2018年12月10日

様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」

前に、記事『「霊」とは何か』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/461645415.html )で述べたように、「霊」なるものがあるとすれば、人間にだけでなく、いろいろな存在にもあるはずです。また、もともと、霊だけで存在できるのだとすれば、物質的な身体をもたない「霊的存在」というのも、種々いるはずです。

実際、近代以前または近代以外の「普遍的」な文化は、そのように解して来ました。動物には、「動物霊」が宿り、木などの植物にも、その植物の「霊」が宿ります。そればかりか、石や鉱物にも、何らかの霊的なものが宿っているとされます。

また、物質的な身体をもたない霊的存在も、広く認められています。「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」など、文化や宗教形態により、様々な呼び方がありますが、これらはすべて、そのような存在です。「スピリチュアリズム」では、これらを「自然霊」と呼びます。

これらのほかに、現代では、「宇宙人」と呼ばれるものも、重要な存在となっています。「宇宙人」というと、太陽系外の惑星に住む、人間と同様の存在というイメージでしょうが、広く、宇宙起源の、地球の人間と関わり得る存在が問題です。そして、これらは、単純に、人間を基準にして、物質的な存在とするわけにはいきません。物質的なものを超えた、「霊的存在」の一種と解すべきものも多く、現に、かつては、先のような、「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」などと呼ばれていた可能性があります。

この「宇宙人」については、次回、改めて述べたいと思います。

日本の神道では、「神々」は、岩や鏡、神木などの、「御神体」に宿るとされますが、それは、一定期間、または一時的に宿っているのであって、本来、物質的なものを住処としないで、自由に移動できる、霊的な存在です。

「妖精」や「妖怪」などは、「UMA」(未確認生物)と言われることもあり、物質的な存在と同様に、視認され、人間と接することもよくあります。日本では、妖怪としての「狐」や「狸」、あるいは「カッパ」などが有名でしょう。

しかし、これらの存在も、常に、物質的な形態をとっているわけではなく、ある期間、または一時的に、「物質化」しているものと解されます。「神々」や「精霊」なども、一時的に「物質化」して現れることがあります。前に触れたように、人間の幽霊ですら、「物質化」して現れることがあるのです。

記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊的なもの」は、本来「物質的なもの」を含むので、それが凝縮して、物質的なものとして現れ出ることもできるのです。ただし、それには、相応のエネルギーがいるようで、長い間、物質化していることは難しいようです。

このような、様々な「霊的存在」が認められるようになったのは、一つには、このようにして、物質化して現れて、人間と接することが多くあったからと思われます。どこの文化にもある、「昔話」や「伝説」に記録されていることは、文化的な脚色を受けているとはいえ、本当にあったことなのです。現在でも、「都市伝説」として、このような「接触」は多く伝えられています。

私自身、(「宇宙人」も含める必要がありますが)これらの存在が物質化したもの(と解すほかないもの)に、出会ったことがあります。

しかし、これらの霊的な存在が、広く認められるもととなったのは、やはり、「シャーマン」という特別の能力をもった人間を、介してのものと思われます。シャーマンは、先住民文化において、どの共同体にも、一人はおり、これらの霊的な存在と交流する特別な能力を備えています。そして、それらの存在から、様々な知識を与えられたり、守護されたり、あるいは、こちらから、交渉して、さまざまな力を引き出したりします。それが、儀式などを通して、共同体の多くの者にも、共有されるわけです。

だから、先住民文化にとっては、このような霊的な存在が、普遍的に認められることになるのです。文明化した文化においても、その伝統は、多かれ少なかれ引き継がれており、かつてのシャーマンの役割をする者は、存在しています。 それで、そのような文化においても、このような霊的な存在は、認められているのです。ただし、先住民文化の「精霊」などの存在こそが、その原点のようなもので、より原初的な姿を現しています。文明化された文化の、「神々」や「神」などは、文化的に脚色された「観念」を、多くまとっていると言うべきです。

私も、また、記事『私の体験から』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/460455111.html )で述べたように、(物質化して現れたものとは別に)霊的な存在としての、様々な「精霊」と遭遇しました。これらは、人間と共通する面もあり、似たものとして現れ出ますが、人間とは異質の面が強く、かなり強烈(ときに攻撃的)な存在です。それで、それまで人間という存在しか想定していなかった私は、大きな混乱に見舞われました。実際、人間という範疇の想定しかない者にとっては、そうなるしかなく、その混乱が、周りには、「病的」とみなされるような、危うい反応をもたらすのです。「妄想」というのも、その遭遇を、自分の理解できる範囲のことに引き寄せて、自分流に解釈した結果です。

それは、かつては、そのようなものとして「知られたもの」だったわけですが、近代になって、そのようなものを「ないもの」として切り捨てたので、それに対処する手立てを失った、ということによる面が大きいのです。

これらの存在は、「神」や「神々」という言い方だと、洗練されたイメージになるでしょうが、実際、エネルギーに満ちた、「荒々しさ」というものを醸し出しているので、「精霊」という言葉がぴったり来ます。

それらは、性質にもいろいろあり、人間からみれば、「善」または「味方」、あるいは「悪」または「敵」という捉え方で、捉えることもできます。「天使」や「悪魔」という言い方は、それを反映したものといえます。ただし、そこには、やはり、多分に、人間の都合による、解釈が入り込んでいます。「善なるもの」といい、「悪なるもの」といっても、人間からみた、人間の都合により、それらに押しつけられた「観念」に過ぎない、という面が多くあるからです。

とはいえ、もし「悪魔は存在するか」と問われるならば、当然、「存在する」と言わなくてはなりません。人間にも、「悪人」がいるのに、霊的存在に、「悪なる存在」がいないはずがありません。そして、そのスケールも、当然、人間とは比べ物にならないものとなります。

様々な「霊的存在」について、みて来ましたが、それらが、ただ単に「存在している」というだけでは、それを特に問題にする意味もありません。それらの存在が、人間に対して、多くの影響を与えていると思われるからこそ、問題にする意味があるのです。

先にみたように、そもそも、先住民の文化からして、シャーマンとの交流を通して、「精霊」が、多くの部分をもたらしたといえます。木内鶴彦氏の臨死体験の例でもみたように、霊的な存在は、人間を通して(憑依して)、様々な行為をすることもできます。我々の意思に基づくと思われている、人間の行為の多くが、霊的な存在の影響によるという可能性は、常にあるのです。何しろ、我々が思っている以上に、霊的な存在の影響を受けているというべきなのです。

ところが、近代に入って、そのような存在がいないとみなされて、「排除」されたため、人間とそのような存在との関係は、大きく変化したと考えられます。特に、それらの存在の中でも、これまで人間に友好的に働きかけていた存在との関係が、大きく「断たれた」可能性があります。そして、それは、その間隙をぬって、逆に、「悪意」ある存在が、人間を好きなように、「支配」する契機をもたらしたといえます。自らの存在が知られることもなく、他の霊的存在に邪魔されることもないので、いいように、人間と関ることができるからです。

実際、現代とは、かつてないほど、人間が、「悪魔的存在」の影響のもとにある時代ということがいえます。現代の社会情勢や、人間同士のあり方を顧みれば、それも頷けることのはずです。争いや戦争が絶えないのも、その影響によるところが大きいのです。もちろん、人間そのものにも原因がありますが、人間の内部からのみそれを追究しようとしても、なかなかうまくいかないし、現にそれが止むことはないでしょう。人間が、そのような存在がいないと思っていればいるほど、なぜとは明確に分からないままに、その影響から脱せられない状況を、闇雲に拡大し続けてしまうのです。

何度も触れたように、「オカルト」という言葉が、「おどろおどろしい」ものを連想させ、嫌悪感をもたらすことにも、この「悪魔的存在」の影響が強く働いています。人間は、表面的には否定しつつも、「オカルト」という言葉が、「悪魔的なもの」と結びつくことを、心のどこかでは知っているというべきなのです。

記事『私の体験から』でみたように、この世的なものからはみ出して、霊的世界の入り口に踏み出す体験が、病的なものになりやすいのも、その影響が強く働いているからです。実際、私の遭遇した存在の多く、というより、私が最も強いインパクトを受け、影響を被った存在も、 そのような悪魔的存在です。そして、一連の体験の間には、このような存在が、いかに多くの人間に影響を与えているか、いやというほど、肌で知らされることになりました。

私は、このような存在を、人間の「善悪の観念」に入れ込んで、「悪魔」と呼ぶのは適当でないために、「捕食者」と呼んでいます。ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、多くそれに触れています。こちらでも、それについては、改めて述べることにします。

いずれにしても、現代では、特に、このような悪魔的存在との関係を問い直すことが、重要になっています。私が、「オカルト」ということを、正面から問題にする理由の半分も、実は、そのことにこそあると言ってもいいのです。

posted by ティエム at 23:39| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする