2018年07月10日

「スピリチュアル」との関係

「オカルト」と似た領域を表す言葉として、「スピリチュアル」というのがあります。しかし、この「スピリチュアル」は、「オカルト」とは、随分意味合いが異なっています。

「スピリチュアル」は、「霊的なもの」あるいは、「霊性」とか「精神性」などを意味する、かなり漠然とした言葉で、「物質的なもの」に対抗して出て来ています。その意味では、「反科学」または「非科学」として、科学と対抗する意味合いをもつ、「オカルト」とも通じるものがあります。

しかし、これには、「オカルト」のように、「否定的」で、「おどろおどろしい」イメージは、ほとんどないでしょう。「スピリチュアル」は、かなり多くの人、それも若い人に、「市民権」を得られつつあると言えます。

日本では、一時期テレビで活躍した、霊能者江原啓之の影響も大きいと思われます。かつて、「霊的なもの」といえば、祟る「霊」や、不幸をもたらす「霊」がイメージされ、「おどろおどろしい」面が強かったのです。しかし、「スピリチュアル」は、「霊的なもの」が、「物質的なもの」では得られない、精神的な意義をもたらし、生きて行くうえでの、糧となる面があることを、明らかにしました。「霊的なもの」の「光」の面を、明らかにしたとも言えます。

私も、その意義は認めますし、「オカルトの基本を学ぶ」ことに、このような「スピリチュアル」の面も含めていいと思います。

ただ、このブログでとりあげるのは、「スピリチュアル」ではなく、あくまで「オカルト」であるということに、拘りたいと思います。その理由は、簡単に述べれば、次の3つになります。

1 単に、「物質的なもの」に「対抗」するというだけでなく、「物質的なもの」も含めた、全体としての「存在」や「現象」の、根底にある(働く)「隠れたもの」を、浮き上がらせることをも目指したいということ。つまり、「本来の意味のオカルト」を、取り戻したいということ

「スピリチュアル」は、19世紀の英国に興った「心霊主義」に発しており、「物質的なもの」あるいは「唯物論」という価値観に、対抗する意味合いが強いものです。それは、独特の価値観を含み、キリスト教的な信仰心や倫理観も含みます。

それが悪いわけではないし、また、このような領域の探求には、必要な場合もあるでしょう。しかし、科学が飛躍的に発展した現在では、改めて、「物質的なもの」との関係も見直しつつ、全体としての「存在」や「現象」の根底にあるものに、迫る必要も出て来ています。そこでは、「スピリチュアル」というものを超えて、さらに深く、客観的、総合的に考察する必要もあると思います。

2 「霊的なもの」の「闇」の面、あるいは「危険」な面をも、率直に見つめる必要があること。それには、「スピリチュアル」では足りないこと。

先に、「スピリチュアル」は、「霊的なもの」の「光」の面を、明らかにしたと言いました。それに対して、「オカルト」は、多分に、「闇」の面を含むと言えます。「魔的」な面と言ってもいいです。だからこそ、「おどろおどろし」くもあり、「危険」な面もあるのです。

前回みたように、それとの接触が、「精神的な病」とみなされるような混乱や苦悩をもたらすのも、そのような面があるからこそです。しかし、多くの場合、そのような「闇」の面こそが、「霊的なもの」との接触の「契機」となり、「入口」となるのです。

「スピリチュアル」は、そのようなものに惑わされないような、「霊性的」な態度を説きはします。しかし、本当に「闇」の面を克服するには、その「闇」の面そのものについて、十分に知ることも必要でしょう。その点では、「スピリチュアル」には、足りないものがあります。

その意味でも、「オカルト」そのものを、学ぶ必要があると思います。

3 「オカルト」への嫌悪感を克服するには、「オカルト」そのものを問題にする必要があること

これは、上の2と同じようなことですが、ちょっと視点を変えて述べます。最初の記事でみたように、近代の時期に、「オカルト」は「捨てられた」と言えるのですが、それは、とりもなおさず、多くの人が、「オカルト」に対して、独特の「嫌悪感」をもってたからです。

それは、もちろん、「オカルト」には「闇」の面があり、「おどろおどろし」く、人の目を背けさせるものがあるからです。それ自体は、確かなことなのですが、だからと言って、「オカルト」を「なきもの」とし、正面から見つめることを回避していたら、いつまでも、それを克服することにはつながりません

「スピリチュアル」は、「光」の面を強調することで、それに目を向けさせることに、ある程度成功しました。しかし、「オカルト」そのものへの嫌悪感は、まだまだ強いと言えます。

私は、このような「オカルト」への嫌悪感が克服されるためにも、むしろ、あえて「オカルト」そのものを問題とし、正面からとりあげることが必要と思うのです。
posted by ティエム at 23:47| Comment(2) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「オカルトの基本を学ぶ」とは?

以上でお分かりと思いますが、「オカルトの基本を学ぶ」というのは、もちろん、オカルト的な現象をただ拾い集めて、面白おかしく語るというものではありません。また、そのような現象について、単に、真実を究明したり、考察するというだけのものでもありません。しかし、だからと言って、「オカルト」の領域にマニアックに突き進み、深く探求していくというものでもないのです。

最初の記事で述べたように、「オカルト」については、「科学との関係」ということを抜きにしては、本当には、語れないところがあります。あるいは、「科学との関係」をしっかり見直さないで、「オカルト」のみで突き進むことには、本当に危険な面があります。オウム真理教にもありましたが、一見「科学的」に見えながら、実際には「疑似科学」そのもので、「オカルト」の偽装でしかないようなものもよくあります。それは、「科学との関係」が、本当には見直されていないことから、来ていると思います。

また、前回、「精神医学」は、実効的な意味で、「オカルトを捨てる」発想を支える、強力なイデオロギーだと言いました。しかし、だからといって、「精神的な病」とされるものが、実際には、ただ「オカルト的なもの」に惑わされているだけで、何ら「病的」ではないというわけではありません。むしろ、「オカルト」的なものが、実際に、「危険な力をもったもの」であるが故に、それに惑わされることは、社会的には、「病的」と評されることにもなるような、危険な状態をもたらすのです。

そのようなことも踏まえれば、「オカルトの危険性」にも、十分目を配って行かなくてはなりません。「オカルトの危険性」を重視するからこそ、「オカルト」を、「基本からしっかりと学ぶ」ことが、重要なことにもなるのです。

そういうわけで、「オカルトの基本を学ぶ」と言っても、ことはそう簡単なことではありません。「科学との関係」や、それを問うことの意味自体を、顧みて行うとなると、「歴史的」な考察や「哲学的」な考察も必要となります

このように、これまであまりなされたことのない試みであり、意欲的な試みなのですが、できる限り、分かりやすく、誰にも分かるような表現を目指すつもりです。
posted by ティエム at 23:32| Comment(0) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の体験から

私が、そのように考えるにいたったのは、自分自身のいくつかの経験にもよっています。

もともと、私は、10代の頃は、「科学」を信奉する者で、「オカルト」的なものは一切否定する考えでした。しかし、20才の頃、オカルト方面の本を読んで、一概に否定できないという思いを抱いたことや、自分自身、いわゆる「体外離脱」を連続的に体験するなどし、科学的に割り切れない現象は確かにあるという考えになりました。

さらに、私のもう一つのブログ『狂気をくぐり抜ける』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/)で述べているように、30才の頃、私自身、「オカルト」の強い作用を受け、「オカルト真っ只中」というべき体験を、することになりました。それは、数カ月に及ぶもので、様々な混乱と苦悩を経て来ました。一般には、それは、「統合失調」や「解離」などの、「精神的な病」として理解されるものではあります。「精神医学」が、そのような見方を支える役目を果たしています。しかし、私の経験からすると、それは、どうしても、「オカルト」抜きに理解することは、無理のものでした。

そのような体験を経て、私は、「オカルト」は確かに存在するということ。それは、決して、遠いところにあるのではなく、誰もが、いつ体験してもおかしくない、身近なところにあるということ。それに惑わされて混乱することこそが、「精神的な病」といわれるものの、実質であることを知りました。

つまり、「精神的な病」といわれれるものは、実際には、「オカルト」的なものと接する、最も身近な「機会」であり、「入口」なのです。ところが、「精神医学」という学問が、それを「病気」とし、「治療」の対象とすることで、そこから、「オカルト」的なものを、閉め出しています。必ずしも、「科学」そのものが、「オカルト」を否定しているわけではないのです。「精神医学」そのものは、「科学」といえるものか、怪しいものですが、イデオロギー的な意味で、「オカルトを捨てる」ということに、最も貢献しているのです。

『狂気をくぐり抜ける』のブログでは、『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)という記事が、このあたりのことを主題として述べていますので、是非参照してください。

ともあれ、それ以来、「オカルト的なものに惑わされる状態」の多くは、「病気」として処理され、「治療」の対象とされます。

しかし、それで、問題が、本当に解決するはずもありません。「病気」として「治療」の対象としても、「オカルト的なものに惑わされる」こと自体が、なくなったり、減ったりするわけではないからです。そもそも、「オカルト」そのものが「なきもの」とされている限り、このようなことは、検討される余地すらありません。

その意味でも、現在は、「オカルト」そのものを、正面から問う必要が出てきていると思います。

いずれにしても、「オカルト」的なものが、本当に身近な問題として問われるのは、自分自身が、その作用を受けたときでしょう。そのようなとき、「オカルト」について知ることがないと、混乱を深めることにしかならないと思います

『狂気をくぐり抜ける』のブログでは、そのような「狂気」の状態を、かなり根源的に考察しています。ただ、一般には、難しいと思われる部分も多く、「オカルト」については、多く触れられていますが、基本的なところから説き起こすことはしていません。

そこで、このブログでは、「オカルト」そのものについて、基本に溯って、分かりやすく学ぶということを、企図しました。
posted by ティエム at 23:08| Comment(0) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「オカルト」とは何でしょうか?

「オカルト」という言葉は、本来、「隠されたもの」という意味です。「表に現れないもの」ということでもあります。要は、現象の表面には現れないけれども、その現象を深く探っていくと、背後に見え隠れする、何らかの力といったものを意味すると言っていいでしょう。

本来、「オカルト」そのものには、決して、否定的な意味合いはないわけです。

しかし、現代では、通常この言葉は、否定的な意味合いで使われます。たとえば、「そんなのはオカルトだよ」と言う場合、それは、根拠が曖昧で、非合理的なものを、揶揄する意図で言われています。そんなものは、「論理的に存在し得ない」というわけです。あるいは、「おどろおどろし」くて、「受け入れ難い」ものを、言い表わすことがあります。通常は起こり得ないはずの、恐ろしい事柄といった意味合いです。

このように、「オカルト」とは、「論理」とか「常識」などとは反対の意味で使われているのです。その「論理」とか「常識」の背後にあるのは、通常「科学」でしょうから、端的には、「反科学」あるいは「非科学」の意味ともなります。

このように、「オカルト」がもたらす否定的な意味合いを理解するには、「科学とオカルトの関係」を、押さえておく必要があります。「科学」が、「論理的」「常識的」なものとして、肯定的にみられるのに相反して、「オカルト」が否定的なものとみられるのですから。

しかし、この「科学とオカルトの関係」は、近代以前の時代から、近代を経て、現代に至るまで、複雑な紆余曲折を重ねて、あるものです。

近代以前には、科学もオカルトも、「信仰」ということに導かれ、混然一体となっていました。ところが、近代に至って、合理的な思考に基づく、「科学」が台頭することで、その科学と相いれないものが、「オカルト」と呼ばれるようになったのです。「科学が選ばれた」ことで、「オカルトが捨てられた」ともいえます。それによって、「オカルト」の否定的な意味合いが、確かに固められたのです。

しかし、現代に至ると、その「科学」そのものへの不信から、「オカルト」的なものも復興した面があります。「科学」は、明るい未来を約束するものとして、「選ばれた」のですが、実際には、必ずしも、そうはなりませんでした。それで、逆に「オカルト的な力」ということの方に、期待が移ったという面もあるのです。

さらには、「科学」そのものの飛躍的な発展が、「オカルト」との区別を、かつてのようには、明確でないものにもしました。それは、我々の周りに、原理の理解しにくい、「魔術的」ともいえる、技術の発展をもたらし、また、「量子力学」などの、不可思議で、「オカルト」にも通じるような、理論も生み出したのです。

詳しくは、おいおい、ブログでみていくつもりですが、何しろ、現在は、「科学」と「オカルト」は、どちらが肯定的とか否定的とか、単純に割り切れるものではなくなっています。あるいは、何が「科学」で、何が「オカルト」かも、明確には定めにくいものになりつつあるのです。

それでも、「科学が肯定的なもの」で、「オカルトが否定的なもの」だというのは、現在の大方の人の見方であるのは、間違いないでしょう。しかし、事情によっては、それが逆転する可能性もないわけではないし、そもそも、科学とオカルトの区別すら、今後も維持されるかどうか分からないのです。

現在、「オカルト」が否定的な意味合いとなるのに、大きく影響していることとして、かつてのオウム真理教事件があります。オカルトにのめり込む人たちが、人の命をも軽視するような、重大な事件を起こし、「オカルトは危険」との認識が、広く行き渡ったのです。

しかし、そもそも、それだけ多くの、それも知的と言われる若い人たちが、「オカルト」の方にこそ、真実性をみて、突き進んでいったということは見逃せません。そして、現代でも、その傾向が、なくなったわけではありません。

現在でも、「科学」というものを、無条件に信奉するという人、「オカルト」など容れる余地は、微塵もないという人にとっては、オカルトなど問題とすること自体、無意味か、あるいは危険なことであるでしょう。

しかし、私は、現代は、改めて、「科学とオカルトの関係」を問い直し、「オカルト」そのものを見つめ直す必要がある時代になっていると考えます
posted by ティエム at 22:51| Comment(2) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする