記事『「霊」とは何か 』で、人間の肉体に宿る「霊」というものは、単一の、不可分のものというわけではないこと。それは、分離することもあり、その分離した霊は、「生き霊」といわれることを述べました。
今回は、この人間の「魂」ないし「霊」が分離して、独立して働くという現象と、その重要な意味について述べたいと思います。「霊」というと、死後の問題で、生きている間の問題ではないかのように思われがちですが、決してそうでないことを示す、重要な例です。
「生き霊」については、「死霊」とともに、霊能者が、憑依している霊の一つとして、あげられることがよくあります。しかし、これは、昔から語られていたもので、源氏物語にも、有名なシーンとして、出てきます。葵上が「物の怪」に苦しめられて、僧の祈祷を受けているとき、六条御息所が、朝起きてみると、自分の体に(祈祷に使う)香の匂いがするので、寝ている間に、魂の一部が、恋敵の葵上のところに行って、物の怪として苦しめていたことに気づき、愕然となるというものです。
この例のように、通常は、無意識的に、自分でも気づかない間に、思いの一部が体を離れて、生き霊として、某かの行動をするというのが普通です。たとえ、気づかれないとしても、人間同士の様々な、情念の絡む出来事には、このように、生き霊が影響している可能性があるのです。
しかし、さらに、意識的に、自分の生き霊を生み出して、それを操ることで、人に対し、様々な影響力を行使するというようなこともあるのです。それは、まさに、「魔術」の一方法です。
陰陽師を描いた絵には、陰陽師が使役する、奇異な姿形をした、「式神」が描かれていることがあります。これは、一種の「精霊的存在」なのですが、自分自身が生み出した、「生き霊」という可能性もあるのです。
西洋神秘学では、この「生き霊」は、「想念形態」(エレメンタル)と呼ばれます。
「生き霊」というと、恋愛感情や、恨みの感情のように、感情的な要素に重点があるように思われます。しかし、「想念形態」というのは、思考的な要素に重点があり、人の思考、思念というものが、分離、独立して、一つの生命のように、機能するものです。思考、思念そのものが、実体的な「力」、あるいは「存在」として、現実に働く、ということです。
前回までにみた、「気」は、人の意思と結びつきながら、情報を運ぶ、見えないエネルギーでした。この「想念形態」も、人が発するものとして、「気」に近く、まさに「気」のエネルギーでできているのですが、単なる「エネルギー」ではなく、一つの生きた「生命」を吹き込まれたものなのです。
旧約聖書では、神が土くれを人の形にして、「息」を吹き込むことによって、人間ができることが記されています。それと同じように、その者の発した「気」に、「息」(魂の一部)が吹き込まれることによって、 「想念形態」ができると言っていいでしょう。それは、「思いの強烈さ」がもたらすもので、その意味では、感情的な要素が、やはり重要な要素となるといえます。なにしろ、人間も、神と同様、一つ生命の、「創造者」となるのです。
ただし、この「想念形態」は、永遠の存在というわけではなく、エネルギーを充填されなければ、やがて消えて行くものです。その意味では、「一時的な存在」または「仮の存在」と言ってもいいでしょう。
とは言え、西洋神秘学では、この「想念形態」を、多くの精神的、霊的な現象の元にあるものとして、重視します。キプロスの有名なヒーラー、ダスカロスも、統合失調症(分裂病)のような精神的病から、透視やテレパシー、ヒーリングのような能力、カルマのような霊的現象まで、「想念形態」こそが原因となるということを、詳しく述べています。(『メッセンジャー』、『太陽の秘儀』太陽出版 参照)
統合失調症では、「声」を聞くということがよく起こりますが、その「声」は、多くの場合、「他者の想念形態の声」だと言います。タスカロス自身、その「声」に同調することによって、本人が聞くのと同じものを、聞くことができると言います。統合失調症は、その声に振り回されて、混乱しているわけです。
そのような「想念形態」は、既に述べたように、エネルギーを充填されなければ、やがて消えて行くものです。しかし、それは、恐れたり、捕らわれたりすればするほど、エネルギーを充填されて、強力になり、長く、影響を与え続けます。だから、それに対しては、自然に無視するような態度でいることが重要です。しかし、それは、簡単なことではないので、まずは、「想念形態」というものがあること、やがては消え行くものであることを、知っていることが重要になるのです。
ただし、この「想念形態」も、先にみたように、背後の存在によって、魔術的に操作されることがあります。ダスカロスも、ルシファーと呼ぶ悪魔的存在に、管理されることがあると言っています。そうなると、背後の悪魔的存在自体が関わって来て、一筋縄では行かないことになりますが、エネルギーを充填しないように、無視する態度でいることが重要であることには、変わりはありません。
いずれ、この悪魔的存在についても、詳しくみることにします。
ちなみに、統合失調症と似たものに、「解離性障害」(「多重人格」というのもその一つ)というのがあって、こちらは、自分自身の人格が、いくつかに分かれてしまう現象です。まさに、「生き霊」ないし「想念形態」を生み出し、それが自分の周りにとりつくような現象です。この場合にも、「声」を聞くことがありますが、それは、「他者」のではなく、まさに、「自分自身の想念形態の声」を聞いているものと思われるのです。
しかし、この「解離」というのを、逆からみるならば、「人格」とか「自我」といわれるものこそ、想念形態の集合したものということになります。我々が「我々自身」と考えるものこそ、実は、「想念形態」そのものということです。「思考」こそが、「我々自身」を作り上げている、ということにもなります。
いすれにしても、このような「狂気」に関わる事柄は、もう一つのブログ『狂気をくぐり抜ける』に詳しく述べているので、詳しく知りたい方は、そちらを参照してください。
想念形態は、その他にも、様々な現象をもたらしますが、たとえば、「カルマ」というのも、自分自身の想念形態が、いずれは、自分自身に帰って来ることによって、もたらされるとされます。たとえば、他人に向けられた攻撃的な想念形態も、いずれは、自分自身に帰り、自分自身に影響を与えることになるのです。
生き霊には、無意識的なものと意識的なものがあると言いましたが、想念形態にも、似たような違いがあります。ただ、タスカロスは、「欲望的思考」型の想念形態と「思考的欲望」型の想念形態としています。
欲望的思考型の想念形態は、無意識的な欲望によって、大きく左右される想念形態です。それだけ、不安定で、予測もつかず、厄介な代物です。
一方、思考的欲望型の想念形態は、より意識化され、思考によって、明確に、統制された、想念形態といえます。これが、先にみたように、魔術的に悪用されることもあるわけですが、癒し、守護など、よい目的のために用いられることもあります。特定の神秘家が、具体的な目的のために創造することもありますが、祈りや祝福などの漠然とした思いによっても、生じる可能性があるものです。それらが、実際に、人によい影響を与えることがあるということです。
ここでは、ほんの一例を述べたのみですが、このように、想念形態は、「思考」というものが、我々の「現実」にとって、いかに重要なものかを指し示しているものなのです。「思考」こそが、「想念形態」というものを介して、「現実」を「呼び寄せ」、あるいは「作り出し」ているとさえ言えるのです。いわゆる、「引き寄せの法則」の元になるものです。
(「思考が現実を作り出す」という点は、今回の記事だけでは分かりにくいと思うので、いずれもう少し詳しくみます。)
それは、当然、無意識的に、漠然と、欲望によって生み出されたものよりも、思考として、明確に練られ、統制されたものほど、はっきりした、ポジティブな効果をもたらすことになります。一般に、我々が、不安定で、望みもしないかのような「現実」に、苛まれるのは、「想念形態」が、欲望的思考型として、不安定で、不確かなものであることを、反映しているのでしょう。
このような観点からも、「思考」の現実的な力の元となるものとして、「想念形態」というものがあることを知ることは、重要なことと言えます。また、(通常、無意識的に発されているので)自分が、どのような「想念形態」を発していて、とのような影響を与えているかに気づくことが、重要なことになります。
次回は、さらに、シュタイナーが言っている、自分の発する「想念形態」についてみてみます。