2019年12月26日

「境域の守護霊」 との出会い

記事『「霊界の境域」と「霊的鏡像」』((四回前の記事)で、「霊的鏡像」について述べ、それは、「自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たもの」と言いました。そして、「この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展する」、「個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となる」と述べました。

今回は、この「境域の守護霊」について述べます。

「境域の守護霊」は、上に示したように、自分自身が「霊界の境域」に生み出した存在です。個々の想念ではなく、自分自身の、過去の思考や行動の総決算のような、本性の全体的な現われです。ただし、すでに述べたように、自分自身が生み出したと言っても、自分と切り離されて、一個の独立的な存在となった以上、もはや「他者」的な存在となったとも言えます。実際に、出会ったときも、はっきりと、自分自身とは、別の存在と感じられます。ただ、どこか、自分に近しいものという思いは、常に伴います。(この「出会い」の具体的な状況については、次回、私自身の例として述べたいと思います。)

シュタイナーは、この「境域の守護霊」は、「思わず怖気立つような、妖怪じみた存在」として出会われるといいます。実際に、「恐るべき面」をもつものとして、出会われるのです。

「境域の守護霊」は、「守護霊」といわれますが、決して、自分自身を「護っ」ているわけではありません。「護る」とすれば、「霊界の境域」そのものを「護」り、あるいは「監視」しているのです。「霊界の境域」に入るのにふさわしくない者を、脅かしたり、試練を与えて、入らせないようにしているということです。

ちょうど、神社の門前における狛犬や、寺院の門前における仁王のような働きです。ただし、「霊界の境域」が危険に満ちた領域であることは、記事『「霊界の境域」の危険性』で、十分にみました。だから、その準備がない者を、そこに入らないように、追い帰すということは、結果として、その者自身も危険から護っていることにはなります。

「境域の守護霊」には、二種類あり、一つは「境域の小守護霊」、もう一つは「境域の大守護霊」です。後者の「大守護霊」についても、次回に述べますが、まず、「霊界の境域」で出会う可能性があるのは、前者の「小守護霊」なので、こちらを重点的に述べます。

シュタイナーによれば、「霊界の境域」に入って、思考、感情、意志の結びつきが、(エーテル体、アストラル体のレベルで)解け始めた頃に、この「境域の守護霊」と出会うと言います。思考、感情、意志の分裂については、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』(三回前の記事)で、既に述べました。逆に、この出会いによって、人は、思考、感情、意志の自然な結びつきが、外れてしまったことを意識することになるのです。これは、非常に不安定な状態ですから、よほど意識を鍛えていて、強く保っていないと、もちこたえられない可能性も高くなります。

「境域の守護霊」との出会いについて、シュタイナーは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)p228以降に、物語形式で、大枠を述べています。シュタイナーにしては、とても分かり易く、心情的にも訴えかける内容のものですので、それを読んでもらうのが一番いいです。ここでは、その要点となることのみを、述べます。

「境域の守護霊」は、「過去の一切の良き面と悪しき面とが内部から取り出され、人格の外に出たもの」です。それまでは、内部に眠っていたものが、独立の存在として、外部に現れ出て、一つの客観的な「形姿」として、見られるものとなったのです。それが、「妖怪じみたもの」だとしても、それは、自分自身の(前世を含む)過去の行いの総決算として現れ出ているのです。つまり、自分自身の、自分でも知らなかった本性を、知ることそのものだということです。

記事「低次の自我」と「高次の自我」』(前々回の記事)で、「霊界の境域」を乗り越えるには、通常の「低次の自我」から、「高次の自我」へと移行することが問題であることを述べました。そして、「低次の自我」は、まさに低次の欲望や衝動を植え込まれているものであることを述べました。それは、「ルシファー存在」のような、悪魔的存在から由来しているものです。だから、それが、包み隠さず現れるとき、「妖怪じみた存在」となるのも、当然の面があるのです。

それまでは、そのような面と直面するだけの勇気も能力も欠いていました。しかし、「境域の守護霊」との出会いにおいて、そのような可能性が開かれたということです。

「境域の守護霊」は、過去の総決算ですが、同時に、今後の本人の思考や行いを反映して、刻々と変化していきます。ですから、この守護霊の姿を、光輝く壮麗な形姿に変えることが、その者の今後の課題となるのです。そして、この守護霊を、光輝く壮麗な形姿となし得た時、それは再び本人と合一するといいます。それは、まさに、「低次の自我」から、「高次の自我」への移行ということでもあります。

「境域の守護霊」は、まさに、このような移行の過程を、目に見えるものとして、はっきりと映し出すものともなるのです。

シュタイナーは、「境域の守護霊」は、「高次の自我」への移行を「妨害する」ものともなると言います。それは、悪魔的な本性をもったものだとしたら、当然のことといえます。ですから、自分自身が、「境域の守護霊」のそのような傾向に振り回されず、打ち勝っていかなくてはなりません。

しかし、「境域の守護霊」は、未だ十分には生まれざる、「高次の自我」を反映するものでもあります。それは、良くも悪くも、「自己」の全体を露わにする存在だからです。次回みる「境域の大守護霊」は、まさに、そのような「高次の自我」の現われです。しかし、「境域の小守護霊」にも、そのような面が、重なるようにして、現れないわけではありません。「境域の守護霊」が、今後の目指すべきあり様を、目に見せるように示すことで、導きになることもあるということです。

あるいは、少なくとも、それは、「低次の自我」の悪魔的面を克服して、「高次の自我」へと移行することは、可能であるということを、指し示していることにはなります。

このように、「境域の守護霊」との出会いの意味は、その存在の形姿を鏡のようなものとして、自覚的に、「高次の自我」への移行をなし、「霊界の境域」を乗り越えるということにあります。

しかし、「境域の守護霊」が生み出される前との関係で言うと、それは、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』でみたように、それまではあった、様々な存在による、導きや支援を外されるので、それらの働きを、自分自身でなさなければならなくなったということです。「境域の守護霊」自体が導くことがあるとしても、それは、自分自身が生み出したものです。

要は、何かを頼るのではなく、主体的なあり方を、徹底しなければならなくなったということです。

それまではあった導きの一つとして、大きなものに、「カルマ」の働きがあります。それは、善い行いには良い結果を、悪い行いには悪い結果をもたらすことで示されましたが、時間的なラグも大きく、ただ内的に感得されるほかないものでした。しかし、それは、その後は、「境域の守護霊」を通して、即座に目に見えるものとなるので、もはや意識的、自覚的なものとなります。「カルマ」的な結果を、自分自身で生み出しつつ、克服していくべきものということになるのです。それは、いわば、「カルマを超える道」と言うこともできます。

次回は、「境域の大守護霊」について、簡単に述べたいと思います。

なお、「境域の守護霊」については、『狂気をくぐり抜ける』の方のプログでも、次のような記事で述べていますので、ぜひ参照してください。

「境域の守護霊」とは
「境域の守護霊との出会い」まとめ』 
「守護天使」から「境域の守護霊」へ
 
posted by ティエム at 19:30| Comment(0) | 境域の守護霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

補足 低次の自我から高次の自我へ

前回の補足になります。

前回、「低次の自我から高次の自我への移行」ということを、「霊界の境域」に入ると、低次の自我が混乱して、行き詰まり、一種の死を迎えるので、潜在していた、高次の自我へと譲り渡されなくてはならなくなる、ということで説明しました。

こう言うと、「低次の自我」と「高次の自我」が、全く別ものであるかのように思われるかもしれません。しかし、当然ですが、これらは、いずれも、自分自身の「本性」の現れとして、本来は、一つのものです。「魂」あるいは「霊」は、様々に分離する可能性のあるもので、「自我」や「人格」というのも、分離して現れ出ることがあるのは、既に何度か述べました。

あるいは、低次の自我と高次の自我は、無意識領域では、つながっていると言った方が、分かりやすいかもしれません。

意識領域では、「低次の自我から高次の自我への移行」は、一種の「断絶」として感じられますが、無意識領域では、「連続性」があるということです。

これを図で表すと、次のようになります。

自我の移行1.png

ただ、このような移行が、断絶として感じられるのは、低次の自我が、未熟であったからであり、「霊界の境域」へ入ることが、準備もなく、望まずして起こったのであったことが、大きく影響しています。私自身、そうでしたので、説明は、そのような観点からの説明になっています。

シュタイナーの言うような、自覚的な修行において、自我が霊界の参入に向けて、それなりの準備をし、十分鍛えられていた場合、「霊界の境域」での混乱は、より少なく、高次の自我への移行は、よりスムーズに行くと思われます。その場合は、意識領域でも、連続性をもって、移行が可能と思われます。

図にすると、つぎのようになります。

自我の移行2.png

シュタイナーは、自然な成長の先に、あるとき気がついたら、高次の自我へと移行していたというのが、理想の形だと言います。しかし、そのような場合は、稀だと思います。

自覚的な修行をしていて、高次の自我への移行が、スムーズに行くこと自体も、かなり少ないことと思われ、やはり、何らかの意味で、「断絶」が起こるのが、普通のことと思われます。

ただし、低次の自我が、断絶となるような、「死」を迎えれば、高次の自我が、必然的に浮上するというわけではありません。移行が起こるには、高次の自我が、その時点で、少なくとも、何らかの意味で、目覚め始めている(意識に浮上する可能性あるものとなっている)必要はあります。そこで、霊的なものへの何の指向も、準備もなしに、移行が起こるということは、考えにくいことです。

私の場合も、霊界の境域に入った時点で、ある程度の霊的な指向や知識はありました。ただ、それも、実際に入ってみると、とってつけたようなものだったことが分かり、十分には役立ったとは言えません。それで、低次の自我にとっては、霊界の境域は、未知の状況そのもので、遂には、完全に行き詰まり、「死」を迎えることになったので、断絶の要素は、はっきりと伴いました。

何しろ、現代人にとっては、このような移行は、それだけ大変なことであることは、強調しておきます。

posted by ティエム at 00:43| Comment(0) | 霊界、霊界の境域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月04日

「低次の自我」と「高次の自我」

前回、「霊界の境域」では、人格(思考・感情・意志)が分裂するので、それまでの自我ではなく、新たに目覚める「高次の自我」によって、統合されなくてはならなくなることを述べました。

この、「それまでの自我」というのは、新たに目覚める「高次の自我」に対して、「低次の自我」とも言われます。今回も、「境域の守護霊」について述べる前に、この「低次の自我」と「高次の自我」について、簡単に説明しておくことにします。

「低次」とか「高次」 というのは、多分に「価値的」な表現で、抵抗のある人もいるかと思います。その場合は、より客観的に、「狭い(限定された)自我」と、「広い(限定の少ない)自我」ということで、捉えればよいと思います。あるいは、「日常的な自我」と「それを超えた自我」と言ってもいいでしょう。スピリチュアリズムでは、「小我」と「大我」などとも言われます。

いずれにしても、通常の「自我」は、この物質的な世界に生まれて、この世界を規定する、文化的信念体系の中で育ちます。それは、非常に狭く、様々な限定を受けるものにならざるを得ません。特に、近代社会は、知的には、高度なものとみなされていますが、「霊的なもの」を否定する文化なので、「霊的なもの」を前にしたときには、その狭さが、大きく浮き彫りになります。近代社会以前でも、この物質的な世界に生まれる以上、多かれ少なかれ、狭さがありますが、近代社会では、それがより際立つことになるのです。

現代において、まさに、「霊界の境域」という、それまでの世界とは異なる、より広い世界に入ることは、そのような自我の狭さを、如実に、露にしてしまいます

シュタイナーは、「霊界の境域」では、「高次の自我」による新たな統合のために、人格が分裂するという、「目的的」な表現をしていました。確かに、「目的」という観点からは、そのとおりと言えます。しかし、「霊界の境域」で、人格が分裂するのは、それまでの自我では、狭すぎて、とても対応できなくなるからでもあるのです。

それまでの自我は、「霊界の境域」という未知の状況に入ると、混乱し、行き詰まり、一種の限界を迎えます。私の実感で言うと、それは、自我にとっては、明らかに、「死」が差し迫っているという感覚です。もはや、それ自体としては、やっていけなくなったことを、如実に感じ取るのです。そして、思考・感情・意志の統合力を、大きく失うのです。だから、霊界の境域では、思考・感情・意志が分裂するのは、「必然の流れ」と言うこともできます

もちろん、自我も、それに抵抗し、様々にあがいて、「狂気」そのものの様相を呈します。しかし、いずれは、実際に、何らかの意味で、「死」を受け入れざるを得なくなります。そして、最終的には、潜在していた、「高次の自我」を目覚ましつつ、そちらの方に、自らの働きを譲り渡さなくてはならなくなるのです。

「高次の自我」とは、そのように、「霊的なもの」をも受け入れることのできる、より器の広い自我であり、同時に、より強い統合力を発揮し、主体的な働きのできる自我です。

とは言え、そのような移行の過程は、実際には、なかなかスムーズに行くものではありません。特に、望まずして霊界の境域に入った場合は、それが、失敗に終わる場合もままあります。だから、シュタイナーは、自覚的な修行に基づいて、通常の自我を鍛えつつ、霊界の境域に参入する必要を強調するのです。

ただし、自覚的な修行に基づいてなされた場合にも、このような移行は、そう簡単に、一遍になされるものではありません。場合によっては、劇的に、一時になされることもあるかもしれませんが、通常はそうです。

それで、この「低次の自我」から「高次の自我」への移行というものは、それぞれの要素が、様々な葛藤や、せめぎ合いを経つつ、長い時間をかけて、なされることになります。もちろん、一生を越えて、次の生まで持ち越されることもあります。

「境域の守護霊」というのは、自分自身の「本性」の、霊的な現れなのですが、これら「低次の自我」と「高次の自我」の様々な要素が、様々に交錯して現れることになります。ですから、それは、かなり、複雑な様相を呈することにもなります。先に、「低次の自我」は、この世における「日常的な自我」と言いましたが、実際には、この世だけでなく、前世のものも含みます。それで、ますます複雑なものともなるのです。

さらに、シュタイナーが、あえて、「低次」の自我というのは、それが、まさに「低次の欲望や情動」によって、突き動かされることがあるからです。通常の自我に、このような面があることは、誰しも認めざるを得ないと思います。この「低次の欲望や情動」は、シュタイナーによれば、「ルシファー存在」という、「悪魔的存在」によって植え付けられたものです。

それで、「高次の自我」への移行には、そのような、低次の要素が、越えられる―あるいは、シュタイナーは、むしろ、相対する「アーリマン的」な要素との均衡がなされることと捉えるのですが―、必要があることになります。「高次の自我」への移行と言っても、一筋縄では行かないことが、分かると思います。

私自身も、この「低次の自我」の性質が、人一倍強い?故に、なかなか、「高次の自我」への移行がうまくいかず、苦労している面があります。

いずれにしても、「境域の守護霊」とは、このような移行の過程に関わるもので、その移行の過程を、目に見えるように、見せてくれるものとも言えるのです。それについては、次回に述べます。

posted by ティエム at 20:46| Comment(0) | 霊界、霊界の境域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする