超心理学による所見
それでは、超能力が実際に存在するのかどうか、みてみます。
「存在するかどうか」と言っても、厳密にそれをしようとすると、その前提として、「存在する」とはどういうことかということ自体が、問題となってきます。「科学的に存在することが証明できること」のみが、「存在する」ものであるなどとは言えないのです。とはいえ、これは、形而上的な問題であり、容易な問題ではありません。
しかし、「超能力」は、前回みたように、物質的な現われをする限り、「科学」と接点のあるものです。私も、「科学」は、「物質的なもの」の領域について、多くの者に共有できる形で、客観的に知識をもたらす、有力な方法と思います。そこで、まずは、「科学」の視点から、みてみることにします。
現に、超能力を実験的な手法に基づいて、科学的に研究する学問はあります。それは、「超心理学」(パラサイコロジー)と呼ばれています。日本では、少ないですが、外国には、大学に講座を持つところも多く、専門の教授も多くいます。
この「超心理学」について、一般向けの分かりやすい解説書としては、宮城音弥著『超能力の世界』(岩波新書)、笠原敏雄著『超心理学読本』(講談社+α文庫)があります。いずれも、絶版ですが、古本では、比較的手に入れやすいようです。最近のものでは、石川幹人著『超常現象を本気で科学する』(新潮新書)があります。同著者の、超心理学を概観したものがネット上にもあります。(http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/ )研究者の現状を取材した読み物としては、NHK取材班著『超常現象 科学者たちの挑戦』(新潮文庫)があります。興味のある人は、是非、どれかをお読みください。
超能力というものは、「意識」の起こす、通常の物理的手法によらない、「特別の」現象なので、その現れは、かなり気まぐれで、必ずしも、「再現的」なものではありません。また、人間の「能力」である以上、様々な条件にも左右されます。それで、超心理学においても、(物質的な科学と同じような意味で)疑いのない、明白な結論というものが、提出できたわけではありません。
ただ、現在のところ、多くの研究が明らかにする、一定の確からしい結論というのを、あげることはできます。
それは、「一般人を対象とする実験的な研究を繰り返し行ったところ、それがなければ偶然では起こり得ないような、「統計的な有意性」という範囲で、超能力があること自体は、証明された」というものです。「証明された」という点については、様々な疑義もあり得ますが、少なくとも、「十分示唆される」という程度の確からしさは、認められたと言っていいでしょう。
「一般人を対象とする」というのは、初め、超能力研究は、特別の「能力者」を研究対象にしたのですが、能力者は、実験的な環境では、必ずしも、好成績を出せず、また、出したとしても、トリックの疑いを排除できず、研究に馴染まないとみなされたのです。それで、現象そのものは、大きな現われが見込めませんが、研究対象にしやすい、一般人に目が向けられ、繰り返し実験を行って、統計的な処理を施し、統計的な有意性を判断することによって、その現象の現れを「客観的に」捉える方法がとられるようになりました。
この方法により、研究の一般性や客観性は、もたらすことができたのですが、しかし、この方法では、「証明」が間接的であり、これで本当に、「超能力がある」と多くの人が 納得できるかというと、やはり難しいことでしょう。また、たとえ「ある」としても、「統計的に明らかになる程度の能力が、何の役に立つのか」という疑問も生じることでしょう。
このようなことは、仕方のないことで、これは、「超能力の存在を科学的に明らかにしようとする」ことそのものに伴う限界であろうと、私は思います。
むしろ、超能力の存在を、誰にも明らかなように、客観的な方法で明らかにしようとしたことで、「一般人による統計的有意性の範囲」でしか、明らかにできなかったというのが本当のところと思います。実際に、超能力が、このような範囲のものに過ぎないのかというと、そんなことはないということです。
何しろ、超心理学は、「超能力がある」ということの「証明」に関しては、この程度のもので満足せざるを得ず、現在は、それがあることを一応認めたうえで、その能力にどのような性質があり、どのような条件のもとに現れやすいのか、どのような原理で発現するのかなどを研究しています。それには、一定の興味深い積み重ねがあります。
しかし、一般の人には、それがまた、「科学」ではなく、「オカルト」的な研究に深入りしているとの印象をもたらすことにもなるでしょう。
超能力者による科学的証明は可能か
ただ、私は、科学的視点からも、超能力をもっと明白に証明する手段がないとは思いません。それは、やはり、少なくとも、「統計的な有意性」という範囲を超えて、超能力を頻繁に発現できる、「特別な能力者」を研究対象とすることです。このような能力者を、研究対象として確保することは難しく、先に述べたように、実験に馴染まない要素が多くあることも確かでしょう。しかし、本当に、一般の人にも納得されるような形で、超能力が証明されるということがあるとすれば、それしかないと思います。
ただ、これが難しいのは、他の要素も多くあります。
まず、前回みたように、「オカルト的なもの」に対する排除の発想がある限り、このような実験が公正になされ、公正に評価されることは難しい、ということがあります。
前回も触れましたが、明治期の「千里眼事件」は、それを象徴する事件といえます。長尾郁子という透視能力と念写能力を現した人物の公開実験では、実験を設定した否定派の学者により、ターゲットが抜き取られる(本人の弁では、過失により入れ忘れる)という事件が起き、長尾がそのことを透視により指摘するということがありました。それで、実験そのものが中止されてしまったのですが、その学者は、記者会見で、確かな根拠とは言い難い理由で、長尾の能力はトリックによる詐欺であると、強く批難しました。
初め、透視能力の存在をセンセーショナルに宣伝していた新聞も、これを機に、トリックによるものとして能力を否定し、このような実験そのものが科学に反し、迷信を助長するものだと訴えるものが増えて来ます。その前に、かなり緩やかな条件とはいえ、一応実験を「成功」されていた三船千鶴子の透視能力も、否定的にみられるようになり、様々なバッシングを受けるようになりました。それが原因かどうか不明ですが、三船は自殺し、長尾も病気のため死んで、実験はできなくなり、東大の福来友吉も、大学を追われることになりました。結局、超能力があるかどうかについては、うやむやになり、そして、以後、このような研究をすること自体が、難しくなってしまいます。
この事件については、正確なところは現在では分かりにくくなっていますが、大まかな流れはこのとおりです(一柳廣孝著『<こっくりさん>と<千里眼>』講談社選書メチエ 参照)。やはり、「オカルト」的なものを排除しようという意思が、強力に働いたとしか言いようがありません。また、それは、直接には、否定派の学者や新聞の影響が大きいですが、総体的にみると、当時の、多くの者の総意によるといえる面も多分にあると思われます。つまり、多くの者が、この能力について、強い関心を示したものの、いざはっきりと白黒つけるとなると、それを望まず、拒否したという面があるということです。初めは、興味本位で面白がっていたとしても、ある線を超えると、恐怖にかられ、それを本当に「現実」として認めることは、拒否したのです。
そして、これに似たことは、その後の、超能力少年の事件や超能力ブームなどをみても、何度も繰り返されていると言わざるを得ません。
ただし、超能力者の実験が、否定派も疑いなく納得できるような形で、はっきりと示されることがないのは、否定派やそれを拒む者だけの問題ではありません。能力者自身も、緩やかな条件だったり、好意的、肯定的な者の設定した実験であれば、「成功」しても、否定派の納得するような、本当に厳密な条件を設定されると、その能力を如実に示すことがないということも確かにあるのです。
オウム事件など種々の社会問題を鋭く追究するジャーナリスト森達也は、超能力についても鋭い追究をしています。そして、『オカルト』(角川文庫)という本では、オカルトが示唆的には現れても、多くの者の見守る、疑いようもなく明白な形では現れにくいことを問題とし、「オカルトそのものが、見え隠れしつつ、表に明白に現れることを拒否する、意思を有している」ようだと評しています。
これは、能力者が能力を現せないことの、言い訳として利用される可能性もありますが、私も、そのとおりと思います。まさに、正面にはっきりと現れず、見え隠れするからこそ、「オカルト」とも言えるのです。それでこそ、「オカルト」としての陰影や、深みを残すということです。正面にはっきりと現れるようであれば、それは、考えるまでもなく、ただ受け入れるしかない、単なる「事実」の「押しつけ」に過ぎないとも言えるでしょう。
しかし、同時に、これは、能力者を含めて、多くの者の、受け入れ態勢ができていないことによる影響も大きいと思います。現在のところ、「オカルト的なもの」が、有無を言わさず、疑いもなく、明白に現れ出ることを、多くの者が望んでおらず、そのことの影響を、能力(能力者)自身も受けているということです。
超心理学でも、個人的な意思より、多くの者の集合的な意思が重なった場合の方が、現象として生起しやすいことが分かっています。NHKの超常現象に関するドキュメンタリーでもとりあげられた、「地球意識プロジェクト」では、多くの者が同時的に精神的に高揚したときに、乱数発生器に有意に乱れが生じることを明らかにしていました。
それと同じように、「オカルト的なもの」の明白な現れも、多くの者の集合的な意思の影響を受ける可能性があるということです。
空海は、「密教」には「如来秘密」(如来自身が設定した秘密)と「衆生秘密」(衆生の理解が及ばないため生じている秘密)があると言いましたが、この現象にも、似たような、両面の「秘密」が働いているようです。先にみた、現象自体の意思ともいえるものが、「如来秘密」に相当し、後者の、多くの者の意思が「衆生秘密」に相当します。
恐らくですが、多くの者が、本当に受け入れる準備ができたなら、この現象は割と素直に正面に現れるのではないかと予想されるのです。
ただし、もう一つ、ネックになるのが、「トリック」ということの評価の難しさでしょう。「千里眼事件」でも、トリックという批難が強く出されましたし、これは、超能力実験にはつきものです。マジックというものも、現在は相当に進化し、一見超能力としか思えないようなものもよくあります。そこで、マジシャンが、「超能力はトリックでてきる」ということもよく主張されます。ところが、マジシャンが職業上の秘密であるそれを、具体的に明らかにすることはないので、一般人としては、判断が難しく、そのマジシャンの言を信用するかどうかということになります。また、実験において、そのトリックの可能性を一般的に排除する設定を標準化するというようなことも、難しいことでしょう。
しかし、たとえ、トリックでできるとしても、その実験において本当にそれが行われたのかどうかは別問題で、それによって、超能力が否定できるということではないのはもちろんです。いずれにしても、大変な問題であることに変わりありません。
それにしても、私は、いずれそう遠くないうちに、これらは克服され、超能力の存在を、実験的に明白に明らかにすることは可能と踏んでいます。ただし、そのためには、能力者の側も、研究者の側も、否定論者も、我々一般の人も、相当に経験を重ね、精神的に成長する必要があると思われます。
【関連する記事】