2018年11月20日

木内鶴彦氏の臨死体験

今回は、スウィフト・タットル彗星の発見者である彗星研究家、木内鶴彦氏の臨死体験を紹介したいと思います。

氏の臨死体験は、立花隆の『証言・臨死体験』(文春文庫)にもとり上げられているもので、とても興味深いものです。以下、簡単にまとめられている、『木内鶴彦の超驚異的な超宇宙』(ヒカルランド)(超「超」がついていますが…これは毎度おなじみの超「お約束」)を参照に、要点と特に興味深い点だけ述べます。詳しく知りたい方は、本やネットで調べてみてください。なお、インタビュー動画 (https://www.youtube.com/watch?v=PUtBIf4NnJE))があります。

氏は、死線をさまよう大きな病気により、二度の臨死体験をしています。初めの臨死体験には、脳波停止、心肺停止で「死亡」を宣告されて30分後に甦生したときの体験が含まれていて、医師のカルテにも「死後甦生」と記録されています。前回みたように、「脳内幻覚説」では説明できないものです。

氏も、臨死状態で、病院で周りの者がする処置を見ていたり、既に死んだ親類の女性に導かれて、祖先などのいる「死後の世界」を垣間見るなど、多くの人と共通の体験をしています。

ところが、氏は、「死亡」後の体験で、かなり「特異」な体験をします。死亡を宣告された後も意識がはっきりとあり、病室のベッドの自分の肉体を見て、意識だけの存在になったことに気づくと、自ら意思して、空間を自由に移動するだけでなく、時間を超えて、過去や未来にも行けるようになったというのです。

氏は、6才の頃、川の土手で遊んでいたとき、誰もいないはずの後ろから、「危ない!」という大きな声を聞き、上を見ると、大きな石が転げ落ちようとしているところで、前にいた姉を前に押して、すんでのところで助けることができたという体験をしています。

その体験のことを思い出し、その「声」が誰のものだったかを知りたく、その当時に戻ることを意識すると、まさにそのときの光景が上から見えました。そして、石が落ちそうになっているので、思わず「危ない!」と、大きな声をあげたのです。すると、当時の自分が姉を押して、助けるところが見えます。なんと、その「危ない!」という声は、後の自分、それも臨死体験で、意識だけの存在になっていた自分のものだったということです。まるで、SFドラマのストーリーのような展開です。

さらに、氏は、古代エジプト時代に戻って、ピラミッド建設の現場を見たり、原始の地球には月がなかったことを確認し、月の誕生は、今からなんと1万5000年前のことだったことを見たりします。また、さらに遡って、生命の誕生の瞬間を見たり、宇宙誕生の瞬間を見たりもしているのです。

ピラミッドについては、今から6000年前のことで、犬や鳥のような頭をし、体は人間のような「宇宙人」が、人間を使って、建設させたということです。「宇宙人」は、土に掘った穴に水と「薬品」のようなものを入れて、軽石のようなものを作り出し、それを人間が4人がかりで持ち上げて、隙間なく積み上げていくことで、完成したというのです。

月は、地球に近づいた巨大な彗星が、地球の引力によって捕獲されて月となったということです。その彗星は内部に大量の水や氷を蓄えていたため、それが太陽の熱により水蒸気と化して、地球に大量に降り注ぎ、地上の多くが海に沈むことになりました。当時、地球にも文明があり、それも失われましたが、それが「アトランティス大陸の沈没」であり、「ノアの洪水」ということてです。

宇宙の誕生については、氏が「膨大な意識」と呼ぶ、時間や空間を超越し、理性や知性をはるかに超えた「存在」に包まれる体験を通して、知ることになったものです。

その「膨大な意識」は、それ自体完全で、何の動きや変化もない「退屈」な状態で、自分自身を動かして進化させるために、不完全な状態にしたかったというのです。そのため、ある時点で歪みを作り出し、不完全な形にするべく、宇宙という「物質的な存在」を作り出したということです。

これらは、一般的な「常識」からはかけ離れているため、にわかには信じ難いものでしょう。私も、文字どおりには、受け入れ難いと思っています。氏の体験そのものとしては、「真実」であっても、前回みたように、霊的な体験とこの世的な「事実」との間に、食い違いがあることはあり得るので、その可能性もあります。あるいは、実際の過去の出来事そのものというよりも、一種の「パラレルワールド」的な体験ということも、あり得ます。

しかし、専門的な観点から、氏の「説」に注目する人もかなりいるし、物理学者の保江邦夫のように、氏の体験から示唆を受けて、理論を発展させた人もいます。

また、氏の体験には、「事実」と符合することが確認される部分も、あるのです。さらに、氏は、後に「事実」と確認できるように、自ら訪れた場所に、「痕跡」を残すことをしており、それが実際に確かめられたものもあるのです。

江戸時代の、四国のT神社を訪れたときのこと、氏は、「宮大工の体に入っ」て、造営中の柱に「つる」という字を書いておきました。甦生後、この神社に行く機会があり、そこで宮司に聞くと、「なぜそれを知っているのか?」と驚かれ、柱を見せてくれました。それは、間違いなく、自分が書いた文字に違いありませんでした。そして、宮司から、神社の古文書に、「造営中の柱に突然梵字のような文字が現れ、神様からの言葉かと大騒ぎになった」ことが書かれていると知らされます。

これは、実際に、その時代の物質的な状態に痕跡を残して来たものと解さざるを得ず、このような例をみると、氏の体験の多くも、文字どおり「真実」である可能性はあるものと思わざるを得ません。

そして、このように、「霊的な状態から物質的な現実に働きかけることができた」ことをはっきり示しているのも、興味深い点です

前回、私の体外離脱の体験では、周りの物体を、離脱時の「もう一つの肉体」を使うことでは、動かすことができなかったことを述べました。知覚的には、そのように働きかけることができたというものがあったのですが、物理的な次元では、実現していなかったのです。この点は、氏の場合でも、同じと思われます。ただし、氏は、自分のではなく、他の人の肉体に「入る」ということをして、その人の肉体を通して、物理的な現実に働きかけているのです。そして、それは、現に物理的な次元で、実現することになっているのです。

つまり、肉体から抜け出した「意識だけの存在」の氏が、他の人の「肉体」に一時的に「憑依」することで、物理的に働きかけたということです。しかも、時間を超越して、過去に影響を与えているのです

肉体を離れた存在に、このようなことが可能ということをはっきり示しているのは、興味深いと言わざるを得ません。肉体から離れた存在、あるいは、もともと霊的な存在が多くいるのだとした場合、このようなことは、恐らく、かなり頻繁に行われているはずだということも予想させます。このような存在によって、何らかの行為をさせられている場合があり、しかも時間を超越してなされる場合もあるということです。

この点は、我々が自分の「行為」と思っているものが、本当に、自らの意思に基づいているのかどうか、改めて問い直さなくてはならないことにもなるでしょう。

何しろ、氏の体験は、臨死体験というものが、単に、「死後の世界」を垣間見せるというだけのものではなく、物質的な世界に対する、「霊的な世界」というものの、広大な広がりや深みを垣間見せてくれるもので、貴重なものと言うべきでしょう。

次回も、さらに、そのような霊的な世界の広がりや深みに通じる、人間以外の霊的な存在について、みることにします。
posted by ティエム at 17:25| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月02日

「霊」についての総合的考察 3

次に、理由の2「多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない」について、検討します。

たとえば、霊能力を持っていて、普段から霊と交流しているとか、身近に、そういう人がいるとか、疑いようのない幽霊の体験をしたとか、幽体離脱や臨死体験をして、「霊」の状態を自ら体験したというのでない限り、現在の日本で、「霊」というものを、現実的なものとして捉えるのは難しいことでしょう。

しかし、それは、現在の日本で、「霊」というものが、一般に否定されていること、またあるとしても、稀なことだと思われていることが、強く影響しています。実際には、我々の本質が、「霊」ということなので、「霊」を見たり、体験したり、自ら「霊」の状態を感得したりすることは、本来いくらもあることなのです。

ただ、ほとんどの人は、何らかの形で、そういった体験をしているのですが、それを強く抑圧してしまうため、意識にのぼらないか、のぼっても、一瞬にして忘れ去られてしまっているのが、実情だと思います。

やはり、「オカルト的なもの」についての嫌悪や恐怖が、強く影響しているのです。
このような状況で、「霊」について現実的に捉えることが難しいのは、当然のこととも言えます。しかし、そのような状況でも、「霊」についての現実的な把握を、思いのほか高めてくれる体験があります。それが、前回もみた、「体外離脱」の体験です。

「臨死体験」は、死に臨むという状況での、特別な体験なので、誰もが通常体験できるものではありません。ところが、「体外離脱」の体験そのものは、誰でも、生きている間に体験し得るもので、肉体を抜け出して、「霊」の状態をリアルに体感できる、またとない機会となります。前回みたように、誘発する方法や訓練によって、体験できるようになる人もいますが、そうでなくとも、自然発生的に起こることも多いのです。私の場合は、自然発生的なもので、何度か連続して起こりました。

自ら肉体を抜け出して、外界を知覚し、霊的な世界をかいま見る体験は、強烈な印象を残します。覚醒しているときと同様の、はっきりとした意識を伴うので、その現実感は、明白なものです。「夢」とは異なることが、はっきり分かります。肉体に戻ったときにも、それを自覚できます。体験中、不安や恐怖はありますが、肉体に戻ったときには、非常に気分が爽快です。

たとえ、「霊」についての嫌悪や恐怖が強かったとしても、この実際の体験は、そのようなイメージが違ったものであることを、明らかにしてもくれます。

今後は、この体験のことや、誘発する方法が知られることなどにより、この体験をする人が、相当増えてくると思われます。そうすれば、多くの人にとっても、「霊」というものが、かなり現実的に捉えられるものになる可能性があります。体験そのものをしないにしても、そのような体験について知るだけでも、かなり違うと思います。

そこで、今回は、この体験の、特に、誰もに共通する部分である、「肉体から抜け出してなされる外界の知覚」ということについて、もう少し、具体的な説明をしてておきたいと思います。それこそが、肉体から独立して働く「魂」や「霊」の存在を把握する、基礎となるものだからです。私の場合を中心に述べますが、多くの人の例も参照にはします。

私の場合、それは、ベッドで眠りに入るとき、または眠っていて、一旦目覚めた(と意識された)ときに、起こっています。といっても、後に、肉体に戻ったときに、完全に目覚めるので、通常の覚醒状態ともまた違う、特殊な意識状態です。ただし、意識ははっきり伴うし、覚醒時と同じように、周りの状況をリアルに把握できる状態です。

初め、頭の上の当たりに、強烈な振動を感じ、不安に思いますが、それが全身を包み込むようになったとき、気がついたら、肉体を抜け出して、宙に浮いていたというのが、私の場合の大体のパターンです。肉体を抜け出す感覚は、はっきりとした、リアルなものです。そして、実際に、自分が、部屋の天井の近く当たりまで、浮くのが分かります。外界の知覚は、現実の自分の部屋そのままであり、宙に浮くのに従って、その位置から知覚しているのです。

前々回、臨死体験の知覚と同様の体験は、側頭葉の刺激でも起こせるという実験があることを述べました。しかし、その体験は、あくまで「類似」の「バーチャル」な感覚であって、現実に、宙に浮いた位置から、知覚しているのではないと思います。ただし、側頭葉の刺激によって、本当に、「体外離脱」が誘発されること自体は、あり得ることです。「ヘミシンク」のような、音響効果でも誘発されるので、側頭葉の刺激で誘発されたとしても、不思議はありません。これは、前回述べたように、脳と「魂」や「霊」の関係の仕方の問題であって、そのことが、「幻覚」であることを証するものではありません。

さて、その「知覚」ですが、それは、実際に、自分のいる部屋という物理的な「外界」を、映し取っています。そこが、「夢」との大きな違いだし、夢を見ている自覚のある「覚醒夢」というのとも、違うところです。

だたし、その「知覚」は、通常の覚醒時の「物理的な知覚」とは、また違う面もあるのです。「知覚」そのものの性質が違っているし、「知覚される対象」も、やはり、違う面があります。

この辺りが、多少、「体外離脱」を明解でないものにしていますが、しかし、それは、物理的な身体による知覚ではないのだから、違っていて当たり前だと私は思います。むしろ、物理的な身体による知覚と同じであるとしたら、それは、脳による知覚そのものということになってしまうでしょう。

具体的に言うと、まず、その「知覚」は、視界に外界の全体が満遍なく映るというよりは、特に注目したものが、図と地の「図」のように、はっきり鮮明に浮き上がって見え、その他のものは、「地」のように背景に退く感じです。また、私の場合、初めは、なかなか鮮明ではなく、色もついていない、「白黒」というよりも、「半透明」の濃淡のある感じの場合が多かったです。

この辺りは、「慣れ」ということの影響も考えられ、体験を重ねるにつれて、徐々に知覚が明確になって来るということはあるようです。自ら体外離脱を多く重ねたモンローも、そのように言っていたと思います。

外界にある知覚の対象も、「現実」と符合してはいるのですが、細部では、異なる面もあります。色だけでなく、形なども、微妙に違います。触れば、感触はありますが、「手」が突き抜けたりします。私は実際に実験してみましたが、その対象を、物理的な意味で、本当に動かすことはできませんでした。ただし、知覚としては、あるものを、動かしたという感覚が伴ったので、そのときはそのとおりできたと思っていたのですが、後で肉体に戻ったときに、動いていなかったので、面食らいました。そのような意味でも、その状態の知覚と物理的な現実との間には、食い違いが生じることがあります。モンローも、このことを指摘しています。

ただし、その体験をしているときは、外界が「現実」そのままであることの方に意識がいき、強く驚きます。細部の違いは、あまり気になりません。「食い違い」があるにしても、全体として、「現実」そのままを反映しているということが重要です。

臨死体験で、体外離脱中に、周りの状況を客観的に観察していて、医師が自分にしている施術を事細かに語ったり、窓の外など、見えない位置にあるものを見たりして、それが事実と符合することがあるのは既にみました。これなどは、外界が、実際に、「現実」を反映しているからこそのことです。ただし、そのように現実と符合する場合にも、細かな部分で、その知覚が「物理的な知覚」と同じであるかというと、そうではないと私は思います。

この辺りは、臨死体験者が、あまり明確には語ってはいないようだし、もしかしたら、通常の体外離脱と死の状況で起こる臨死体験では、違う面もあるのかもしれません。しかし、体外離脱でも、モンローを被験者にした実験で、宙に浮いて、ある特定の位置から見ない限り、中が確認できないような装置を使って実験すると、統計的に有意に、それを確認できたという事実もあります。体外離脱でも、外界と客観的に符合する知覚が得られているということです。

いずれにしても、物理的な外界と客観的に符合するかどうかは、その体験が、単なる「幻覚ではない」ということを示す意味で、重要ではありますが、それ以上に、拘る必要のないものと思います。

その体験のリアリティは、必ずしも、知覚における外界との符合ばかりから来ているのではありません。要は、そのような知覚は、「物理的な対象」そのものの知覚なのではなく、肉体から離れて、「魂」や「霊」として、「霊的な世界に踏み出した領域から知覚された限りでの物理的な対象」ということです。あるいは、そのような領域は、「物質的なもの」と「霊的なもの」が相交わる「境界領域」ともいえます。そのような境界領域を「霊界の境域」と言って、それには、独自の性質があることを、シュタイナーも述べています。たとえば、主観的な要素もまた、霊的な領域に「実体」として反映され、知覚の対象となるなどのことです。

しかし、それには、またいずれ触れたいと思います。何しろ、ここでは、肉体を抜け出たときの感覚をはっきり捉える、ということが重要です。

「肉体を抜け出る」という点では、多くの場合、肉体を抜け出て、宙に浮いているときに、自分自身の「物理的な肉体」を見て、衝撃を受けるということがあります。それが、自分が、肉体を抜け出たことを、はっきり意識するのにも影響しているのです。しかし、私の場合は、これはありませんでした。宙に浮いているときに、自分の肉体を見ようとしたことはあるのですが、そうすると、一瞬にして、自分の肉体に戻ってしまったのです。ああ、「戻ってしまった」と思って、また離脱した状態に戻りたいと思うと、その状態に戻ることができました。それで、以後、肉体を意識すると肉体に戻ってしまうので、それはしないようにしたのです。

ただ、そのように、肉体に戻ることと、肉体を離脱することを繰返したので、両者の状態の違いがよく分かるということはありました。それで、自分の肉体を見たわけではなくとも、確かに自分の肉体から離脱したということを、強く意識できたのはあります。

また、多くの人は、肉体を離脱したときに、自分が、物理的な肉体そのものとは別だが、それとそっくりの、「体のようなもの」をまとっていることを知覚します。私も、それは知覚しましたし、また面白いことに、肉体に戻ったときに、物理的な肉体とその「もう一つの体」の両者を、同時に知覚するということもありました。

「もう一つの体」は、先にみたように、「もの」に触れることはできますが、突き抜けたりもします。また、その「体」で、「もの」を動かしたつもりが、実際には動いていなかったことを述べました。これは、物理的な肉体にあるときの習慣で、その体を使って、ものに働きかけようとしても、それはうまくいかない(物理的な次元では実現しない)ということです。考えてみたら、それは当然とも言えます。これが簡単にできたら、そこら辺のもの、たとえば信号機なども、人が体外離脱して好きなように動かしたり、変えたりできるということになって、大変なことになるでしょう。

ただし、霊によって、物理的な現象が起こされること自体は実際にあることなので、霊的な状態において、物理的なものに働きかけることができないということではありません。

いずれにしても、肉体から抜け出て、「魂」または「霊」となったら、我々が通常生きている「物理的な世界」そのものから、もはや離れて、「霊的な世界」に足を踏み入れて、その世界から「物理的な世界」を知覚したり、体験したりしているのだということです。

重要なのは、「肉体」という物理的なものから抜け出ても、意識や知覚があり、それこそが「魂」や「霊」という、我々の本質的な部分を指し示しているということです。物理的な肉体の機能している状態での、体外離脱という現象だけでは、このことが十分把握できないかもしれません。が、前回みたように、臨死体験の脳波が停止した状態で起こる体験は、通常の体外離脱の場合にも、このことを十分示しているというべきです。

「体外離脱」の体験だけが、そのように、「霊」についての現実的な把握を高めるのではないですが、多くの人が体験し得る重要なものとして、少し詳しく述べました。

最後に、「霊」についての考察をもう一度振り返ります。

「霊」については、その存在を証明することはできないが、総合的に考察する限り、十分認められるということでした。「証明されない限り、認められない」という人も多いかもしれませんが、「証明されない」のは、「霊が存在しない」という見方についても同じことです。

いずれにしても、「証明」という形で、有無を言わさず、決着がつけられることはないのだから、結局は、各人それぞれが、どのように判断し、主体的に選び取るかの問題となります。それは、「証明」などによって、半ば「強制的」な形で結論が「押しつけ」られるような「解決」の仕方よりも、むしろ「建設的」なことと言えるでしょう。

現状では、全体として社会に行き渡っている見方のために、霊を認めることは難しいですが、そのような事情は、今後、少しずつでも、解消していくと思われます。現に、霊について、認められる度合いは、私が子供の頃から比べれば、断然高まっています。根底にある「オカルト的なもの」への嫌悪や恐怖は、そう簡単には解消されませんが、それでも、多く人が霊について認める余地が増え、それを体験していく人も増えるに従って、弱まっていくと思います。

霊については、「超ESP仮説」というものがあり、超常的な現象が起こったとき、霊の作用と認めるより、実験的に存在が確かめられている、超能力の作用とみるべきという考え方をみました。それは、「科学的」には、一応正しい態度でしょうが、しかし、霊の方が本質的なものとすると、むしろ見方が逆転していることになります。本来、「霊」があるからこそ、「超能力」のような物理的な法則を超えた力があり得るのです。「霊」抜きに、「超能力」のような現象を理解しようとしても、うまくいかないと言うべきです。そればかりか、本来、霊こそが本質とすれば、「物質的な現象」を、その「物質的なもの」の内部からのみ説明しようとしても、必ず行き詰まり、うまくいかなくなるでしょう。そのようなことを示唆しているのが、量子力学の諸問題だと思います。これらについても、いずれまた踏み込むことになります。

「オカルト」とは本来、「隠されたもの」の意味で、それは「物質的なもの」を含めた「存在」の根底にあるものでもありました。それに迫ろうとする場合、物質的なものの理解が深まることも重要ですが、その物資的なものを超えた、「霊的なもの」についての視点を据えることも重要です。そうでないと、「物質的なもの」の延長上にしか、「存在」を捉えることができないことになります。霊的なものを無視したり、軽視している限り、全体としての「存在」にはとても迫れないということです。

次回は、私の体外離脱の体験との関連でも、とても興味深い、一つの臨死体験の例を紹介してみたいと思います。


posted by ティエム at 00:32| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする