2019年05月15日

「意識説」と「多世界解釈」

前回、量子力学の観測問題の解釈として、「意識説」をとり上げましたが、これには、ほかにもいくつかの解釈があります。その中で、「多世界解釈」というのが、最近は、物理学者の支持を多く得ていて、主流になりつつあるようです。

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「量子力学の観測問題」と「意識」1』でもとり上げていますが、この説は、意識説の対極をなす説と言えます。

意識説では、量子力学的な過程から独立した意識が、波束を収縮させて、(粒子としての)確定的な事象を生起させるのでした。しかし、「多世界解釈」では、意識といえども、量子力学的な過程から独立したものではなく、波束を収縮させるなどということはないと考えます。意識をもった観測者も、量子力学の波動関数に従うとするのです。

これは、「波束の収縮」などという現象はなく、量子力学の波動関数により、宇宙のすべてを記述できるとするものです。しかし、それが、実際に意味するのは、ミクロの物質だけでなく、マクロの物質も、意識をもった観測者も、すべてが「確率的な重ね合わせ」の状態として存在し、それが確定するなどということはないということです。

観測者の観測によって、確定したようにみえるのは、(重ね合わせの状態そのものを、それとして観測することはできないから)観測の制限的な性質によって、その重ね合わせの状態の中の、ある状態だけを写し取ったようなものに過ぎないことになります。それで、他の状態は、何ら崩壊または喪失したわけではなく、他の世界として、そのある状態だけを観測した世界と共に、併行して存在しているというのです。

前回の、「シュレディンガー猫」という思考実験でいえば、箱を空けて観測して、猫が死んでいたとしても、猫は死んだことに確定したのではなく、猫は、それを観測する観測者と共に、他の世界で、併行して生きていることになります。

まさに、「パラレルワールド」のように、多くの世界が併行して存在するので、「多世界解釈」と呼ばれます。

ただし、一般の「パラレルワールド」の理解と違って、ある世界が、他の世界と交わることはなく(認識する可能性もない)、観測者が、他の世界に移行するということもありません。つまり、他の世界が存在するということを、確かめる手立ては一切ないのです(もっとも、この「確かめる手立てがない」というのは、あらゆる解釈について言えることです)。

通常の感覚からすれば、このようなことは信じ難いことでしょう。しかし、量子力学というものが、数学的に、物質の振る舞いをいかによく説明するかということを知る物理学者にとっては、この説は魅力的なもののようです。

量子力学は、物質の状態を「確率の重ね合わせ」の状態としてしか記述できません。それが、多くの人に、不満や疑問を誘います。しかし、それは、数学的にみる限り、波動関数として、見事に記述できます。このように、「数学的に見事に記述できる」ということが、物理学者にとっては、重要であり、良く言われるように、「美しい」ことともされます。数学的に見事に記述できて、それで矛盾なく完結しているのであれば、それが意味すること自体はあまり重要でなく、「そのように宇宙はできている」ということで、割とすんなり受け入れられるようなのです。

最近の物理学的理論というものは、多かれ少なかれ、この傾向があると言えます。

それに対して、意識説というのは、意識なる、物質的に説明できないものを持ち出して、物質の状態を記述する量子力学の波動関数そのものの、崩壊を認めるようなものです。そのようなものは、多くの物理学者の感覚からすれば、「美しくない」どころか、物質科学そのものの放棄のようなものでしょう。

要するに、宇宙の全てを、「物質的なもの」として捉えたい、言い換えれば、数学的に、完結したものとして捉えたい、という物理学者の願望からすれば、「多世界解釈」の方こそが、好ましいということです。

しかし、それは、あくまで、一つの世界観であり、それを維持したいという、願望の問題に過ぎないと言うべきです。宇宙がそのようにできているという保証は、何もないはずなのです。

多世界解釈の方からすれば、一つの世界観であり、願望に過ぎないのは、意識説も異ならないということになるでしょう。そういう面は確かにあります。

しかし、これまでみて来たように、意識は、観測問題に限らず、様々な場面において、物質的なものを超える働きをすることが示唆されます。超能力もそうですし、臨死体験(特に脳波停止状態によるもの)もそうです。

また、量子レベルでも、ラディン博士の提示した次のような実験の結果は、観測問題とも絡む形で、意識による影響を強く示唆するものです。

すなわち、電子の二重スリット実験では、電子が波として、AのスリットとBのスリットを同時に通り抜ける(重ね合わせの状態としてある)ことによって、干渉し合い、スクリーンに干渉縞を作ります。しかし、人間が、意識によって、電子がAのスリットかBのスリットを通るように強く念じると、干渉縞に、実際にその念じたとおりの偏りが生じることが、統計的に有意に確認できるというものです。

記事としては、たとえばここ( https://tocana.jp/2019/03/post_90057_entry.html )に簡単な説明があります。この実験は、NHKの『サイエンスゼロ』という番組でもとり上げられていましたが、その部分の動画(https://www.youtube.com/watch?v=yLufAR6k8tw )もあります。参照ください。

このように、意識が物質に影響を与えることは、実際にさまざまな方面から示唆されることで、観測問題そのものとも関わる例もあるのです。このことは、観測問題を、意識の問題としてとりあげることが、決して、単に「世界観」の問題で済まされるものではなく、それ自体、「事実」の問題として、検討されるべきことを十分に示していると私は思います。

少なくとも、意識を、(あえて避けるかのように)当然のように、量子力学的過程に収めて、スルーさせ、確かめようのない「多世界」を認める、「多世界解釈」よりは、自然で説得力のある解釈と思うのです。

posted by ティエム at 22:40| Comment(0) | 科学・量子論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする