2018年07月22日

「魔女」とオカルト

前回の記事で、オカルトに対しては、多くの人に、独特の「嫌悪感」があると言いました。それで、オカルト的なものに対しては、無意識のうちにも、排除しようとする傾向が生まれます。ときに、それは、暴力的な行為となって現われることもあります。それを、象徴するのが、「魔女狩り」という出来事です。

「魔女狩り」は、西洋で、「魔女」として摘発された多くの人たちが、宗教裁判にかけられ、虐殺された事件です。裁判では、拷問を受け、自白を迫られるので、「魔女」として摘発されれば、結局、ほとんどの人が、火あぶりにかけられて死ぬことになりました。

この出来事に関して、注意すべきことが二つあります。

一つは、「魔女狩り」が最も激しく起こったのは、16世紀から17世紀、つまり、近代に入るすぐ前の時期だということ。もう一つは、教会や異端審問所が裁判と刑を実行したのは事実ですが、「魔女」として摘発するのは、一般の市民であり、一般の人たちこそが主導した出来事だということです。

「魔女」とは、「悪魔」と結託して、人間に対して、様々な不幸をもたらす者を意味します。この「魔女」も「悪魔」も、当時、多くの人に、当たり前のように信じられていました。そこには、もちろん、教会による宣伝などの、影響はあります。しかし、その信仰は、根の深いもので、決して、とってつけられたような、浅いものではありません。

「魔女として摘発する」というとき、それは、単に抽象的に、そう「みなした」というのではなく、多くの場合、「魔女」が行うとされる行為の、「目撃証言」が伴っています。魔女同士で集まって、「サバト」と呼ばれる夜宴(集会)をしていたとか、ホウキに乗って、空を飛んでいたなどです。

まさに、おどろおどろしい、「オカルト」そのものです。そのような、「魔女」が、当時の人々に、「リアル」に信じられ、身の周りに起こる、様々な「不幸」の原因とみなされたのです。そして、そうみなされた人たちが、次々と摘発されたのです。

このような「魔女」のイメージの元になったのは、村のはずれに住む、占い師であり、呪術や薬草によって、病気を癒す老婆だったといわれます。要するに、昔ながらの、伝統的なシャーマンの名残です。『千と千尋の神隠し』に出て来た魔女も、そんなイメージでした。

このような「魔女」も、占いによって運命をみ、呪術的な力で病気を癒すなど、やはり、「オカルト」的なものを多分に身にまとっています。ただし、かつては、そのようなものは、多くの人に、頼られ、力添えとなっていたのです。ところが、この時代には、キリスト教信仰の強力な普及もあり、邪悪なものとして、「悪魔」と結びつけられて、貶められることになったのです。

呪術的な力、あるいは「オカルト」的な力というものは、それをどう使うかによって、人々の生活の糧になる面もあれば、不幸をもたらす面もあるのは事実です。この当時には、様々な社会不安もあって、その「不幸をもたらす面」ばかりが注目され、異様に拡大されたと言えるでしょう。

そして、その「不幸をもたらす面」が、一身に、「オカルト」的なものを体現する、「魔女」に押しつけられて、貶められたのです。単に、「貶められた」というだけでなく、実際に、「なきもの」にすべく、惨殺されたのです。そこには、凄まじいばかりの意思が、働いていたというべきです。

これは、「オカルト」的なものを体現する、「魔女」をなきものにすることによって、「オカルト的なもの」そのものを、「なきもの」にできるかのように信じたということです。しかし、当然ながら、実際には、そうはなりませんでした。

実際、「魔女狩り」の対象は、単に、伝統的な「魔女」だけでは足りず、ありとあらゆる、異端者やはみ出し者にまで、拡大されます。「オカルト」的なものの暗躍は、それでも、一向に止むことがなかったからです。そして、最終的には、隣の誰々さんも、「呪い」によって、家の不幸をもたらす「魔女」と疑われ、摘発される事態にまで発展します。

ここまで至ると、事実上、誰もが「魔女」として告発される可能性があることになります。このまま、「魔女」を告発し続ければ、全体として、「共倒れ」になる可能性があることに、誰もが、気づかざるを得なくなっていたということです。

実際、ここに至って、「魔女狩り」という出来事は、一気に終息に向かうことになります。そして、その後に、近代という時代が起こっているのです。近代とは、「理性」の時代であり、「科学」の時代の始まりでもあります。

それは、「魔女狩り」という出来事を、「非合理」なことと、根本的に反省して、起こったのでしょうか。そんなことはありません。近代は、「魔女狩り」の終息とともにすぐ起こっているので、そのようなことが、一気になされるはずもありません。

「魔女狩り」については、そのやり方では、「オカルト的なもの」そのものを排除できないばかりか、それを押し進めていけば、結局は、「共倒れ」になるということを悟っただけなのです。

近代のあり方も、実際には、「オカルト」を「なきもの」にしようという方向性は、変わっていません。だから、実質的には、「魔女狩り」の延長として起こっているとすら言えるのです。ただし、そのやり方は、より洗練され、少なくとも、見かけとしては、「暴力的」なものではなくなりました。それは、「理性」によって、「オカルト的なもの」そのものを、「なきもの」とするというやり方です。

「魔女」だけでなく、「オカルト的なもの」そのものを、全体として、「ないこと」にしてしまおうとしたのです。その結果として、「不幸」は解消され、幸せが到来すると信じられたのです。

しかし、そのためには、その後も、「オカルト」的なものを何らかの形で、身に漂わせる者は、その入り口のところで、徹底的に排除し、社会に入り込ませないようにする必要があります。つまり、「魔女」としてではなくとも、「理性に反する者」として、「狩られる」必要は、相変わらずあったのです。その役目を担ったのが、そのような者を、「病気」として、病院に「隔離」した、精神医学です。

このあたりのことは、前にもあげた、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事、『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)、及び、『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-5403.html )に詳しく述べているので、ぜひ参照してください。

いずれにしても、「オカルト」的なものを「嫌悪」し、「なきもの」にしようとするあり方は、「魔女狩り」の出来事以来、ずっと続いているということです。そして、そのために、人間は、相当の努力と労力を払い続けて来ているのです。

かつては、「オカルト的なもの」そのものは、強力に信じたうえで、その力を体現する者を、「なきもの」にしようとしました。しかし、それが、成功しないので、近代には、「オカルト的なもの」そのものを、信じないで済むように、「理性」の力で、全体として締め出そうとしたといえます。

しかし、それも、結局は行き詰まり、失敗に終わろうとしていることが、明らかになりつつあるのではないでしょうか。そして、そうであればあるだけ、依然としてなくならない、「オカルト的なもの」を排除しようとする意思は、より強力になっているのではないでしょうか。それは、かつてのような、あからさまな「魔女狩り」に通じるものにも、なりかねません。所詮、その意思は、「休戦状態」のまま、眠り続けていたのですから。

結局は、「オカルト」を避けるのではなく、正面にすえて、それに対して、どのような態度をとるのか、明確にしない限り、このような事態は、解消されないと思う次第です。

※  「魔女狩り」については、主に、度会好一著 『魔女幻想』(中公新書)を参照しています。この本は、どんな出来事があったかだけではなくて、民衆の「魔女幻想」の背景に踏み込んでいて、参考になります。
posted by ティエム at 13:28| Comment(0) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする