2020年08月21日

「自我の発達」や「均衡」という行き方との関係

これは、本来、かなり込み入った問題ですが、ここでは、疑問に思う人のために、参照になる程度に、簡単に、触れておくだけにとどめます。

1 「自我の発達」との関係

「捕食者の心を脱する」という行き方は、普通一般に言われる、「自我の発達」ということとは反するように思われるでしょう。「自我の発達」が望ましいことだとすれば、「捕食者の心を脱する」ことは、望ましくないことになります。普通に言われる「自我の発達」とは、現代の社会に適応するためのものなので、「捕食者の心」を中心にできている、現代の社会にとっては、確かに沿わない方向に行くことになるのです。

しかし、本来、「自我」ということには、今まで述べた、「捕食者の心」と「元々の心」の両方が含まれているとみなすことができます。「元々の心」を発達させるという意味では、「自我の発達」は、やはり必要なことと言えるのです。

前に、「低次の自我」と「高次の自我」について述べましたが、「捕食者の心」と「元々の心」は、必ずしも、そのままそれに重なるわけではありません。「元々の心」も、現実に発達していないと、「高次の」働きができるわけではないからです。

かなり割り切った言い方ですが、「捕食者の心」=(自我ではなく)「エゴ」と捉えると、分かりやすくなると思います。他者との関係で、保身、優位に立つこと、収奪などのために、自分自身を重視して行く心です。しかし、これは、本当には、「自分自身を重視」するものとは言い難いものです。自分自身の本来の意向というよりも、他者や社会との関係で、そうならざるを得なくして、そうなっているようなものだからです(もともと、他者から、植えつけられたものなので、そうなってしまうのも必然ということができます。まさに「奴隷」ということです)。

しかし、普通に「自我の発達」というときは、こういう面を多く含むのです。

それに対して、「元々の心」は、他者や社会との関係というのではなく、単純に、自分自身の経験のために、「主体性」を発揮して行く心と言えます。ただ、現状では、「捕食者の心」に乗っ取られているために、その「主体性」を発揮できない状態になっているということです。

「元々の心」=「主体性」、「捕食者の心」=(一見主体的であるようで、実は)「他者依存性」というのが、ポイントです。

「自我の発達」ということには、本来、このような「主体性」の発達ということも、含められるべきものです。

ドンファンの説明では、「捕食者の心」を脱して、初めて、「元々の心」、つまり、真の主体性を発達させることができる、という意味合いが強いです。確かに、「捕食者の心」がその邪魔をするので、「捕食者の心」を脱しないと、「元々の心」を発達させることは難しいでしょう。

しかし、私は、「捕食者の心」を脱してからでないと、「元々の心」を発達させることができないとは思いません。つまり、「捕食者の心を脱する」という方向を見据えつつ、それと併行して、「元々の心」を発達させることも可能ということです。「捕食者」という存在を認識し、「捕食者の心」に、意識的、自覚的になれれば、「捕食者の心」の邪魔には気づきつつ、「元々の心」をある程度発達させることは、可能と思うのです。

また、「捕食者の心」を脱するまでは、「元々の心」を発達できないとすれば、まさに、ドンファンの言うように、「元々の心」は全く使い物にならない無力な状態のままなので、たとえ「捕食者の心」を脱することができたとしても、その後、やっていけるかどうかは疑問ということになるでしょう(その意味では、ドンファンの説明は、多少誇張の面があります)。

要するに、「自我の発達」は、通常は、「捕食者の心」の発達を意味するので、「捕食者の心」を脱する行き方と相入れないのは、とりあえず本当です。しかし、真の「主体性」の発達という意味では、決して矛盾せずに、共存することも可能ということです。あるいは、むしろ、積極的に、共存させて行く方が望ましいということです。

2 シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」との関係

シュタイナーの「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」という行き方も、一見、「捕食者の心」を脱する行き方とは相入れないようですが、「自我の発達」の場合と同様、実際には、共存可能の面があります。

シュタイナーの行き方については、ここでは改めて説明しませんので、それについては、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の以下の記事を参照してください。

「ルシファー的な性向」と「アーリマン的な性向」について→記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)。「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」について→記事『「分裂気質」と「均衡」という行き方』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-513e.html)さらに、ドンファンの「捕食者の心」を脱する行き方と必ずしも矛盾しないことについて→記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-8eb4.html)。

「捕食者の心」が、シュタイナーのいう「アーリマン的な性向」と多く重なることは、これまでも何度か述べて来ました。実際そうで、反対に、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向」には、「元々の心」と重なる面があります。ただし、「ルシファー的な性向」も、外部的に植えつけられたものなので、「エゴ」的な欲望や高慢さという意味では、「捕食者の心」と重なる面もあります。

このように、「捕食者の心を脱する」とは、「アーリマン的な性向」と「ルシファー的な性向」の多くを脱することになるので、それらの均衡を図るというあり方とは、相入れないようにも思われます。しかし、結果としてみると、「均衡」とは、過剰な部分をそぎ落とすということなので、それらを「脱する」ということとそう違うわけではありません。

また、「自我の発達」の場合と同様、「捕食者の心」を脱したとしても、「元々の心」を発達させて行かなくてならないので、その発達の方向は、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということと、そう違わないことにもなるのです。「元々の心」の発達は、真の「主体性」の発達と同時に、捕食者や、捕食者的な社会との関係でなされる以上、「ルシファー的な性向」の「アーリマン的なものとの(妥協ではなく、主体的な意味での)折り合い」という面をもつからです。

このような、「元々の心」の発達というのは、結局、「自己の完成」とも言えますが、それは、事実上、「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのと、違わないものになるということです。

(但し、それも「終わり」ではなく、バーナデット・ロバーツによれば、さらに、そこから、「虚無への溶解」ということが起こるとされ、ドンファンでも、「無限との一体化」ということが言われます。)

ただ、その行き方には、かなりの違いがあるのは事実で、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」というのは、既にあるものの、均衡を図るという意味で、より穏当で、一般向きと言えます。こちらの方が合うという人は、その方法でいけばいいと思います。

「捕食者の心を脱する」という行き方は、「捕食者」というものを如実に経験し、それを脱したいという動機づけをもった人に、最適の行き方と言えます。ただ、前回も述べたように、「捕食者」の活動が特別に高まっている現在、こちらの行き方の方が、一般的にもふさわしくなりつつあるという面はあると思います。

posted by ティエム at 23:38| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月06日

「捕食者の心」を脱すること

既に述べたように、「捕食者の心」は、現に、我々自身の心と化しているものです。そのような、「捕食者の心を脱する」ということは、いかに途方もないことか、分かると思います。

それは、我々自身の「心」となっているものを、手放すということを意味するからです。我々にも、「元々の心」が、ないわけではありませんが、それは、ドンファンも言うように、敗北して隅に追いやられて、ほとんど「使いものにならない」ものになっています。「捕食者の心を脱する」とは、そのような、「か弱い心」で、この世知辛い世の中を、生きて行くことを(意志することを)意味するのです。

それで、前回は、「捕食者の心を脱する」ということはとりあえずおいても、捕食者の働きかけに対処し、その影響を極力少なくしていくことは、現実的に必要という観点から、述べました。

しかし、そのような捕食者への対処は、本来は、「捕食者の心を脱する」ということと結びついてこそ、意味をなすものです。それには、長いプロセスが必要だとしても、一応は、そのような方向を、見定めておかなくてはなりません。

それで、今回は、「捕食者の心を脱する」ということについても、一とおり、述べておくことにします。

前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道』でも詳しく述べられていますが、まずは、ドンファンの説明を中心に、より分かりやすく述べます。

「捕食者の心」とは、何かを「する」ときの心であり、要するに、心に様々な喧噪をもたらす、「騒ぎ立てる心」ということができます。それは、「あーでもない、こーでもない」と、「内的な対話」を通して、心に働きかけて来て、心を忙しくさせます。それが、我々の日々の悩みや葛藤のもととなり、捕食者に「食われる」もととなります。

それで、ドンファンは、この「内的対話を止める」ということから、「捕食者の心を脱する」道が始まるとします。それは、「すること」に対して、「しないこと」とも呼ばれます。一種の「沈黙」の状態であり、「内的静寂」の状態です。座禅やヨーガ、その他の「瞑想」によって、達せれる状態と言っていいと思います。

このような「内的対話が止まる」状態、「静寂」の状態は、初めは、一時的なものですが、それでも、その瞬間、「捕食者の心」は、耐え切れなくなって、「逃げ去って」いるのです。「捕食者の心を脱した」状態が、一時的にであれ、実現しているということです。それで、普段、我々がそうだと思っている心は、本来の心ではなく、「外から来たもの」ということが分かることが重要です。「外から来たもの」なので、それを脱することは、不可能ではないことも、分かるのです。

私も、瞑想しているときなど(それに限らず、集中が高まっているとき、深く共感する本を読んでいるときなど)には、このことを感じることが、多くあります。たとえば、それまで心が動揺し、胸に痛みを感じるような状況にあったときも、「内的対話が止まる」状態では、それらが、きれいさっぱりなくなってしまうのです。それまであったはずの、「痛み」ですら、嘘のように、なくなっていることは驚きです。

しかし、ドンファンも言うように、初め、そのような状態は、長くは続かず、「捕食者の心」も、すぐに戻って来ます。心も静寂ではなくなり、「内的対話」がまた始まるのですが、そうすると、一旦はなくなったはずの、動揺する心や、なんと、胸の「痛み」すら、ちゃっかりと、戻って来てしまっているのです。

しかし、これらのことから、本当に、それらは、本来あるものではなく、自分自身が、囚われから作り出しているのであることが分かります。「脱し得るもの」であることが分かる、ということです。

ドンファンは、そのようなプロセスが繰り返されることによって、徐々に、「捕食者の心」の影響力は、弱まっていくのだと言います。そして、いすれは、永遠に逃げ去ることになると言うのです。つまり、「捕食者の心が脱せられる」ということです。

しかし、ドンファンは、その日は、実に「悲しむべき日」だと、逆説的なことを言います。そのドンファンの言葉をあげてみます。

実に悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるを得なくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすれはいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。……なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。
           
わしの個人的な見解を言わせてもらえば、本当の闘いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備に過ぎん。


初めに述べたように、「捕食者の心を脱する」ということは、敗北して隅っこに追いやられている、「か弱い」「元々の心」だけで、やっていくということを意味するのです。

それまでは、「捕食者の心」が、良かれ悪しかれ、社会や人との対応においても、一定の役割をなしていました。それは、多くの人との共通部分でもあったので、ある意味で、その部分でこそ、社会的な連帯や、人との共感もできていたわけで、「社会的な適応」の基礎でもあったわけです。また、何かあったときには、その心が、「攻撃的」な意味で、防御をなすものでもありました。

そういったものを失うということは、それまでの、「捕食者の心」に頼った生き方を止めて、全く違った生き方を、自ら築いて行かなければならないということです。それは、社会的には、ある意味で、「逸脱した」生き方になります。

それはまた、「捕食者」との関係でも、新たに、「元々の心」だけで、対処して行くということをも意味します。「捕食者の心」は、「捕食者」と通じているもので、奴隷になるということと裏腹にですが、その直接的な攻撃から護るものでもありました。それを失うということは、「捕食者」の攻撃も、より直接的になり、強化されるということです。

そのようなことが、「捕食者の心を脱する」ということを、途方もないことにし、誰もが望めることではないものにしています。むしろ、実際には、誰もが、あえて、「望まない」ものになっているということです。

ドンファンも、「捕食者」は、完全に「目に見えない」というわけではないので、多くの者は、子供の頃に、捕食者を何らかの形で「見て」いるが、その恐怖により、記憶からは抹消するのだと言います。(私も、子供の頃、当時は、もちろん捕食者とは意識しませんでしたが、後に捕食者と分かる存在と、「金縛り」という形で出会い、非常に恐怖したことがあります。)

その後も、多くの者は、意識はしないにしても、無意識領域では、捕食者について、何らかの「知識」をもっており、強く恐怖しているので、それを「脱する」などということは、望むべくもないということです。

だから、「捕食者の心を脱する」には、まず何よりも、「捕食者」という存在について、無意識にではなく、意識的、自覚的に知ることが前提になります。無意識では、知り得なかった、決して、恐るべき存在というだけではない面も含めてです。前回も紹介した、『狂気をくぐり抜ける』の記事『まとめ-「補食者」について』の 「6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。」でも、「捕食者を捕食者として受け止める」ことこそが、「脱すること」の始まりの一歩であるとしていました。

「捕食者の心を脱する」こと自体が、このように大変な道なのですが、しかし、たとえ脱することができたとしても、それはある意味で、本当の、「始まりの一歩」なのだと、ドンファンは言うのです。そして、前回述べたような、「捕食者に対する対処」ということも、改めて立ち返って来ることになります。「捕食者」の方でも、それで攻撃を止めるわけではなく、むしろ強化されてくるからです。

ドンファンは、その対処の手立ては、端的に、「予期せぬ事態にあっても、ひるむことなく立ち向かう能力」と言っていました。それも、「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」からこそです。(攻撃的な心である)「捕食者の心」なしに、それに対処するには、それしかないということになるのです。

さらに、既にみたように、社会的、対人的な意味でも、「元々の心」だけで生きて行くことは、困難な道になります。

私も、『狂気をくぐり抜ける』の方で述べたように、一連の体験のピークには、「闇との接触」ということが起こり、それは、「捕食者の心」を、永遠にではないですが、単に一時的にというのでもなく、「逃げ去らせる」ことになりました。

それで、当分は、静寂で、悩みや葛藤からは解放された状態が続いたのですが、社会的、対人的には、「弱々しい」「元々の心」だけでやって行くという、困難な事態を経験しています。私は、それを「リハビリ」とも言っていましたが、本当に、全く「生まれ変わった」ような状態で、「右も左も分からない」状態から、つまり、ほとんど赤ちゃんに等しいような状態で、一からやり直すというようなものでもありました。

捕食者の攻撃も、前のように継続はしないのですが、ときどきのものが、前以上に強烈になった面があり、新たに対処が大変になった面があります。しかし、特に、社会や他の人間との関係や折り合いに、とても苦労することになったのです(その背後に、捕食者がいるという意味では、それも捕食者との関係の一面と言えますが)。

(現在は、それらがある程度身についたという面と、恐らく、「捕食者の心」もいくらか戻って来てしまっているので、それほど苦労することはなくなっていますが…)

いずれにしても、現に我々自身の心となっている、「捕食者の心を脱する」ということは、途方もないことのようではありますが、決して不可能なことではありません。前回述べたように、現在は、「捕食者への対処」が、誰しも必要な時代になっているとすれば、やはり、いずれは、「捕食者の心を脱する」という方向性を、見据えたものにする必要があると思います。

既にみたように、たとえ、「捕食者の心を脱する」ことができたとしても、それは、「新たな生」の始まり、「本当の闘い」の始まりを意味し、「捕食者への対処」も、相変わらず必要ということにはなります。それは、意気を消沈させるようなことかもしれませんが、ドンファンがそれを強調するのは、文字通り「逆説」の面もあります(それが「ゴール」ではないことの強調)。そして、もし、時代的に、多くの者ではなくても、ある一定の人たちが、そのような方向に進めたとしたら、それまでの社会も、大きく変わることになります。そうすると、「捕食者の心を脱した」後の「新たな生」も、それほど困難なものとはならないで済むと思うのです。

次回は、「捕食者の心を脱する」ということと、いわゆる「自我の発達」ということ。さらに、シュタイナーのいう「ルシファー的な性向とアーリマン的な性向の均衡」ということとの関係についても、触れておきたいと思います。
posted by ティエム at 00:46| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする