2019年07月31日

科学的観点から捉えられた「気」

前回みたように、気功師の発する気について、科学的観点から、様々な研究がされたことがあります。NHKのドキュメント番組でも、特集が放映されていたのを覚えています。

特に、東京電機大学町好雄、日本医科大学品川嘉也両博士の研究が、有名です。いずれも、興味深く、その研究によって、様々に分かったことがあります。(町好雄『「気」を科学する』東京電機大学出版局、品川嘉也『氣功の科学』カッパブックス 参照)

町氏は、サーモグラフィーによって、気功師が気を発するときに、体表面の温度の上昇(2度から5度)がみられることを明らかにしました。それは、「ツボ」と呼ばれる場所を中心にして、周囲に広がります。そして、それは、気功を受ける人にも伝えられ、同様の反応をもたらす、つまり、同調されることも発見しました。

通常、体表面の温度は、自律神経のコントロール下にあるので、意志により上昇することはありません。従って、この事実は、気そのものを捉えたものではないにしても、気と呼ばれる何らかの作用が、確かにあり、それが受ける側にも伝えられたことを、はっきりと物理的に捉えられる形で、示したことになります。

氏は、この体表面の温度の上昇をもたらすものを、電磁波の一種である「遠赤外線」として捉えることにも成功します。ところが、それは、非常に微弱なものなので、それ自体がエネルギーとして、相手方に作用を起こすとは、とても考えられません。しかし、氏は、その遠赤外線には、1ヘルツ前後の低周波や音波のシグナルが含まれている(乗っている)ことを発見します。そして、それこそが、遠赤外線で相手方に伝えられ、情報として作用し、生体に様々な作用を起こさせると考えます。

一方、品川氏は、脳波の測定によって、気功師が気を発するときに、アルファ波が前頭寄りに広がるという現象を発見します。そして、それもまた、気を受けた人に瞬時に伝えられ、同様の脳波をもたらします。これを、「脳波の同調現象」といいます。

このような脳波は、ヨガの行者など、熟練した瞑想家に現れることはあっても、通常みられるものではありません。従って、気によって、何らかの「情報」が伝えられて、相手方の生体に作用した結果とみるほかないものです。

この脳波の同調現象は、町氏の研究でも確かめられています。氏は、これは、先にみた、遠赤外線に乗せられた低周波や音波の情報が、相手方の脳に伝えられることで、起こるものとしています。その脳波の同調により、生体の様々な癒しの作用がもたらされるとするのです。

これらの研究は、「気」そのものを捉えたものではないですが、気を発するときに、それに伴って生じる現象が、はっきりと物理的に確かめられる形であることを示したという意味で、画期的なものといえます。

前回、神沢瑞至という気功師の、動物に対する気功の例をあげましたが、これらの研究も、「気」という、何らかの作用があることを、はっきりと目に見える形で、(物理的に)示したことになります。

ただし、繰り返しますが、これらは、「気」そのものを、物理的なものとして捉えたわけではありません。言い換えれば、気が、物理的なもので説明できることを、明らかにしたものではありません。品川氏も、気は、物理的なものとしてではなく、宇宙と人間をつなぐ、「見えない情報」として捉えています。町氏は、気の実際の現れを、「電磁波の一種である遠赤外線に乗った、1ヘルツの低周波又は音波という情報」として捉えたと言います。しかし、遠隔の気功の場合など、このような理解で、とても「気」のすべてを説明できるものではないことは、認めています。

電磁波は、距離の二乗に反比例して、エネルギーを減じますが、気では、そのようなことはみられないこと。電磁波を遮断する環境でも、働くことがあることなどからも、気は、物理的エネルギーそのものとは解し得ません。さらに、気は、特定の誰かに向けてなど、気功師の選択的な意思に基づいて、作用することからも、主観的な「意識」と強く結びついている、独自のエネルギーと解すべきものです。

気は、物理的なエネルギーそのものではなく、主観的な意識と結びついているが、決して、観念的、抽象的なものではなく、物理的エネルギーに近い作用をなすもの、あるいは、実際に、物理的エネルギーや情報を伴って作用することのあるもの、ということです。

湯浅泰雄著『気とは何か』(NHKブックス)も、気を総合的に考察して、「要するに、「気」とは主観的であると共に客観的であり、心理的であると共に生理-物理的でもあるような生命体に特有の未知のエネルギーである」としています。そして、「気の正体そのものはどんな感覚的手段によっても認識されることはない。なぜなら、そこには「心」のはたらきが含まれているからである。言いかえれば、実験科学的手段によって検出できるのは、生理的・物理的レベルにおいて表出される客観的な効果だけなのであって、気の存在そのものは、それらに基づいて単に推理されるにとどまる。」と言っています。

これらのことを総合的すれば、要するに、気は、「物質的なもの」と「霊的なもの(意識)」を媒介する、中間的なものということで、よいのではないでしょうか。

もちろん、物質科学的なレベルでの追求も重要なことですが、気功の研究が、現在行き詰まっているようにみえるのは、それのみでは、明らかにできる事柄が限られて来るからです。「物質的なものと霊的なもの(意識)を媒介する、中間的なもの」という視点から、視野を広げて、総合的に考察する必要があると思います。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『 「超能力」「気」と「量子力学」 』では、「物質」と「意識」の関係を考えるうえで、「気」という中間的なものに注目することの重要性について述べています。参照ください。

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2019年07月19日

「物質的」/「霊的」なものを媒介する「気」

記事『「霊」とは何か』で触れたように、「物質的なもの」と「霊的なもの」の中間的な領域にあって、両者を媒介するものに、「気」があります。西洋の神秘学では、「エーテル」とも呼ばれます。

「物質的なもの」は、これまでみて来たとおり、外界の「目に見えるもの」として、(あるいは「目に見えないもの」でも)、数学的な科学法則で捉えられるものです。それに対して、「霊的なもの」は、「目に見えない」「精神的なもの」で、数学的な科学法則では捉えられません。そして、その本質は、「意識」と解されます。

とは言え、これまでにも、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、互いに混交する部分もあることを、みて来ました。「物質的なもの」と「霊的なもの」は、画然と区別される、別の領域というよりも、全体として、「物質的なもの」が「霊的なもの」に、包摂される関係にあります。そして、互いに関係しつつ、浸透し合う部分があります。

このようなことを理解するには、中間領域の、互いを媒介する「気」に注目することが、重要です。

「気」は、「意識」そのものではなく、一種の「エネルギー」ですが、意識と強く結びついています。一方、「エネルギー」として、物質的なものに近い働きをしますが、「物理的なエネルギー」そのものではありません(数学的な科学法則で捉えることはできません)。まさに、「中間的」なものということです。この辺りは、次回に、科学的な観点から、もう少し詳しくみることにします。

「気」は、東洋思想では、宇宙を構成する根源的な「実体」とされ、あらゆる存在の元に働くものです。人間の身体にも、この「気」が流れています。東洋医学では、その気の歪み、滞りが、病気の元になるとみなします。この気の流れる経路は、「経絡」と呼ばれ、その結節点が、「つぼ」と呼ばれます。西洋的な物質的な身体観とは異なり、気という、見えないレベル、あるいはより根源的なレベルで、身体を捉えていたことになります。

西洋神秘学でも、この、体のようにまとわれる、エーテルのまとまりを、「エーテル体」と呼びます。単なる「物質」ではなく、「生命体」の元となるものと言えば、分かりやすいでしょう。植物を初め、あらゆる生命体には、「エーテル体」があります。

人間の場合も、これが、身体の生命力を支えているだけでなく、思考や記憶を媒介する、重要な要素です。思考や、記憶などの、精神的な作用が、「エーテル体」を介して、身体や外界に反映されるのです。さらには、「カルマ」と呼ばれる、前世から引き継がれた傾向も、「エーテル体」に刻まれるとされます。「気」が、情報の媒体として、「霊的なもの」と身体や外界を、結びつけているということです。

日本でも、「気」は、「気にする」「気にかける」「気を悪くする」など、様々な心理的な動きを、目に見えるかのように表す言葉として、使われています。論理的、観念的な傾向の強い、西洋や中国の場合とはまた違って、情緒的なレベルで、繊細に捉えられていたことが分かります。その表現は、本当に、まるで、気の動きを「見ていた」かのようです。

現代でも、この「気」の働きを、とりあえず、目に見えるもののように、実感するには、気功師の技を見てみるのが、手っ取り早いでしょう。

人間相手の気功だと、暗示を受けているとか、演技とかの疑いも晴れないかもしれません。しかし、神沢瑞至(かんざわただし)という気功師は、遠隔から、猛獣等の動物を、気功によって、バタンと眠らせる技をよく披露しています(※)。確かに、何がしかの「見えない作用」が働いたと、みるしかないものと思います。

そして、それは、気功師の意志を媒介し、動物の生体的な機構に何らかの作用を及ぼした、ということになるはずです。つまり、「気」です。

これは、既にみた、「超能力」の作用とも近いものです。実際、多くの「超能力」というのも、この「気」の作用によってこそ、なされるものとみることができます。情報を媒介する「気」を、受け取ることによって、透視やテレパシーが可能になり、あるいは、意志を媒介する、気の作用によって、外界に何らかのPK的な作用を及ぼす、とみることができるからです。

あるいは、最近は、「食べない人」というのが、かなり表に表れるようになりました。呼吸をエネルギー源にして生きる人と言う意味で、「ブレサリアン」などとも呼ばれます。(ここに、「ブレサリアン」に関する記事あるので参照ください。https://matome.naver.jp/odai/2139377953147453501?&page=1

呼吸を通して、取り入れるエネルギーとは、端的に言えば、「気」ということになります。かつて、仙人は、「霞みを食って生きる」と言われましたが、まさに、この「霞み」に相当します。

「気」は、先に、「生命力」の元となることをみました。「ブレサリアン」は、まさに、「気」を、「生命力」として、直接身体的なエネルギーへと変換するシステムを、身につけた人ということになります。ただし、元々、「物質的なもの」と「霊的なもの」を媒介するものが「気」だとすれば、これは本来は、誰にも可能なことのはずなのです。ただ、具体的に、そのエネルギーを変換するシステムが、通常は、身についていないとみられます。

かつて、気には、科学の方面からも注目を集めて、いろいろな実験がされた時期があります。それにより、いろいろ興味深いことも分かったのですが、それは次回にみたいと思います。

しかし、最近は、気に注目することは、あまりなくっていると感じます。霊的なものそのものに注目することは、かなり増えていますが、この中間的な「気」に注目することは、少なくなっているのです。そのように、あまりに「霊的なもの」のみで突き進んでしまうと、「物質的なもの」との繋がりを見失い、極端な方向へ遊離してしまうことも危惧されます。

一方で、「物質的なもの」のみの方向から、何でも「物質的なもの」で解決できるかのように、「霊的なもの」に迫ろうとするのは、「疑似科学」となって、かえって、合理性を欠く、怪しげなものとなってしまう可能性があります。次回にもみますが、「気」は、その作用が科学的に捉えられるとしても、「物質的なもの」そのものではないことが、分かっています。

それらの「中間的なもの」として、「気」に注目することは、その両者を、自然に結びつけることを可能にするという意味でも、重要と思われるのです。

※ なお、神沢瑞至氏に関する記事の例です。(http://comaco1.com/2017/06/21/post-1045/ )
また、海外で取りあげられた、実演の動画があります。(https://www.youtube.com/watch?v=21Yh6C96AKo )

posted by ティエム at 00:27| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月03日

「魔術」と「科学技術」

最初の記事『「オカルト」とは何でしょうか?』で、「科学」たまは「科学技術」というものも、元々「オカルト」と渾然一体となっていたものであることを述べました。最近の最先端の科学理論や、飛躍的に発展した科学技術も、そこはかとなく、「オカルト」めいたものを忍ばせています。それも、元々の出自が同一であったことを考えれば、頷けることのはずです。

「科学技術」が「魔術」と混然一体となっていたもので、本来、区分けし難いものであることは、科学史家村上陽一郎なども、よく指摘しています。歴史的にも、ルネッサンスの頃の魔術の復興が、科学技術の発展をもたらしたのであり、両者の発想そのものにも、共通性があるからです。(たとえば、『技術とは何か』NHKブックス参照)

「科学技術」というのは、物質的なものの「背後」にある、目に見えない「(数学的)法則」を発見して、その「法則」を操ることによって、物質的なものを操作する技と言えます。

「目に見える」領域そのものではなく、背後の「目に見えない」領域にあるものを探求するという意味では、「オカルト」と同じなのです。そして、「目に見えない」領域にあるものに働きかけることによって、「目に見える」領域のものを操作するという意味では、「魔術」そのものと言えます。

実際、映画などでも、未開の民族に、科学技術に基づいたマジックめいたものを見せると、大いに恐れられ、崇拝されるというものがあります。これは、誇張とは言え、確かに、未開の民族にとって、それは「魔術」に外ならないものがあるので、そのように受け取られる可能性はあるのです。

ただし、本来の「オカルト」ないし「魔術」は、「目に見えない」領域について、単に、「(数学的)法則」という形で、誰もが客観的に法則化できるものに注目するのではありません。むしろ、そのような領域を超えたもの(それもある種の「法則」ではあり得ても、「数学的な法則」ではありません)に、例えば「意志」において働きかけ、「科学技術」ではとても不可能な現象を生起させるものです。

現代では、科学技術のもとになる、「(数学的)法則」という形で、客観的に法則化して捉えられるものの全体を、「物質的なもの」として規定することになりました。そして、そのようなものが、存在するもののすべてであるかのように、みなされることになりました。ところが、そのような「物質的なもの」を越えた「霊的なもの」を操るのが、本来の「オカルト」ないし「魔術」ということです。その辺りは、混同してはならないことです。

とは言え、これまでにもみて来たとおり、両者の区別には、曖昧なものがあり、互いに、互いを含み込む部分があると言えます。近代以前に、「魔術」と解されたものにも、現代では、法則に則った「科学技術」として理解できるものがあり、逆に、現代というよりも、未来の科学技術、さらに、現代でも、宇宙人の技術には、「魔術」そのものと解すべきものも、あると解されます。

「魔術」に、「科学技術」的な要素があれば、それは、現代で言う意味の「マジック」ということになり、「タネ」があるということになります。実際、近代以前の魔術師たちが、行っていた魔術には、このようなものも混在していた可能性があります。ただし、それは、全体としての「魔術」を、生起させるための、取っ掛かり、ないし「要素」として働いた可能性もあります。両者が、混在して、全体としての「魔術」を成り立たしめたということです。

現代の超能力者が行う「超能力」についても、同様の面があり、「マジック」との区別が難しいのは、このような事情の影響もあるでしょう。

さらに、シュタイナーは、産業革命後のあらゆる技術は、「アーリマン存在」という悪魔的存在のインスピレーションによって、興されたものと言います。だとすれば、「技術」というものは、「オカルト」ないし「魔術」と、実際にも、通じていることになります。(『狂気をくぐり抜ける』の記事『シュタイナーにみる「陰謀論」的発想』を参照ください。)

いずれにしても、「目に見えない」領域のものに働きかけることによって、現に表に現れ出ているものを操作するという意味では、「科学技術」も、「魔術」にほかならないということになるのです。そして、実際にも、そのような「魔術」めいた面は、現代の「科学技術」の飛躍的な発展によって、ますます助長されていると言えます。目に見えない領域、思考の届かない領域で、縦横無尽に活躍する、現代のIT技術、AIの技術などは、まさにそのようなものとして実感されるでしょう。

このような、IT技術、AIの技術が、例えば、我々の「意志」と融合するような事態になれば、それは、まさに、本来の「魔術」そのものの、飛躍的な再現ということになるでしょう。

私自身は、先にも触れたとおり、「オカルト」においては、単に、客観的な法則に基づく、「科学技術」ということではなく、それを超える面、つまり「霊的な面」こそを、しっかりと、正面から見据えることが重要と考えます。

しかし、現代の科学技術の発展は、「オカルト」や「魔術」ということが、現代においても、決して無視できないものであることを、指し示しているとは言えるでしょう。
posted by ティエム at 18:13| Comment(0) | 科学・量子論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする