2018年12月24日

「宇宙人」が地球に来ている可能性 1

「霊」については、存在するかどうかを総合的に考察することから始めました。「宇宙人」についても、まずは、そのような考察から始めることにします。

ここまでみて来たところから、「霊」が認められる以上、「宇宙人」の存在も認められる可能性が高い。あるいは、少なくとも、「宇宙人」を否定する論理は、「霊」についても当てはまらないから、もはや否定する根拠としては弱過ぎる、と考える人は多いと思います。

しかし、「宇宙人」については、「霊」とはまた違った考察が必要で、「霊」については認められても、「宇宙人」については認め難いという人も、多いかもしれません。「霊」と「宇宙人」では、かなりイメージが異なるのは事実です。「霊」は物質的なものではありませんが、「宇宙人」なら、物質的なものの延長上に捉えられそうではあるからです。そして、であるならば、存在すること自体はともかく、「地球に来ている」ことは否定されるという考えも、あり得ることになります。

しかし、それは、後にみるように、地球上での、近代以降の「ものの見方」の発展の歴史という事情によるもので、本来、本質的な差異はないと言うべきなのです。

ともあれ、「宇宙人」について、一応、基本的なことから、述べることにします。

「宇宙人は存在するか」と言っても、この広い宇宙全体に、知的生命が、地球人しかいないと考える人はいないでしょう。その意味では、「宇宙人が存在する」こと自体は、当然のこととして認められていると言えます。現に、ドレイクという天文学者が提出した方程式によると、銀河系に知的生命が存在する惑星の数は相当数あると見込まれます。

ところが、そのような「宇宙人」が「地球に来ている」とか、「人間に影響を与えている」となると、途端に、認める人は少なくなります。宇宙全体に、知的生命を広く認めていながら、このように信じることなど、私には、とても信じ難いことですが、現にそうなっています。

それは、要するに、「宇宙人」という場合の「知的生命」というのは、地球における物理的な存在である、人間を基準にして、その延長上に考えられているからでしょう。先のドレイクの方程式にしても、地球の生命体を基準にして、生命が生まれる確率とか、さらに知的に発達して、電波を発するようになる確率とかが、項として組み込まれているのです。それでも、相当数の惑星の数が見込まれるというのは、これだけ大きな限定を加えても、つまり、地球人と同類の、しかも進化的に類似した段階にある生命体というものに限ってすら、相当あることが見込まれるということにはなりますが。

また、「地球に来ている」ことが認められないのは、地球上の現段階の物理理論と技術を前提にして、それは技術的に不可能とみなされるからでしょう。アインシュタインの相対性理論に「光速度不変の原理」というのがあって、光の速度は超えられないことになっていますから、どんなに近くとも、光の速度でも数年以上かかる惑星から、その距離を克服して、わざわざ地球に来ることなどあり得ないということです。そして、そうであれば、「人間に影響を与える」などということも、当然ないこととみなされます。

どんだけ、「地球人基準」なんだと思いますが、現に地球上で認められている、科学的に確実な前提に立って、考察するというなら、それしか方途はないというのも、一理あるとは思います。しかし、宇宙全体の生命の問題に、ここまで地球人的前提を持ち込むこと自体が、既に「確からしさ」を大きく踏み外してしまっている、と私には感じられます。

いずれにしても、「現実的」に、現に「宇宙人」が「地球に来ている」かどうか、「影響を与えている」かどうかを、考察するなら、ここでも、単に、これまでの物質科学的な方法に拘らずに、「総合的」に考察する必要があります。

その場合、以下の3つの視点が重要になると考えられます。

1   現に「UFO」や「宇宙人」と遭遇したという目撃報告は、世界全体で多数存在し、その写真やビデオなどの記録も多く存在している。
2 「光速度不変の原理」などの物理理論は、現段階で認められているものに過ぎず、ある限定領域で当てはまるものに過ぎないとして、今後塗り替えられる可能性がある。
3 「霊」についてみたように、霊的なものは、物質的なものを超えた現象を起こす。「宇宙人」についても、物質的な存在というよりも、このような霊的存在である可能性があり、あるいは、物質的なものを超えて、霊的なものと同様の性質をもって存在する可能性がある。

私は、「現に地球に来ている」かどうかを問題とするなら、1の視点こそが重視されるべきで、「現に来ている」のであれば、地球上の理論や技術がどうであろうが、それはそれが改められるべきものであることを示すに過ぎず、「来ている」ことを否定する理由とはならない、と思います。

ただし、「UFO」や「宇宙人」と遭遇したと言っても、それが「宇宙人」という、地球以外の知的生命体(のもの)であることを、証明することなどは、不可能でしょう。それは、「宇宙人」というものを、どのようなものとして捉えるかということ自体に大きく影響されることだし、それについて共通の理解を得ることは、現段階の地球上では、難しいことのはずだからです。それは、一応経験的に知られている、地球上の「霊」や「霊的存在」以上に、難しいことかもしれません。

先にみたように、一般に、物理学者などは、「地球基準」の物理学的な理論の延長上に捉えようとしますが、それだと、むしろ、それがために、その「枠組み」に収まらないようなものは、「宇宙人」と認められないことになってしまいます。「地球上のものではない」と思われるようなものこそ、「宇宙人」と認められることはなくなってしまうということです。

「UFO」や「宇宙人」と遭遇したという事例や写真、ビデオなどについては、現代では、数限りなく、ネットなどにあげられているので、それについていちいち触れることはしません。ただ、その中でも、このような現象について多く知れる立場にある、米軍上層部の人たちの暴露した情報の記録は重要と思われるので、あげておきます(http://www.peopleknow.org/ds08pro/ )。多大な量ですが、ぜひ参照ください。なお、記者会見の動画もあります(https://www.youtube.com/watch?v=KicoTXPF1_E&feature=relmfu )。

いずれにしても、このようなものが、すべて、既成の現象の誤認や錯覚、虚偽などで説明できるものでないことは、疑いありません。

要は、先にみたように、このようなものを、「宇宙人」(のもの)と積極的に認めることは難しいという事情があるのみです。それにしても、「何か地球上の理論では説明し難いものが空を飛んでいる」ことや、「地球上の存在とは認め難いものと遭遇する」ことがあるということは、もはや間違いないということになるはずです。

それには、様々な可能性が考えられることは事実で、たとえば、「未だ地球上で確認されていない未知の現象」であったり、あるいは、一見地球上の技術を超えるようにみえても、隠蔽などの理由により、表には出ていない技術により作られた、「地球上の秘密兵器」などの可能性があります。何らかの理由により、秘密機関が、「宇宙人」を装って現れるというようなことも、あり得ることかもしれません。

しかし、先の米軍上層部の暴露した情報など、自然上の未知の現象などでは説明できないほど、具体的に、現に意思に基づく操作を受けている、機械的な物体としての性質をもつものや、人間状の形態をはっきりもつものなどが、多くあります。地球上の秘密兵器としてみるのも、不可能と言えるほど、地球上の技術からかけ離れたものも多くあります。総体としてみれば、「未知の現象」や「秘密兵器」など、他の可能性で説明するのも、不可能と言うべきものが多くあるのです。

つまり、「宇宙人が地球に来ていることがありそうもない」という前提に立たない限り、「宇宙人による」ものと認める方が自然なものが、多くあるということです。

そこで、2と3の視点を合わせて考察すれば、「宇宙人が地球に来ていることがありそうもない」という前提自体、さほど根拠のあるものではなく、「宇宙人が地球に来ている」可能性は高い、と言わざるを得ないことになると思われるのです。しかし、それについては次回述べます。

posted by ティエム at 16:32| Comment(0) | UFO、宇宙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月10日

様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」

前に、記事『「霊」とは何か』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/461645415.html )で述べたように、「霊」なるものがあるとすれば、人間にだけでなく、いろいろな存在にもあるはずです。また、もともと、霊だけで存在できるのだとすれば、物質的な身体をもたない「霊的存在」というのも、種々いるはずです。

実際、近代以前または近代以外の「普遍的」な文化は、そのように解して来ました。動物には、「動物霊」が宿り、木などの植物にも、その植物の「霊」が宿ります。そればかりか、石や鉱物にも、何らかの霊的なものが宿っているとされます。

また、物質的な身体をもたない霊的存在も、広く認められています。「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」など、文化や宗教形態により、様々な呼び方がありますが、これらはすべて、そのような存在です。「スピリチュアリズム」では、これらを「自然霊」と呼びます。

これらのほかに、現代では、「宇宙人」と呼ばれるものも、重要な存在となっています。「宇宙人」というと、太陽系外の惑星に住む、人間と同様の存在というイメージでしょうが、広く、宇宙起源の、地球の人間と関わり得る存在が問題です。そして、これらは、単純に、人間を基準にして、物質的な存在とするわけにはいきません。物質的なものを超えた、「霊的存在」の一種と解すべきものも多く、現に、かつては、先のような、「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」などと呼ばれていた可能性があります。

この「宇宙人」については、次回、改めて述べたいと思います。

日本の神道では、「神々」は、岩や鏡、神木などの、「御神体」に宿るとされますが、それは、一定期間、または一時的に宿っているのであって、本来、物質的なものを住処としないで、自由に移動できる、霊的な存在です。

「妖精」や「妖怪」などは、「UMA」(未確認生物)と言われることもあり、物質的な存在と同様に、視認され、人間と接することもよくあります。日本では、妖怪としての「狐」や「狸」、あるいは「カッパ」などが有名でしょう。

しかし、これらの存在も、常に、物質的な形態をとっているわけではなく、ある期間、または一時的に、「物質化」しているものと解されます。「神々」や「精霊」なども、一時的に「物質化」して現れることがあります。前に触れたように、人間の幽霊ですら、「物質化」して現れることがあるのです。

記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊的なもの」は、本来「物質的なもの」を含むので、それが凝縮して、物質的なものとして現れ出ることもできるのです。ただし、それには、相応のエネルギーがいるようで、長い間、物質化していることは難しいようです。

このような、様々な「霊的存在」が認められるようになったのは、一つには、このようにして、物質化して現れて、人間と接することが多くあったからと思われます。どこの文化にもある、「昔話」や「伝説」に記録されていることは、文化的な脚色を受けているとはいえ、本当にあったことなのです。現在でも、「都市伝説」として、このような「接触」は多く伝えられています。

私自身、(「宇宙人」も含める必要がありますが)これらの存在が物質化したもの(と解すほかないもの)に、出会ったことがあります。

しかし、これらの霊的な存在が、広く認められるもととなったのは、やはり、「シャーマン」という特別の能力をもった人間を、介してのものと思われます。シャーマンは、先住民文化において、どの共同体にも、一人はおり、これらの霊的な存在と交流する特別な能力を備えています。そして、それらの存在から、様々な知識を与えられたり、守護されたり、あるいは、こちらから、交渉して、さまざまな力を引き出したりします。それが、儀式などを通して、共同体の多くの者にも、共有されるわけです。

だから、先住民文化にとっては、このような霊的な存在が、普遍的に認められることになるのです。文明化した文化においても、その伝統は、多かれ少なかれ引き継がれており、かつてのシャーマンの役割をする者は、存在しています。 それで、そのような文化においても、このような霊的な存在は、認められているのです。ただし、先住民文化の「精霊」などの存在こそが、その原点のようなもので、より原初的な姿を現しています。文明化された文化の、「神々」や「神」などは、文化的に脚色された「観念」を、多くまとっていると言うべきです。

私も、また、記事『私の体験から』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/460455111.html )で述べたように、(物質化して現れたものとは別に)霊的な存在としての、様々な「精霊」と遭遇しました。これらは、人間と共通する面もあり、似たものとして現れ出ますが、人間とは異質の面が強く、かなり強烈(ときに攻撃的)な存在です。それで、それまで人間という存在しか想定していなかった私は、大きな混乱に見舞われました。実際、人間という範疇の想定しかない者にとっては、そうなるしかなく、その混乱が、周りには、「病的」とみなされるような、危うい反応をもたらすのです。「妄想」というのも、その遭遇を、自分の理解できる範囲のことに引き寄せて、自分流に解釈した結果です。

それは、かつては、そのようなものとして「知られたもの」だったわけですが、近代になって、そのようなものを「ないもの」として切り捨てたので、それに対処する手立てを失った、ということによる面が大きいのです。

これらの存在は、「神」や「神々」という言い方だと、洗練されたイメージになるでしょうが、実際、エネルギーに満ちた、「荒々しさ」というものを醸し出しているので、「精霊」という言葉がぴったり来ます。

それらは、性質にもいろいろあり、人間からみれば、「善」または「味方」、あるいは「悪」または「敵」という捉え方で、捉えることもできます。「天使」や「悪魔」という言い方は、それを反映したものといえます。ただし、そこには、やはり、多分に、人間の都合による、解釈が入り込んでいます。「善なるもの」といい、「悪なるもの」といっても、人間からみた、人間の都合により、それらに押しつけられた「観念」に過ぎない、という面が多くあるからです。

とはいえ、もし「悪魔は存在するか」と問われるならば、当然、「存在する」と言わなくてはなりません。人間にも、「悪人」がいるのに、霊的存在に、「悪なる存在」がいないはずがありません。そして、そのスケールも、当然、人間とは比べ物にならないものとなります。

様々な「霊的存在」について、みて来ましたが、それらが、ただ単に「存在している」というだけでは、それを特に問題にする意味もありません。それらの存在が、人間に対して、多くの影響を与えていると思われるからこそ、問題にする意味があるのです。

先にみたように、そもそも、先住民の文化からして、シャーマンとの交流を通して、「精霊」が、多くの部分をもたらしたといえます。木内鶴彦氏の臨死体験の例でもみたように、霊的な存在は、人間を通して(憑依して)、様々な行為をすることもできます。我々の意思に基づくと思われている、人間の行為の多くが、霊的な存在の影響によるという可能性は、常にあるのです。何しろ、我々が思っている以上に、霊的な存在の影響を受けているというべきなのです。

ところが、近代に入って、そのような存在がいないとみなされて、「排除」されたため、人間とそのような存在との関係は、大きく変化したと考えられます。特に、それらの存在の中でも、これまで人間に友好的に働きかけていた存在との関係が、大きく「断たれた」可能性があります。そして、それは、その間隙をぬって、逆に、「悪意」ある存在が、人間を好きなように、「支配」する契機をもたらしたといえます。自らの存在が知られることもなく、他の霊的存在に邪魔されることもないので、いいように、人間と関ることができるからです。

実際、現代とは、かつてないほど、人間が、「悪魔的存在」の影響のもとにある時代ということがいえます。現代の社会情勢や、人間同士のあり方を顧みれば、それも頷けることのはずです。争いや戦争が絶えないのも、その影響によるところが大きいのです。もちろん、人間そのものにも原因がありますが、人間の内部からのみそれを追究しようとしても、なかなかうまくいかないし、現にそれが止むことはないでしょう。人間が、そのような存在がいないと思っていればいるほど、なぜとは明確に分からないままに、その影響から脱せられない状況を、闇雲に拡大し続けてしまうのです。

何度も触れたように、「オカルト」という言葉が、「おどろおどろしい」ものを連想させ、嫌悪感をもたらすことにも、この「悪魔的存在」の影響が強く働いています。人間は、表面的には否定しつつも、「オカルト」という言葉が、「悪魔的なもの」と結びつくことを、心のどこかでは知っているというべきなのです。

記事『私の体験から』でみたように、この世的なものからはみ出して、霊的世界の入り口に踏み出す体験が、病的なものになりやすいのも、その影響が強く働いているからです。実際、私の遭遇した存在の多く、というより、私が最も強いインパクトを受け、影響を被った存在も、 そのような悪魔的存在です。そして、一連の体験の間には、このような存在が、いかに多くの人間に影響を与えているか、いやというほど、肌で知らされることになりました。

私は、このような存在を、人間の「善悪の観念」に入れ込んで、「悪魔」と呼ぶのは適当でないために、「捕食者」と呼んでいます。ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、多くそれに触れています。こちらでも、それについては、改めて述べることにします。

いずれにしても、現代では、特に、このような悪魔的存在との関係を問い直すことが、重要になっています。私が、「オカルト」ということを、正面から問題にする理由の半分も、実は、そのことにこそあると言ってもいいのです。

posted by ティエム at 23:39| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする