにしようという意図があります。
最後の記事では、その理由を端的に明らかにしていますが、それは、こちらのブログでも何度か述べたように、嫌悪と恐怖をもたらす、「おどろおどろしい」「オカルト的なもの」を否定したかったからだ、ということに尽きます。
「オカルト的なもの」が否定されて、近代社会の基盤をなす「世界観」が生まれたのですが、そのような「虚偽」の欲求に基づく社会は、結局は「虚偽」にしか行きつかないことも明らかにしています。
2023年10月31日
2021年06月23日
「タブーの意識とオカルト」の記事紹介
ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方で、「タブーの意識」と「オカルト」に関する3回の記事を投稿していますので、紹介しておきます。
「タブー」の意識とオカルト 1
「タブー」の意識とオカルト 2
「タブー」の意識とオカルト 3
「オカルト」には、嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとうことは、こちらでも何度も述べていることですが、今回の記事は、「タブー」とは何かということに溯って、かなり根源的な考察をしているものです。
〇「タブー」には、もともと両義的な意味があったことと、現代にもはびこるタブーの意識。
〇近代は、「オカルト的なもの」を一般的に排除したが故に、「タブー」の本来の意味を失って、もっぱら「恐れにより避ける」という、否定的なタブーの意識の拡大をもたらしたこと。
〇「タブー」は、もっぱら守られるだけでなく、その「侵犯」によってこそ、停滞が破られ、「聖なるもの」に近づくことや、隠された「真実」に触れることができること。
〇「オカルト」に嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとう、根源的な理由。
〇「生け贄」こそが、原初の「排除」として「タブー」を生んだという可能性。
〇近代という秩序を生むための、「オカルト的なもの」の排除こそ、まさに、それまで信仰していた「神々」の「生け贄」であり、強力なタブーを生んだこと。
などのことを明らかにしています。
いったんは葬り去られた、「オカルト的なもの」を捉え直すということは、このような意味での「タブーの侵犯」であり、大変なことには違いありません。ですが、現在の停滞状況の突破と、無意味なタブーのはびこりを押し止どめるためには、是非とも必要なものであるということです。
「タブー」の意識とオカルト 1
「タブー」の意識とオカルト 2
「タブー」の意識とオカルト 3
「オカルト」には、嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとうことは、こちらでも何度も述べていることですが、今回の記事は、「タブー」とは何かということに溯って、かなり根源的な考察をしているものです。
〇「タブー」には、もともと両義的な意味があったことと、現代にもはびこるタブーの意識。
〇近代は、「オカルト的なもの」を一般的に排除したが故に、「タブー」の本来の意味を失って、もっぱら「恐れにより避ける」という、否定的なタブーの意識の拡大をもたらしたこと。
〇「タブー」は、もっぱら守られるだけでなく、その「侵犯」によってこそ、停滞が破られ、「聖なるもの」に近づくことや、隠された「真実」に触れることができること。
〇「オカルト」に嫌悪の感情とタブーの意識がつきまとう、根源的な理由。
〇「生け贄」こそが、原初の「排除」として「タブー」を生んだという可能性。
〇近代という秩序を生むための、「オカルト的なもの」の排除こそ、まさに、それまで信仰していた「神々」の「生け贄」であり、強力なタブーを生んだこと。
などのことを明らかにしています。
いったんは葬り去られた、「オカルト的なもの」を捉え直すということは、このような意味での「タブーの侵犯」であり、大変なことには違いありません。ですが、現在の停滞状況の突破と、無意味なタブーのはびこりを押し止どめるためには、是非とも必要なものであるということです。
2021年04月28日
科学とオカルトに関する2冊の復刊本
科学とオカルトに関わる重要な本で、品切れになっていた本が、最近文庫化されて復刊されているので、紹介しておきます。
1 村上陽一郎著 「科学史・科学哲学入門」 (講談社学術文庫)
( 旧『科学・哲学・信仰』(第三文明社レグルス文庫))
著者は、著名な科学史家で、科学史と、「近代科学」とは何かということを概略的に述べたものです。明解で分かりやすく説明されていると思います。
「近代科学」とは、普遍的なものではなく、「西洋近代」という文化的な文脈のもとに出て来た、一つの「ものの見方」であるということ。従って、それは、実質的に、「哲学」や「信仰」と異なるものではない、ということが趣意となります。
直接オカルトと関わるわけではないですが、「技術」と結びついた、「科学技術」というものは、「魔術」との関わりで生じているので、もともとの出自は、大きく関わるものがあります。
この辺りは、記事『「魔術」と「科学技術」 』でも述べたとおりです。
もう少し詳しく言うと、近代科学は、「聖俗革命」によって生まれたということが一つのポイントです。注意すべきは、「聖俗革命」とは、単純に、「聖なるもの」が「俗なるもの」に取って代わられたということではありません。自然と人間を峻別し、自然を超越する唯一の神を認める、キリスト教のような一神教的な背景のもとに、その「神」の位置が、「人間」に取って代わられたということです。
つまり、自然と人間を峻別する発想、自然を超越した唯一絶対の神が、唯一の法則のもとにすべてを統べている、というような西洋文明独自の発想は、「聖俗革命」の後も受け継がれ、それが近代科学の発想のもとになっているのです。
ただ、「神」の位置が、人間へと取って代わられ、人間が、神の万能の理性に発する「知」によって、その法則を捉えつつ、自然を知り、操作するのが、「科学」という営為だと考えられたのです。
この辺りも、先の記事で、要点は述べています。
「科学」は、一つの「ものの見方」ですが、このような一神教的な発想のため、他のものとは違って、唯一の正しいものと見做されやすいのです。それが、他の見方を排除するように作用しやすいし、「オカルト」的なものを否定する見方にも、それは反映されています。
しかし、実質は、一つの「ものの見方」である以上、「哲学」や「信仰」といったものと、本質的に区別できるものではないということです。
ただし、もちろんですが、だからと言って、そんな「科学」は無意味だとか、役に立たないということには、なりません。
「科学」を、一つの「ものの見方」として、相対化して捉えたうえで、その有用性を認めて(その範囲を確定することは必要かもしれません)、役立てて行くことはできることです。
2 河合隼雄著 「宗教と科学の接点」 (岩波現代文庫)
そもそも、ユングは、目に見えない「オカルト」的なものを、「普遍的無意識」という形で、心理学に取り込んでいました。日本におけるユング派の心理学者であった、故河合隼雄氏も、科学によって、「オカルト」的なものを否定する一般的な見方に対して、科学との接点は意識しつつ、「オカルト」的なものにも目を向ける発言をよくしていました。
また、この本出版の当時は、「ニューエイジ」や、「ニューサイエンス」という、これまでの物質主義的な発想を超える、新たな発想が広がりつつありました。そのような背景もあり、この本では、正面から、かなり大胆に、そのような「宗教と科学の接点」に関わることを、論じています。
内容としては、「たましい」や「死」、「共時性」などがとり挙げられています。どれも、このブログとの関わりでも重要な事柄と言えますが、特に、「共時性」について、かなり詳しく分かりやすく解説しているのが、記事『「共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性』以降の記事との関わりで、重要です。
「たましい」については、必ずしも、「魂」という実体としてではなく、内界(心)と外界(自然、物質)の奥で、両者を結びつける働きとして、(明確には分からないながらも、そのままに)仮定しておくことを提案しています。
内界(心)と外界(自然、物質)が、意味において結びついて起こる「共時性」についても、そのような「たましい」による「布置」と、みることができます。記事でも述べましたが、注意すべきは、それは(通常、外界がそうであるように)単純に、原因と結果の関係で、つまり「因果律」で結びつくのではないということです。
これを、因果的に解釈してしまうと、「偽の因果律」となって、「魔術」的因果論になってしまうことが、例を挙げて示されています。たとえば、古来、彗星の出現と帝王と死が共時的に起こることが注目されましたが、これを、彗星が現れたから、帝王が死んだ。あるいは、さらに、彗星が現れると、帝王が死ぬという風に解釈すると、「偽の因果論」になるのです。
しかし、実際に、「共時性」現象に出会うと、我々は、どうしても習性で、因果的に解釈することで、落ち着けようとしますから、これは、本当に注意していなければならないことです。
さらに、これも記事でも述べていますが、「共時性」は、その現象をどう受け止めるかという、「主体的な関わり」こそが重要となることが強調されます。それを偶然ではなく、共時性と受け止めることによって、主体のコミットメントが生じ、自己を取り巻く「世界」との関わり方も、変わるのです。
さらに、「共時性」は、内界と外界の結びつきによって起こる現象ですから、主体(内界)がどう受け止めるかによって、現象の方も変わって来るということが言えます。
総じて言うと、我々は、「我々の心から切り離された(客観的な)外界」という発想をもって、通常外界をみていますが、それが、通用しなくなるのが、「共時性」現象とも言えます。「内界と外界の結びつき」に気づかせてくれる現象ということです。
また、このことは、先の1でみた、「人間と自然が峻別される」ことを前提とする、近代科学の発想が、実際には、普遍的なものではないことを露わにするものとも言えます。
このような発言を続けられていて、かなり影響力もあった、河合氏が亡くなったことは、日本にとって、大きな痛手となったことを、改めて感じます。科学とオカルトは、最近ますます分断され、やみくもに対立するのみで、両者の接点を問題にできる人が、ほとんどいなくなっていると思うからです。
1 村上陽一郎著 「科学史・科学哲学入門」 (講談社学術文庫)
( 旧『科学・哲学・信仰』(第三文明社レグルス文庫))
著者は、著名な科学史家で、科学史と、「近代科学」とは何かということを概略的に述べたものです。明解で分かりやすく説明されていると思います。
「近代科学」とは、普遍的なものではなく、「西洋近代」という文化的な文脈のもとに出て来た、一つの「ものの見方」であるということ。従って、それは、実質的に、「哲学」や「信仰」と異なるものではない、ということが趣意となります。
直接オカルトと関わるわけではないですが、「技術」と結びついた、「科学技術」というものは、「魔術」との関わりで生じているので、もともとの出自は、大きく関わるものがあります。
この辺りは、記事『「魔術」と「科学技術」 』でも述べたとおりです。
もう少し詳しく言うと、近代科学は、「聖俗革命」によって生まれたということが一つのポイントです。注意すべきは、「聖俗革命」とは、単純に、「聖なるもの」が「俗なるもの」に取って代わられたということではありません。自然と人間を峻別し、自然を超越する唯一の神を認める、キリスト教のような一神教的な背景のもとに、その「神」の位置が、「人間」に取って代わられたということです。
つまり、自然と人間を峻別する発想、自然を超越した唯一絶対の神が、唯一の法則のもとにすべてを統べている、というような西洋文明独自の発想は、「聖俗革命」の後も受け継がれ、それが近代科学の発想のもとになっているのです。
ただ、「神」の位置が、人間へと取って代わられ、人間が、神の万能の理性に発する「知」によって、その法則を捉えつつ、自然を知り、操作するのが、「科学」という営為だと考えられたのです。
この辺りも、先の記事で、要点は述べています。
「科学」は、一つの「ものの見方」ですが、このような一神教的な発想のため、他のものとは違って、唯一の正しいものと見做されやすいのです。それが、他の見方を排除するように作用しやすいし、「オカルト」的なものを否定する見方にも、それは反映されています。
しかし、実質は、一つの「ものの見方」である以上、「哲学」や「信仰」といったものと、本質的に区別できるものではないということです。
ただし、もちろんですが、だからと言って、そんな「科学」は無意味だとか、役に立たないということには、なりません。
「科学」を、一つの「ものの見方」として、相対化して捉えたうえで、その有用性を認めて(その範囲を確定することは必要かもしれません)、役立てて行くことはできることです。
2 河合隼雄著 「宗教と科学の接点」 (岩波現代文庫)
そもそも、ユングは、目に見えない「オカルト」的なものを、「普遍的無意識」という形で、心理学に取り込んでいました。日本におけるユング派の心理学者であった、故河合隼雄氏も、科学によって、「オカルト」的なものを否定する一般的な見方に対して、科学との接点は意識しつつ、「オカルト」的なものにも目を向ける発言をよくしていました。
また、この本出版の当時は、「ニューエイジ」や、「ニューサイエンス」という、これまでの物質主義的な発想を超える、新たな発想が広がりつつありました。そのような背景もあり、この本では、正面から、かなり大胆に、そのような「宗教と科学の接点」に関わることを、論じています。
内容としては、「たましい」や「死」、「共時性」などがとり挙げられています。どれも、このブログとの関わりでも重要な事柄と言えますが、特に、「共時性」について、かなり詳しく分かりやすく解説しているのが、記事『「共時性(シンクロニシティ)」-概観と重要性』以降の記事との関わりで、重要です。
「たましい」については、必ずしも、「魂」という実体としてではなく、内界(心)と外界(自然、物質)の奥で、両者を結びつける働きとして、(明確には分からないながらも、そのままに)仮定しておくことを提案しています。
内界(心)と外界(自然、物質)が、意味において結びついて起こる「共時性」についても、そのような「たましい」による「布置」と、みることができます。記事でも述べましたが、注意すべきは、それは(通常、外界がそうであるように)単純に、原因と結果の関係で、つまり「因果律」で結びつくのではないということです。
これを、因果的に解釈してしまうと、「偽の因果律」となって、「魔術」的因果論になってしまうことが、例を挙げて示されています。たとえば、古来、彗星の出現と帝王と死が共時的に起こることが注目されましたが、これを、彗星が現れたから、帝王が死んだ。あるいは、さらに、彗星が現れると、帝王が死ぬという風に解釈すると、「偽の因果論」になるのです。
しかし、実際に、「共時性」現象に出会うと、我々は、どうしても習性で、因果的に解釈することで、落ち着けようとしますから、これは、本当に注意していなければならないことです。
さらに、これも記事でも述べていますが、「共時性」は、その現象をどう受け止めるかという、「主体的な関わり」こそが重要となることが強調されます。それを偶然ではなく、共時性と受け止めることによって、主体のコミットメントが生じ、自己を取り巻く「世界」との関わり方も、変わるのです。
さらに、「共時性」は、内界と外界の結びつきによって起こる現象ですから、主体(内界)がどう受け止めるかによって、現象の方も変わって来るということが言えます。
総じて言うと、我々は、「我々の心から切り離された(客観的な)外界」という発想をもって、通常外界をみていますが、それが、通用しなくなるのが、「共時性」現象とも言えます。「内界と外界の結びつき」に気づかせてくれる現象ということです。
また、このことは、先の1でみた、「人間と自然が峻別される」ことを前提とする、近代科学の発想が、実際には、普遍的なものではないことを露わにするものとも言えます。
このような発言を続けられていて、かなり影響力もあった、河合氏が亡くなったことは、日本にとって、大きな痛手となったことを、改めて感じます。科学とオカルトは、最近ますます分断され、やみくもに対立するのみで、両者の接点を問題にできる人が、ほとんどいなくなっていると思うからです。
2020年12月30日
次回以降の投稿についてのお知らせ
前回、次回は「輪廻転生」の問題を述べると言いましたが、この問題は、そう単純ではなく、「時間」の問題や、「輪廻の主体」をどうみるかという問題とも絡む、かなり難しい問題です。私自身、現時点の考えはありますが、明確にふに落ちる形で提示できるか心許ないので、もう少し、自分なりに煮詰めてから、投稿したいと思います。
場合により、数カ月あるいはもっとかかる可能性もあるので、ご了承ください。
このブログで扱う、「オカルトの基本」の問題としては、このほかに、あと、「パラレルワールド」の問題を予定しています。
ところが、この問題も、「時間」とともに、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題とも絡む、難しい問題なので、やはり、しばらく時間をかけてじっくり取り組みたいと思います。
いずれ、この2つの問題は、「オカルトの基本」の問題として抜かせないものと思うし、最後にとり上げるにふさわしい問題とも思うので、自分なりにしっかりした形で、提示するつもりではいます。
場合により、数カ月あるいはもっとかかる可能性もあるので、ご了承ください。
このブログで扱う、「オカルトの基本」の問題としては、このほかに、あと、「パラレルワールド」の問題を予定しています。
ところが、この問題も、「時間」とともに、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題とも絡む、難しい問題なので、やはり、しばらく時間をかけてじっくり取り組みたいと思います。
いずれ、この2つの問題は、「オカルトの基本」の問題として抜かせないものと思うし、最後にとり上げるにふさわしい問題とも思うので、自分なりにしっかりした形で、提示するつもりではいます。
2020年12月04日
「共時性現象」の受け止め方
前々回にも、「共時性現象(シンクロニシティ)」の受け止め方が問題となることについて、簡単に述べました。今回は、この点について、まとめて述べたいと思います。
「共時性現象」は、その受け止め方によって、現象自体も変わって来るほど、「受け止め方」こそが重要な問題と言ってもいいものです。もちろん、「受け止め方」によって、その現象に関わる者の精神状態や理解も大きく左右されます。
「受け止め方」によって、現象自体が変わって来るのは、前回もみたとおり、要するに、受け止める側の「意識」が、現象の発生や継続に、作用することになるからと言えます。そもそも、「共時性現象」は、(様々なレベルにおける)「意識」により、「意味」的に関連する出来事が「引き寄せ」られて、同時的に起こるものでした。ですので、「受け止める」、「注目する」、「解釈する」という、本人の「意識」の作用(その「結果的な意味」)も、現象に対してフィードバック的に、影響を与えることになるのです。
このことは、単純に、共時性現象が起こったときに、それに「注目する」かどうかによっても、かなり違って来ます。それだけで、その現象は、繰り返し、起こる傾向があるのです。さらに、それに強い印象をもち、感情的な反応を伴えば、それはなおさら、強化されます。
それは、その現象に注目したことにより、繰り返し起こるのではなく、注目しないでも、たまたま、まれな現象として、繰り返し起こっていたものに、注目したが故に気づかれたというに過ぎない、という見方もあり得ます。しかし、私も、注目することで、明らかに、連続的に起こるようになるということを、何度も体験していますし、ユングや、その研究者河合隼雄も、そのことを示唆していました。
本当に、単純な例では、たとえば、ある数字に特別に注目するだけで、その数字を身の回りに目にすることが、明らかに、連続して、増えるということが起こります(何か、世界相手に、ゲームをしているような感覚に陥ります)。皆さんも、是非試してみてください。これは、マージャンやその他のギャンブルでも、よく起こることで、むしろ、ギャンブルにおいては、あえて、そのように意図して、その数字を「引き寄せる」ということが、(無意識にも)行われるものとみることができます。
そして、前々回も述べたように、「霊界の境域」に入り込んだときには、「共時性現象」は頻発し、このような、「受け止め方」によって、現象自体が変化する傾向も、如実に感じ取れるものとなります。
そのような現象は、たまに起こるということであれば、特に影響を受けることもないでしょうが、そのように頻発するときには、混乱したり、振り回されて、よからぬ精神状態に陥ることにもなりがちです。ですから、そのような場合は、どのように受け止めるかが、殊更重要なことにもなります。
多くの人が、日常的にしているように、そのような現象を、単なる「偶然」として、受け流すという方途もあり得ます。後にみるように、「共時性現象」を、否定的、恐るべきものと受け止めれば、その現象自体も、実際に、そのような傾向を帯びて、それが繰り返される可能性があります。それで、下手に「共時性現象」などと受け止めるぐらいなら、「偶然」として受け流す方が、賢明ということもできます。
しかし、「共時性現象」は、前々回みたとおり、日常を超えた、「オカルト」的な現象を身近に感ずるよい機会だし、これまでの常態化した「世界」の受け止め方を変え、新たなものをもたらす機会にもなります。また、「霊界の境域」に入り込んだときのように、それが、明らかに、偶然とは考えられないというほどに、頻発するときには、もはや、偶然ということで、受け流すことは難しくなるでしょう。
従って、そのようなときは、「共時性現象」をそれとして受け止めたうえで、それに囚われることなく、振り回されないようにするという方向に向かうことが、建設的です。そして、その受け止め方によって、その現象の現われ自体を、良い方向に変えていける可能性があることを知ることも重要です。
「共時性現象」を、それとして受け止めるということは、前々回も述べたように、その現象を、単純な因果律の延長上に解釈することを止め、因果律を超えた別の原理が働いたものとして受け止めるということです。
単純な因果律の延長上に解釈した場合、前々回の例でいくと、たとえば、「心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながる」ということがあります。あるいは、「逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも、何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまう」ことにもなります。
どちらも、それが頻発する状況では、妄想的に凝り固まってしまって、かなり危険な状態をもたらし得ます。
このような場合には、「理由は何にせよ」、「意味的に関連する出来事が、同時的に起こったに過ぎない」ということ。そして、「単純な因果律を超えた原理が働いた」のだと、まずは率直に認めることが必要なのです。
前回もみたように、「共時性現象」にも、それが起こる「原理的な理由」はあって、それは、(種々のレベルにおける)「意識」にこそあると言えるのですが、それは、物理的な世界における「因果律」、特に、単純な「一義的」な因果律とは異なります。そこを、短絡的に、因果的に解釈すると、上のような、「妄想」につながる解釈をし、囚われを生むことになるのです。
しかし、先にみたように、「意識」の作用が元であるとすると、その現象自体に対する、自分自身の「受け止め」方もまた、現象自体に影響を与えることになり得ます(頻繁に起こる状況では、それを自ら確かめることもできるはずです)。そのことを自覚して、その受け止め方自体を、できる限り、肯定的、建設的なものにしていくということが必要になるのです。
「共時性」は、「意味」において関連する出来事が同時的に起こるのですから、その「意味」というのを、よい兆候として、肯定的に受け止めるか、または、悪い兆候として、否定的に受け止めるかということが問題となります。
そもそも、「共時性現象」は、頻発して起こると、恐怖をもたらすものがあるので、悪い兆候として、あるいは、自己に対して、攻撃的なものとして、否定的に受け止められる可能性が高まります。否定的な受け止め方は、感情的な要素も伴って、より強化されがちなので、その否定的な受け止め方自体が、現象に影響し、さらに否定的な現れを繰り返し、循環されるようになる傾向もあるのです。
このことに関連して、一つの典型的な例として、このような現象を、「集団ストーカー」の被害を受けている、と解釈するものがあります。
人などと、不自然な形(自分の内心にとって特別なタイミング)で、出会うことなどが重なると、自分に誰かが、つきまとっているというような感覚に陥ることにもなります。そして、それを、集団としての組織が、嫌がらせのために、ストーカー行為をしていると解釈するようなことも起こるのです(最近は、ネットでも、多くの「被害報告」が挙げられていることにもよります)。
そして、そのような解釈にはまり込むと、その「被害」は、延々と繰り返されて、止まない傾向があります。
これなどは、(単なる誤認でないとすれば)、偶然を超えた「共時性現象」が元になっている可能性があり、それを否定的、攻撃的なものとして受け止めてしまったために、まさに、その否定的な現れを、実際に強化して、繰り返し現れるようにしてしまったものと解されます。
ですので、「共時性現象」は、できる限り、肯定的、建設的なものとして受け止めることが望ましいのです。明らかに、否定的なものがあるときでも、肯定的、建設的な受け止め方ができれば、その方向に変わってくる可能性もあります。
たとえば、前々回あげた、ユングの「黄金虫」の例でも、「黄金虫」の夢を、何か奇妙な、攻撃的な現われとして、受け取る可能性もあったはずです。しかし、それを、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味として受け取ったことが、(患者自身にも)作用し、「癒し」へ向けた、よい結果を「引き寄せ」たとも考えられます。
ただし、そのように、あえて、肯定的に受け止めることなどをしないでも、殊更、否定的に受け止めなければ、その現象が繰り返されることもないとして、受け流すような態度を身につけることも必要でしょう。むしろ、「共時性」として受け止めたうえで、あえて「意味」を詮索したりしないで、ただそのまま受け止めておくことの方が、現象に拘らないようにするうえで、望ましいとも言えるのです。私自身は、そのようにしています。
現在は、この世界自体が大きく揺らいでいる(ある意味「霊界の境域」と化している)ので、このような現象は、一般にも、ますます頻発して来ると思われます。そのような現象は、何か特別なことではなく、自然なこととして、受け止めることの方が、適切になって来ると思われるのです。
以上、要するに、「共時性現象」は、因果律を超えた現象とはっきりと受け止めつつも、それには囚われず、受け流し、あるいはできる限り、肯定的、建設的に受け止めるようにすることが望ましいということです。
次回は、難しい問題として、触れるだけにしていた、「輪廻転生」の問題を述べたいと思います。
※ もう一つ、「共時性現象」を受け止めるときの、ポイントとなる見方をあげておきます。それは、「現実」というものは、「確定的」なものではなく、「流動的」なものである。あるいは、「一つ」のものではなく、「多様にある」という見方です。
現実が、確定的なものとして、一つしかないものであるならば、意味において関連する事柄が、同時的に起こるなどということは、(「現実を変えてしまう」事柄なので)起こり得ない、という見方にもなります。これは、共時性現象自体が、受け入れ難く、恐ろしいものと感じる基盤となります。
これについては、記事でも、たとえば、『「量子」と「霊的なもの」』で、実際には、現実とは、観測以前に確定しているものではないことを述べました。量子のレベルでは、このことが認められていても、なかなか日常の現実において、このことを認めることは難しいとも言えます。しかし、共時性を受け止めるにおいても、現実について、このような柔軟な見方をしておくことは、大きく作用すると思われるのです。
なお、『狂気をくぐり抜ける』の方の、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1,2』では、さらに踏み込んで、現実は知覚と別にあるのではなく、「知覚自体が現実を作る」ということも述べていますが、これも「共時性」の受け止め方に大きく影響する見方なので、ぜひ参照ください。
「共時性現象」は、その受け止め方によって、現象自体も変わって来るほど、「受け止め方」こそが重要な問題と言ってもいいものです。もちろん、「受け止め方」によって、その現象に関わる者の精神状態や理解も大きく左右されます。
「受け止め方」によって、現象自体が変わって来るのは、前回もみたとおり、要するに、受け止める側の「意識」が、現象の発生や継続に、作用することになるからと言えます。そもそも、「共時性現象」は、(様々なレベルにおける)「意識」により、「意味」的に関連する出来事が「引き寄せ」られて、同時的に起こるものでした。ですので、「受け止める」、「注目する」、「解釈する」という、本人の「意識」の作用(その「結果的な意味」)も、現象に対してフィードバック的に、影響を与えることになるのです。
このことは、単純に、共時性現象が起こったときに、それに「注目する」かどうかによっても、かなり違って来ます。それだけで、その現象は、繰り返し、起こる傾向があるのです。さらに、それに強い印象をもち、感情的な反応を伴えば、それはなおさら、強化されます。
それは、その現象に注目したことにより、繰り返し起こるのではなく、注目しないでも、たまたま、まれな現象として、繰り返し起こっていたものに、注目したが故に気づかれたというに過ぎない、という見方もあり得ます。しかし、私も、注目することで、明らかに、連続的に起こるようになるということを、何度も体験していますし、ユングや、その研究者河合隼雄も、そのことを示唆していました。
本当に、単純な例では、たとえば、ある数字に特別に注目するだけで、その数字を身の回りに目にすることが、明らかに、連続して、増えるということが起こります(何か、世界相手に、ゲームをしているような感覚に陥ります)。皆さんも、是非試してみてください。これは、マージャンやその他のギャンブルでも、よく起こることで、むしろ、ギャンブルにおいては、あえて、そのように意図して、その数字を「引き寄せる」ということが、(無意識にも)行われるものとみることができます。
そして、前々回も述べたように、「霊界の境域」に入り込んだときには、「共時性現象」は頻発し、このような、「受け止め方」によって、現象自体が変化する傾向も、如実に感じ取れるものとなります。
そのような現象は、たまに起こるということであれば、特に影響を受けることもないでしょうが、そのように頻発するときには、混乱したり、振り回されて、よからぬ精神状態に陥ることにもなりがちです。ですから、そのような場合は、どのように受け止めるかが、殊更重要なことにもなります。
多くの人が、日常的にしているように、そのような現象を、単なる「偶然」として、受け流すという方途もあり得ます。後にみるように、「共時性現象」を、否定的、恐るべきものと受け止めれば、その現象自体も、実際に、そのような傾向を帯びて、それが繰り返される可能性があります。それで、下手に「共時性現象」などと受け止めるぐらいなら、「偶然」として受け流す方が、賢明ということもできます。
しかし、「共時性現象」は、前々回みたとおり、日常を超えた、「オカルト」的な現象を身近に感ずるよい機会だし、これまでの常態化した「世界」の受け止め方を変え、新たなものをもたらす機会にもなります。また、「霊界の境域」に入り込んだときのように、それが、明らかに、偶然とは考えられないというほどに、頻発するときには、もはや、偶然ということで、受け流すことは難しくなるでしょう。
従って、そのようなときは、「共時性現象」をそれとして受け止めたうえで、それに囚われることなく、振り回されないようにするという方向に向かうことが、建設的です。そして、その受け止め方によって、その現象の現われ自体を、良い方向に変えていける可能性があることを知ることも重要です。
「共時性現象」を、それとして受け止めるということは、前々回も述べたように、その現象を、単純な因果律の延長上に解釈することを止め、因果律を超えた別の原理が働いたものとして受け止めるということです。
単純な因果律の延長上に解釈した場合、前々回の例でいくと、たとえば、「心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながる」ということがあります。あるいは、「逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも、何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまう」ことにもなります。
どちらも、それが頻発する状況では、妄想的に凝り固まってしまって、かなり危険な状態をもたらし得ます。
このような場合には、「理由は何にせよ」、「意味的に関連する出来事が、同時的に起こったに過ぎない」ということ。そして、「単純な因果律を超えた原理が働いた」のだと、まずは率直に認めることが必要なのです。
前回もみたように、「共時性現象」にも、それが起こる「原理的な理由」はあって、それは、(種々のレベルにおける)「意識」にこそあると言えるのですが、それは、物理的な世界における「因果律」、特に、単純な「一義的」な因果律とは異なります。そこを、短絡的に、因果的に解釈すると、上のような、「妄想」につながる解釈をし、囚われを生むことになるのです。
しかし、先にみたように、「意識」の作用が元であるとすると、その現象自体に対する、自分自身の「受け止め」方もまた、現象自体に影響を与えることになり得ます(頻繁に起こる状況では、それを自ら確かめることもできるはずです)。そのことを自覚して、その受け止め方自体を、できる限り、肯定的、建設的なものにしていくということが必要になるのです。
「共時性」は、「意味」において関連する出来事が同時的に起こるのですから、その「意味」というのを、よい兆候として、肯定的に受け止めるか、または、悪い兆候として、否定的に受け止めるかということが問題となります。
そもそも、「共時性現象」は、頻発して起こると、恐怖をもたらすものがあるので、悪い兆候として、あるいは、自己に対して、攻撃的なものとして、否定的に受け止められる可能性が高まります。否定的な受け止め方は、感情的な要素も伴って、より強化されがちなので、その否定的な受け止め方自体が、現象に影響し、さらに否定的な現れを繰り返し、循環されるようになる傾向もあるのです。
このことに関連して、一つの典型的な例として、このような現象を、「集団ストーカー」の被害を受けている、と解釈するものがあります。
人などと、不自然な形(自分の内心にとって特別なタイミング)で、出会うことなどが重なると、自分に誰かが、つきまとっているというような感覚に陥ることにもなります。そして、それを、集団としての組織が、嫌がらせのために、ストーカー行為をしていると解釈するようなことも起こるのです(最近は、ネットでも、多くの「被害報告」が挙げられていることにもよります)。
そして、そのような解釈にはまり込むと、その「被害」は、延々と繰り返されて、止まない傾向があります。
これなどは、(単なる誤認でないとすれば)、偶然を超えた「共時性現象」が元になっている可能性があり、それを否定的、攻撃的なものとして受け止めてしまったために、まさに、その否定的な現れを、実際に強化して、繰り返し現れるようにしてしまったものと解されます。
ですので、「共時性現象」は、できる限り、肯定的、建設的なものとして受け止めることが望ましいのです。明らかに、否定的なものがあるときでも、肯定的、建設的な受け止め方ができれば、その方向に変わってくる可能性もあります。
たとえば、前々回あげた、ユングの「黄金虫」の例でも、「黄金虫」の夢を、何か奇妙な、攻撃的な現われとして、受け取る可能性もあったはずです。しかし、それを、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味として受け取ったことが、(患者自身にも)作用し、「癒し」へ向けた、よい結果を「引き寄せ」たとも考えられます。
ただし、そのように、あえて、肯定的に受け止めることなどをしないでも、殊更、否定的に受け止めなければ、その現象が繰り返されることもないとして、受け流すような態度を身につけることも必要でしょう。むしろ、「共時性」として受け止めたうえで、あえて「意味」を詮索したりしないで、ただそのまま受け止めておくことの方が、現象に拘らないようにするうえで、望ましいとも言えるのです。私自身は、そのようにしています。
現在は、この世界自体が大きく揺らいでいる(ある意味「霊界の境域」と化している)ので、このような現象は、一般にも、ますます頻発して来ると思われます。そのような現象は、何か特別なことではなく、自然なこととして、受け止めることの方が、適切になって来ると思われるのです。
以上、要するに、「共時性現象」は、因果律を超えた現象とはっきりと受け止めつつも、それには囚われず、受け流し、あるいはできる限り、肯定的、建設的に受け止めるようにすることが望ましいということです。
次回は、難しい問題として、触れるだけにしていた、「輪廻転生」の問題を述べたいと思います。
※ もう一つ、「共時性現象」を受け止めるときの、ポイントとなる見方をあげておきます。それは、「現実」というものは、「確定的」なものではなく、「流動的」なものである。あるいは、「一つ」のものではなく、「多様にある」という見方です。
現実が、確定的なものとして、一つしかないものであるならば、意味において関連する事柄が、同時的に起こるなどということは、(「現実を変えてしまう」事柄なので)起こり得ない、という見方にもなります。これは、共時性現象自体が、受け入れ難く、恐ろしいものと感じる基盤となります。
これについては、記事でも、たとえば、『「量子」と「霊的なもの」』で、実際には、現実とは、観測以前に確定しているものではないことを述べました。量子のレベルでは、このことが認められていても、なかなか日常の現実において、このことを認めることは難しいとも言えます。しかし、共時性を受け止めるにおいても、現実について、このような柔軟な見方をしておくことは、大きく作用すると思われるのです。
なお、『狂気をくぐり抜ける』の方の、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1,2』では、さらに踏み込んで、現実は知覚と別にあるのではなく、「知覚自体が現実を作る」ということも述べていますが、これも「共時性」の受け止め方に大きく影響する見方なので、ぜひ参照ください。