2019年07月19日

「物質的」/「霊的」なものを媒介する「気」

記事『「霊」とは何か』で触れたように、「物質的なもの」と「霊的なもの」の中間的な領域にあって、両者を媒介するものに、「気」があります。西洋の神秘学では、「エーテル」とも呼ばれます。

「物質的なもの」は、これまでみて来たとおり、外界の「目に見えるもの」として、(あるいは「目に見えないもの」でも)、数学的な科学法則で捉えられるものです。それに対して、「霊的なもの」は、「目に見えない」「精神的なもの」で、数学的な科学法則では捉えられません。そして、その本質は、「意識」と解されます。

とは言え、これまでにも、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、互いに混交する部分もあることを、みて来ました。「物質的なもの」と「霊的なもの」は、画然と区別される、別の領域というよりも、全体として、「物質的なもの」が「霊的なもの」に、包摂される関係にあります。そして、互いに関係しつつ、浸透し合う部分があります。

このようなことを理解するには、中間領域の、互いを媒介する「気」に注目することが、重要です。

「気」は、「意識」そのものではなく、一種の「エネルギー」ですが、意識と強く結びついています。一方、「エネルギー」として、物質的なものに近い働きをしますが、「物理的なエネルギー」そのものではありません(数学的な科学法則で捉えることはできません)。まさに、「中間的」なものということです。この辺りは、次回に、科学的な観点から、もう少し詳しくみることにします。

「気」は、東洋思想では、宇宙を構成する根源的な「実体」とされ、あらゆる存在の元に働くものです。人間の身体にも、この「気」が流れています。東洋医学では、その気の歪み、滞りが、病気の元になるとみなします。この気の流れる経路は、「経絡」と呼ばれ、その結節点が、「つぼ」と呼ばれます。西洋的な物質的な身体観とは異なり、気という、見えないレベル、あるいはより根源的なレベルで、身体を捉えていたことになります。

西洋神秘学でも、この、体のようにまとわれる、エーテルのまとまりを、「エーテル体」と呼びます。単なる「物質」ではなく、「生命体」の元となるものと言えば、分かりやすいでしょう。植物を初め、あらゆる生命体には、「エーテル体」があります。

人間の場合も、これが、身体の生命力を支えているだけでなく、思考や記憶を媒介する、重要な要素です。思考や、記憶などの、精神的な作用が、「エーテル体」を介して、身体や外界に反映されるのです。さらには、「カルマ」と呼ばれる、前世から引き継がれた傾向も、「エーテル体」に刻まれるとされます。「気」が、情報の媒体として、「霊的なもの」と身体や外界を、結びつけているということです。

日本でも、「気」は、「気にする」「気にかける」「気を悪くする」など、様々な心理的な動きを、目に見えるかのように表す言葉として、使われています。論理的、観念的な傾向の強い、西洋や中国の場合とはまた違って、情緒的なレベルで、繊細に捉えられていたことが分かります。その表現は、本当に、まるで、気の動きを「見ていた」かのようです。

現代でも、この「気」の働きを、とりあえず、目に見えるもののように、実感するには、気功師の技を見てみるのが、手っ取り早いでしょう。

人間相手の気功だと、暗示を受けているとか、演技とかの疑いも晴れないかもしれません。しかし、神沢瑞至(かんざわただし)という気功師は、遠隔から、猛獣等の動物を、気功によって、バタンと眠らせる技をよく披露しています(※)。確かに、何がしかの「見えない作用」が働いたと、みるしかないものと思います。

そして、それは、気功師の意志を媒介し、動物の生体的な機構に何らかの作用を及ぼした、ということになるはずです。つまり、「気」です。

これは、既にみた、「超能力」の作用とも近いものです。実際、多くの「超能力」というのも、この「気」の作用によってこそ、なされるものとみることができます。情報を媒介する「気」を、受け取ることによって、透視やテレパシーが可能になり、あるいは、意志を媒介する、気の作用によって、外界に何らかのPK的な作用を及ぼす、とみることができるからです。

あるいは、最近は、「食べない人」というのが、かなり表に表れるようになりました。呼吸をエネルギー源にして生きる人と言う意味で、「ブレサリアン」などとも呼ばれます。(ここに、「ブレサリアン」に関する記事あるので参照ください。https://matome.naver.jp/odai/2139377953147453501?&page=1

呼吸を通して、取り入れるエネルギーとは、端的に言えば、「気」ということになります。かつて、仙人は、「霞みを食って生きる」と言われましたが、まさに、この「霞み」に相当します。

「気」は、先に、「生命力」の元となることをみました。「ブレサリアン」は、まさに、「気」を、「生命力」として、直接身体的なエネルギーへと変換するシステムを、身につけた人ということになります。ただし、元々、「物質的なもの」と「霊的なもの」を媒介するものが「気」だとすれば、これは本来は、誰にも可能なことのはずなのです。ただ、具体的に、そのエネルギーを変換するシステムが、通常は、身についていないとみられます。

かつて、気には、科学の方面からも注目を集めて、いろいろな実験がされた時期があります。それにより、いろいろ興味深いことも分かったのですが、それは次回にみたいと思います。

しかし、最近は、気に注目することは、あまりなくっていると感じます。霊的なものそのものに注目することは、かなり増えていますが、この中間的な「気」に注目することは、少なくなっているのです。そのように、あまりに「霊的なもの」のみで突き進んでしまうと、「物質的なもの」との繋がりを見失い、極端な方向へ遊離してしまうことも危惧されます。

一方で、「物質的なもの」のみの方向から、何でも「物質的なもの」で解決できるかのように、「霊的なもの」に迫ろうとするのは、「疑似科学」となって、かえって、合理性を欠く、怪しげなものとなってしまう可能性があります。次回にもみますが、「気」は、その作用が科学的に捉えられるとしても、「物質的なもの」そのものではないことが、分かっています。

それらの「中間的なもの」として、「気」に注目することは、その両者を、自然に結びつけることを可能にするという意味でも、重要と思われるのです。

※ なお、神沢瑞至氏に関する記事の例です。(http://comaco1.com/2017/06/21/post-1045/ )
また、海外で取りあげられた、実演の動画があります。(https://www.youtube.com/watch?v=21Yh6C96AKo )

posted by ティエム at 00:27| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする