2018年09月29日

「霊」についての科学的アプローチ

歴史的経緯

今回は、「霊」について、科学的にアプローチしたものをとりあげます。

前々回、超能力については、「超心理学」という学問があることをみました。超心理学は、超能力について科学的に研究する学問ですが、それは、もともと、霊について科学的な研究をしようとする心霊科学」(スピリチュアルリサーチ)から、始まったものです。

西洋で、19世紀頃、死者との交信などの心霊現象を起こす霊媒が多く現れて、交霊会も頻繁に催され、多くの者の注目を集めることになりました。科学者や心理学者、作家などさまざまな分野の著名人も注目して、霊について科学的に検証しようという機運が高まりました。そこで、「心霊科学協会」が設立され、科学的な研究が始まったのです。参加した者には、シャルル・リシェやウイリアム・クルックスなどのノーベル賞級の科学者や、心理学者ウイリアム・ジェームス、哲学者ベルグソン、作家のコナン・ドイルなどもいました。

しかし、霊媒の起こす現象は、かなり気まぐれで、研究の方法を確立するのは難しく、ときにトリックであることが判明することもありました。超能力者を対象とする研究も、難しい問題があることをみましたが、霊媒については、さらに難しい事情があります。

霊媒が、霊のもたらす情報を語ったとしても、霊は「生きている者」ではなく、「既に死んだ者」であって、間違いなく、その者がもたらす情報かどうかを確認する方法が確立できないからです。

「クロスコレスポンデンス」(霊が何人かの霊媒に情報を分断して伝えて、一人の者では意味をなさず、全体で始めて意味をなすような内容となる交信方法)など、多くの工夫もなされ、確かに霊によるものと思わせるだけの、肯定的な結果も出ているのですが、「決め手」には欠けることになります。また、その死者しか「知らないはず」の情報が得られることも多くありましたが、他の何らかの方法で霊媒がそれを知る可能性は排除できず、その「証明」となると非常に困難です。

しかし、「証明」ということは別にすれば、死者や高級霊とされる霊が語る霊界通信の内容には、驚くほどの一貫性があって、とても作為的に作られたとは思えないものも多くあります。霊や霊界について、かなり踏み込んだ内容の、興味深い事実が知られることもあるのです。

そういうことから、霊界通信の内容自体を重視し、「科学的な研究」ということからは離れて、「霊」そのものを「物質的なもの」とは別に存在する価値あるものと認めて、生きるうえでの糧にしていこうとする立場も現れて来ます。それが、何度か触れて来た、「スピリチュアリズム」(心霊主義)の始まりです。

一方で、あくまで、「科学的な研究」ということを重視する立場もありました。その中には、死者と交流する霊媒を対象とするのでは、厳密な研究はできないということで、生きた者の現す超能力現象を研究対象とするべきだというものも出て来ます。それが、実験的な「超心理学」の始まりとなるのです。

この辺りの、歴史的経緯については、前にもあげた、超心理学を概観する、このサイトが簡単に説明していますので、参照してください。( http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/1-2.htm )

ところが、既にみたように、超心理学によって、「超能力」の存在が明らかにされると、それは霊の存在の証明についても、難しい問題を追加しました。超能力があるということになると、霊媒が語る内容が真実である場合にも、それは、霊が語ったのではなく、霊媒が、超能力によって得た情報である可能性があるからです。超能力は一応とも証明された能力とすると、科学的には、証明されていない霊の存在より、優先して採用されなければなりません。さらに、本来、超能力は、限界の想定されるものですが、「超ESP仮説」といって、普通は起こり得ないような込み入った内容の情報や物理的な現象でも、超能力で得られた(なされた)ものとみなすべきという考えも出て来ます。そうすると、事実上、どのような現象でも、霊ではなく、霊媒が超能力で起こしたものとみなければならないことになり、霊の証明自体が、不可能となります。

これは、極端な例ですが、そうでなくとも、やはり、霊の存在を認めることは、超能力の場合以上に、難しい事情にあるということです。

ただし、超心理学の内部にも、霊や、あるいは人間の死後生存の問題を研究することを志す人たちはおり、超能力のように、厳密な実験的方法は無理としても、可能な限り科学的なアプローチで、迫ろうとするものがあります。これらは、それなりに、多くの成果をあげ、いわば「情況証拠」的な積み重ねをもたらしています。

たとえば、テレビなどでもよくとりあげられる、「臨死体験」の研究や、イアンスティーヴンソンを初めとする、「前世の記憶」を語る者の研究などです。

研究の成果の概要

このような科学的アプローチの成果を、ざっとみていきたいと思います。

臨死体験

「臨死体験」は、人が死に瀕するときに体験する、特異な体験です。人により、様々な内容がありますが、大枠で、共通する要素があり、肉体から意識が離脱する、体外離脱、人生を一瞬にして振り返る、走馬灯体験、三途の川や壁などの、ある「境界」との遭遇、既に死んだ者との遭遇、光の存在との遭遇などがあります。日本でも、昔から、民間で、死ぬときに体験する現象として、語り伝えられていたものと多く重なります。それが、現代は、病院で死を迎えることが多くなって、その間際の体験というのが、立ち会った医師にも知られることが増えたことが、科学的な研究の可能性をもたらすことになりました。

たとえば、体外離脱では、肉体は臨死状態でも、肉体から抜け出した意識が、その場をはっきりと観察していて、医師が自分に施した手術などの内容を事細かに語るということがあります。当然、医師はそれを聞いて、驚きます。さらには、その者が病室で見れるわけがない、病院の別の階の窓の外にあったシューズのことを、体外離脱中に見て、詳細に語ったという例もあります。

このように、臨死体験は、個々的に、様々な内容がありますが、核となる共通の要素があるので、全くの作り話とか、単なる幻想とは言えません。また、先にみたように、物理的な事実と符合する内容を含むことがあるので、ただの幻覚ともいえないものです。そのようなことから、できる限り科学的に、多くの事例を解析して、人間の死後生存の問題や、霊の存在について、何らかの結論が見出されることが期待されるのです。

もっとも、これらの体験が、すぐさま、人間の死後の存在や、霊の存在を証明することにならないのは当然です。これらの体験が事実としても、それはあくまで「死に臨した」状態の体験であって、「死後の体験」そのものではないということもあります。臨死の状態では、脳の活動は停止しておらず、体験の内容も、脳の危機的な状態が生み出した、何らかの幻覚という可能性があります。たとえば、酸素の供給不足の状態が脳に幻覚をもたらすことや、側頭葉の刺激により、臨死体験と類似の幻覚が生み出されることが、実験的にも分かっています。だから、科学界の主流は、これらの体験を、事実とは認めず、幻覚とみます

しかし、自動車事故などで、脳を大きく損傷し、とても意識が機能する状況ではないのに、鮮明な内容の体験を報告する例もあります。さらには、脳死と判定され、脳波の活動も停止した状態で体験された臨死体験も、かなり報告されています。そのような状態では、幻覚を見ることや、記憶が残ることも不可能のはずで、脳の活動から独立した意識の働きが、想定されなければ、説明がつかないことになるはずです。また、たとえ、何らかの微弱な脳波の活動は残っていたとしても、その状態で、臨死体験のような、鮮明で、一貫した内容の体験が可能とは、とても思われません。

このような、脳活動停止後の臨死体験について、斎藤忠資という研究者が、ここに、簡潔にまとめています。(https://home.hiroshima-u.ac.jp/tadasi/ronbun-12.pdf )

さらに、先に見たような、体脱体験中に、物理的現実と符合する事実を報告するなどの例は、とても幻覚では説明できません。ただし、これも、肉体から離脱した「魂」によるのではなく、「超ESP仮説」のように、一種の「超能力」のなせる技である、と解する立場もあるのですが。

何しろ、「科学的」に厳密にいうならば、現在のところ、臨死体験が意味することについて、明確な結論は出ていないというしかないでしょう。ただし、科学界の主流は、先にみたとおり、臨死体験を、脳が生み出した幻覚とみなします。しかし、それでは説明できない場合が、あまりに多くあるのは明らかというべきです。

こういったところが、臨死体験の研究の概要ですが、臨死体験の例は、現在も非常に増えていて、かなり興味深い例も出て来ています。次回は、それも紹介しつつ、私なりに考察を試みたいと思います。

前世記憶の研究

次に、「前世記憶」の研究です。

後に、7,8才位になると、自然と記憶を失ってしまうことも多いのですが、幼年期に、「前世の記憶」を思い出して、詳細に語るという現象があります。欧米や日本など、輪廻転生または前世が信じられていない文化では、それも、何かの間違いとして、特に注目されずに、やり過ごされてしまうことが多いでしょう(ただし、最近は、注目されることも多くなっています)。ところが、インド圏のような、輪廻転生が信じられている文化では、その現象に注目され、実際にその語ることが、事実と符合することが確かめられるという事例も、多く存在しています。

バージニア大学のイアン・スティーヴンソンは、そのような「前世の記憶」を語る子供の例を、できる限り科学的に研究することで、事実に迫ろうとしました。そして、実際に、前世の存在を仮定するのでなければ、説明がつかないという事例が、多く存在することを明らかにしています。(『前世を記憶する子供たち』)

前世の記憶として語られた内容が、事実に符合するといっても、何らかの方法で、その子供がその事実を知ったという可能性は、当然あります。たとえば、親や親族などが、自分では覚えていなくとも、その前世とされる者のことを過去に語っていて、子供が何らかの仕方でそれを記憶していた、ということなどが考えられます。しかし、そのように、親や周りの者が、通常の仕方では知り得ないような内容のことを、詳細に語って、後に特別の調査により、事実と符合することが分かったという事例も多く存在します。

『超心理学読本』の著者である、笠原敏雄が、このようなスティーヴンソンの研究の概要を簡単にまとめたものが、ここにあります。(http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/parapsy/previousmemory.html )

スティーヴンソンの研究を引き継ぐタッカーは、より調査のしやすい、欧米の子供の例においても、詳細に前世の記憶を語る子供の事例を報告しています。たとえば、アメリカの事例で、第二次大戦時に、戦闘機に乗って戦闘に参加したが、日本軍により撃ち落とされたという記憶を詳細に語る、ジェームズ君の事例があります。これは、その記憶の内容を疑う父親により、詳細に事実関係が追究されて、逆に真実と符合するものが多くあることが判明したというもので、非常に興味深いものです。たとえば、ここに、その事例が紹介されています。(https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=126720 )

このようなものは、もはや単純に、記憶錯誤とか、潜在的に知り得た記憶を語ったに過ぎないなどの説明は、つかないでしょう。ただし、「前世の記憶」であると結論するのは、「前世」ということの意味内容が、十分具体的で明確でないこともあり、難しいのも確かでしょう。

ただ、最近は、「前世」ではなく、「中間生」と呼ばれる、死んでから、生まれ変わるまでの間の、(霊界での)生についての記憶を語るというものも、出て来ています

記憶を遡る退行催眠によって、「中間生」の記憶が語られるというものもあって、その内容にはみるべきものがあるのですが、その場合には、術者の影響が入り込んでいる可能性を排除できません。しかし、自然に思い出して「中間生」の記憶を語る例もあり、日本でも、産婦人科医池川明は、そのような事例を多く体験し、紹介しています。(『子どもは親を選んで生まれてくる』。なお、講演の動画 https://www.youtube.com/watch?v=PLBj0HvmkyI

このような「中間生」というものが間にあるとすると、死後の生との関係で、「生まれ変わり」とか、「前世」ということについて、ある程度一貫した、具体的なイメージをもつことも、可能かもしれません。

いずれにしても、いきなり「前世」の存在そのものを認めることは難しくとも、これら「中間生」や「前世」の記憶というものが、自分のものという明確な意識のもとに、詳細に語られ、事実と符合することもあることを考えると、死後も何らかの形で、同一性をもって残る、「霊」または「魂」のようなものを想定することには、十分の理由がある、とは言えると思います。

以上、「臨死体験」と「前世記憶」という2つの研究について概観しました。これらは、今後の研究においても、さらなる発展が見込まれるもので、注目されるところです。

次回は、これらを参照しつつ、さらに「霊」について総合的に考察してみたいと思います、。

posted by ティエム at 22:32| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月13日

「霊」とは何か

「霊」の見方

「霊」は存在するのでしょうか。しかし、「霊は存在するか」と漠然と問うても、そもそも「霊とは何か」というのは、結構難しい問題です。この場合も、「存在する」とはどういうことか、ということが問題となります。少なくとも、「物質的なもの」と同じ意味で、「存在する」というのではないことは明らかだからです。

とはいえ、あまり、このような問題に拘るのも、得策ではありません。以下、一通り、「霊」の意味するところを、みておくことにしましょう。

「霊」は、辞書でみると、「たましい」、「魂」、「精神」を意味するとされています。まあ、これは、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というものを、広く漠然と指す意味に解してよいでしょう。

しかし、普通は、「霊」というと、人間の死後、その者の生前の特徴をもって現れ出る「霊」、すなわち「幽霊」のことを指すと思われます。「霊」は、人間の死後も、つまり、肉体がなくなった後も残る何物かであることが、前提とされているのです。先の、「心の深くにあると想定される何らかの実体」というのとも、「死後にも残るもの」ということで、通じることになります。「霊」は、死後は消滅する、「肉体」とは区別されるものという意味を、特にもっているということもできます。

同じような意味合いで、「魂」という言い方もよくされますが、「霊」と「魂」は、本来は同じ意味ではなかったようです。それは、中国でも、西洋(「スピリット」と「ソウル」)でも同じです。

そもそも、このような、人の心にある「実体」を、「一つのもの」のようにみなすのは、近代人の発想に過ぎません。人には、一つのまとまった、分割できない「自我」がある、という発想です。しかし、たとえば、古代エジプトでも、「霊」には、「バー」と「カー」という二つのものがあり、中国でも、「魂」と「魄」という二つのものがあるとされていました。そして、「バー」や「魂」は、天に帰り、「カー」や「魄」は、地に帰ると解されていました。

「バー」や「魂」は、より肉体から離れた、純粋に「精神的」要素の強い「霊」の部分で、「カー」や「魄」は、より肉体に近い、(「物質そのもの」ではないが)「物質的要素」の強い「霊」の部分ということがいえます。「魂」と「魄」で言えば、「魂」は「陽の気」で、「魄」は「陰の気」ということもいわれます。

さらに、先住民の文化やアイヌなどでは、「霊」には、二つどころか、多くがあり、かなりややこしいものがあります。ただ、もともと、生まれながらに多くあるというより、後に、「憑く」という形で、取り込まれるものもあるようです。

シュタイナーなどの「オカルト」説では、「霊」「魂」「体」の三分説というのが
よくいわれます。「霊」というのは、純粋な「意識」の部分で、「魂」というのは、「霊」と「体」をつなぐ、中間的な部分、「体」というのは、「肉体」的な部分です。ただし、この「体」は、「物質的な肉体」に限らず、「エーテル的」、「アストラル的」なものが、あるまとまりをなして、まとわれるという形の、「体」も含みます。

このように、肉体以外の「体」を認めるわけですが、一般に、幽霊などが目撃されるときも、生前の肉体とそっくりの「体」をまとっていることから、理解できると思います。「幽体離脱」などでも、肉体にそっくりの体が離れるということが言われ、また、体験者には、そのとおり実感されます。

何しろ、「三分説」では、これらの「霊」「魂」「体」の三部分が、互いに絡み合って、全体として人間の個体を、構成しているとみるのです。

いずれにしても、「霊」とは、単純に「一つのもの」とは言えないということを、確認しておくことは必要です。近代人には、違和感があるでしょうが、自分の中にも、相入れない心の要素が多くあること、「多重人格障害」などの例でみるように、多くの人格が現れ出ることもあることを顧みれば、納得できないことではないでしょう。

とすれば、「死後に残る霊」といっても、必ずしも、一つのものとは限らないわけです。また、「スピリチュアリズム」においては、「類魂」と言って、死後の魂は、同じ魂のグループに融合すると解するものがあります。この場合は、むしろ、死後の霊が融合して、生前のような、一つのものではなくなる可能性があるわけです。

また、「霊」は、一つのものではないとすると、自分の中の、一部の霊が、生きている間にも、「抜け出る」ということもあり得るわけです。「生き霊」といわれるものがそうで、それが他人に憑くということもあるとされます。

「物質的なもの」と「霊」

先に触れたように、「霊」というのは、「肉体」つまり、「物質的なもの」に対する言葉ということも、重要な視点です。前に、スピリチュアリズムは、「物質的なもの」に対抗する意味合いをもって、出て来たことを述べました。まさに、「物質」ではなく、「霊」をこそ重視するからです。

ただし、「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかというと、そんなことはないのです。

たとえば、「幽霊」というのも、物質的なものと同じように現れることがあります。『呼び覚まされる 霊性の震災学』でも、まったく普通の乗客と同じように、しゃべり、触れることができるので、タクシードライバーが、メーターを倒して普通に載せると、途中で消えてしまったという「幽霊」の話が載っています。私も、経験がありますが、見かけ上、まったく生きている、普通の人間と変わらない幽霊もあるのです。ただし、いずれ、消滅したり、既に死んでいる人であることが分かることから、「幽霊」と判明するのです。

「物質的なもの」と「霊的なもの」が、画然と区別されるかのようにみなす発想も、近代に始まるといえます。デカルトの「物心二元論」というのが、その象徴でしょう。スピリチュアリズムも、科学など、物質的なものについての知見が重ねられて、「物質的なもの」というのがある程度明確になって、初めてそれに対抗する「霊的なもの」が、重要なものとして認識されたということができます。

ところが、近代以前には、「霊的なもの」といっても、「物質的なもの」と明確に区別されず、不可分のようにみなされていたのが分かります。それは、「物質」についての知見が、あまりなかったからということもありますが、しかし、全体としては、より真実そのままを捉えていたことになります。

先の、「バー」と「カー」や「魂」と「魄」の発想も、そのような「物質的なもの」と結びついた「霊的なもの」をはっきりと認める発想です。

しかし、「霊的なもの」が「物質的なもの」のように現れ出ることがあることを、理解するには、「霊的なもの」と「物質的なもの」の関係を、ある程度はっきりさせておくことも必要でしょう。

いずれ詳しくみますが、簡単に述べておくと、シュタイナーなどの「オカルト説」では、「霊的なもの」が「物質的なもの」を包含し、「霊的なもの」が凝縮されて、「物質的なもの」として現れ出るという発想をします。先の、物質的なものとして現れる幽霊も、そのような見方によって、理解できます。幽霊以外にも、ポルターガイスト現象や、ラップ音など、物質的な現象を起こす「霊」は多くありますが、それにも、同様の発想ができます。スピリチュアリズムでは、「エクトプラズム」という、半物質的な霊的エネルギーを使って、「物質化」がなされると解します。

人間以外の存在と「霊」

しかし、人間に「霊」というものがあり、死後も残るのだとしたら、人間以外のものにも、そのような霊がある可能性があることになるはずです。それは、人間以外の動物ということに、とりあえずはなります。しかし、人間の霊が、肉体がなくても、霊だけで存続できるとすれば、もともと肉体がなくても、霊だけで存在しているものもいるのではないか、ということが問題となります。

実際、昔からいわれた、人間以外の「精霊」や「神々」「妖怪」なども、そういった存在です(先にみたように、「物質化」して現れることはあります)。一神教にいう「神」もまた、そういうものともいえます。「霊」を認めるとなると、このような、昔から信じられた存在を、認める可能性も出てくることになります。というより、「霊」を認めるなら、人間だけにしか認めないという方が、むしろ不自然なことになるでしょう。

「霊」が「存在する」ということ

初めに述べたように、このような「霊」が「存在する」とした場合、それは、「物質的なもの」と同じ意味で「存在する」ということではありません。たとえば、幽霊の場合、姿かたちが、一部分だけだったり、半透明に透けていたり、大きく変形していたりと、「物質的なもの」では不可能な現れ方をしたりします。また、先にみたように、「物質的なもの」と同じ現れをすることはあったとしても、いずれ消えてしまうなど、「物質的なもの」そのものとはみなせないことになります。

このようなものは、「物質的なもののみが存在する」という見方からすれば、「存在する」とはいえないものとなるでしょう。逆に言えば、「霊」を認めるということは、「物質的なもの」とは別のものが「存在する」ことを、認めるということです。「存在する」ということの意味合いそのものに、大きな変更を加えることになるということです。「世界観」としても、大きな変更になるのは、当然のことでしょう。

ただし、「霊」も、「物質的なもの」と結びついている範囲で、科学の対象にはなり得るとも言えます。実際に、霊についても、科学的にアプローチしようという試みは、超能力の場合と同様に、あります。次回は、それについてみることにします。



posted by ティエム at 21:52| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする