2018年08月27日

「超能力」について 3

文化的な視点から

超能力については、科学的な視点のほかにも、文化的な視点から考察することが、重要と思います。というより、そもそも、「科学」という発想そのものが、「近代社会」という、特定の文化に生まれたものなので、広い意味では、文化的な視点の一つにほかならないのです。

科学には、特に、その一神教的な発想が強く影響しています。簡単に言うと、唯一の神によって作られた「宇宙」は、その神が設定した、唯一の数理的な法則によって統べられている、という発想です。この発想は、そこからはみ出るもの、つまり、あやふやなものだったり、明確な法則で捉えられないものは、極力排除しようとします。このような発想は、非常に狭く、排他的なものですが、それによってこそ、成功を収めた面もあるのは確かです。しかし、後にみるように、他の文化をみれば、何ら普遍的なものではなく、一つの、特殊な「文化」の見方に過ぎないことが分かります。

「科学」については、いずれまた、改めて考察することになりますが、何しろ、それだけで、超能力やその他の「オカルト的」な現象を判断することはできないということです。

そこで、「文化的な視点」ですが、それは、このような近代社会以外の文化において、超能力のような現象が、どのようにみられているかという視点です。

「近代社会以外の文化」とは、西洋または世界全般でいえば、近代以前の時代の文化ということになります。しかし、現在でも、それが生きている文化は、いくらもあります。日本の伝統文化もそうですし、特に、「先住民の文化」がそうです。

これらの文化においては、共通して、超能力のような現象は、当然のように認められていました(す)。超能力だけでなく、「霊的な存在」が広く認められ、人間の霊のほかにも、様々な「精霊」または「神々」といった存在が認められていた(いる)のです。認められていた(る)だけでなく、生活上において非常に重視した(する)のです

「超能力」というのも、近代人が解すように、「個人的な能力」というよりは、これらの「霊的な存在と交流する能力」、あるいは、「霊的な存在の力を自分を通して現す能力」という意味合いが強くなります。霊的な存在や神々との関係抜きには、あり得ない能力ということです。そのような能力は、一般の人も現すことがありますが、特にそれを現すのは、やはり、「シャーマン」あるいは「霊能者」という特別な者になります。そういった者が、逆に、これらの存在を「使役」するということもありますが、そうなると、それは、「呪術師」とか「妖術師」ということになります。

「魔女狩り」のところで述べたように、西洋の近代以前には、「魔女」が広く信じられていました。これは、一神教的な神への信仰が、これら伝統的な文化の「精霊」や「神々」を「悪魔」として貶めたために、それと結びつけられて、「魔女」という風に捉えられたのです。一神教的な変更を受けていますが、「魔女」も、一種の「呪術師」的な存在として、信じられ、恐れられていたのです。

それを「排除」するべく、「魔女狩り」が起こり、そこから、近代社会が出現したことは、既にみたとおりです。だから、近代社会は、出自そのものが、そのようなものの「排除」と結びついているのです。

何しろ、こういったことは、近代以前の文化としては、歴史的な記録を通して知るしかありません。しかし、現在においても、それが生きている、先住民文化などでは、人類学者などのフィールドワークを通して、多くのことを知ることができます。これらの文化では、超能力や霊的存在が、当然のように信じられているわけですが、研究者の中には、自ら、実際に、そのような現象を体験して、報告する者もいます。たとえば、シャーマンによる、「治療儀礼」などの儀式において、感染症のような病気が治るなどのことです。

『ミュータントメッセージ』という本は、「事実に基づいて書かれたフィクション」ということですが、アポリジニーの普通の人たちが、互いに離れたところでも、当たり前のようにテレバシーで意思を通じ合わせるところが、詳しく描かれています。これに近いことの報告は、他にもよくあります。

日本でも、アイヌ文化を踏み込んで研究した藤村和久は、アイヌの長老が、いつ誰それが来るとか、カラスの鳴き声を通して、誰それが死んだとか、天気がどうなるなどのことを的確に当てることを、驚きとともに報告しています(『アイヌの霊の世界』小学館)。カルロス・カスタネダの「ドンファンシリーズ」を知っている人は、メキシコのシャーマンであるドンファンが、やはりカラスの鳴き声を通して、同意や前兆を受け取っていたのと、似ているのが分かるでしょう。

これらは、ほんの一例に過ぎませんが、もちろん、厳密な科学的方法によって、明らかにされたものではありません。しかし、これらの文化が、普遍的に、共通して、しかも、非常に長い間にわたって、このような現象や存在を身近に信じ、文化の中心にして、生きて来たことは、驚くべきことというべきです。それに比べれば、西洋の近代とは、わずか200年余りの最近の出来事によって生じたのに過ぎず、実績もあまりに短いものです。しかも、それは、既に、綻びをみせています。そのような近代社会とは、人類の文化全体の中では、むしろ「異端」というほかありません。

西洋近代の方では、それらの文化を、迷信であり、科学的な知識がないために、怖れから、信じたに過ぎないものとみなします。しかし、たかだか200年余りの文化が、それだけ長く続いた、普遍的な文化に対して、そんなことを言えるはずがないでしょう。それが本当だとすれば、人類は、ずっと長い間、誤った迷信を信じて生きて来たのが、ここ200年の近代人が、ぽっと出てきて、突然それを覆し、唯一、「真実」を生きるようになった、ということになります。しかし、そんなことは、とても信じ難いことです。

何も、長く続いているから、普遍的だから「真実」で、異端だから「間違い」だということではありません。しかし、少なくとも、普遍的な文化が、そのように信じることで、長い間、生を全うして来たなら、そこには何らかの真実が含まれているはずだ、という風に考えるのが、当然のことなのではないでしょうか。

再び、超能力を認めることの意義

ここで問われているのは、何も、近代社会の「すべて」ということではありません。問題なのは、初めに少し述べたように、近代の排他的な見方である、「科学によって全てを捉えることができる」という発想なのです。普遍的な文化は、「科学」によっては捉えられない領域というものを信じ、そちらこそを重視して来た文化といえます。だから、このような見方をする限り、これらの普遍的な文化を、入れる余地はありません。まさに、「排除」するしかないのです。

そのような普遍的な文化と、「融和」があり得るとすれば、頑なな「排除」は止めて、「科学によっては捉えられない領域」もあり得ることを、認めるしかないことになります。しかし、それは、近代社会にとっては、そのあり方自体についての、根本的な変革を迫るものとなるのは事実です。そもそも、近代社会とは、そのようなものを「排除」することでこそ、成り立ってきた文化なのですから。

しかし、前回みたように、近代社会の側の、科学という方法によっても、超能力の存在が、「統計的な有意性」という範囲であれ、明らかにされているのです。このことは、これらの文化の信じて来たことを、見直すだけの根拠も十分与えているというべきです。超能力は、科学との接点を持つが故に、そのようなことが明らかにできたといえます。そのことがもたらす意義は、とても大きく、それは、これらの文化の普遍的に信じる、「霊的なもの一般」へと目を向けさせる契機にもなるはずのものです。

超能力は、脳または身体を持つ、生きた者が発揮する能力ですが、それは、意識が、脳や身体など物質的なものを超えて、作用することがあることを、物語っています。超能力は、「電磁波」の作用によって起こるという見方もありましたが、電磁波を通さない条件でも成功した実験は多くあり、また距離に影響を受けないこと、意志により選択的に働くことなどからも、もはや無理なものとなっています。

従って、超能力は、それが認められるなら、脳や身体から独立して働く「魂」のような存在を、少なくとも示唆することにはなります。そして、それを広げれば、「霊的な存在」一般の存在をも示唆するものとなり得ます。これらのことは、結局、普遍的な文化が信じて来たことと通じることになるのです。

前回みたように、超能力の存在は、一般人による、「統計的な有意性」という範囲でしか、明白にはなりませんでした。しかし、それは、一般人を対象とした、科学的な方法という限定された方法で、明らかにされた範囲のことだからです。さらに言うと、そのような範囲にとどまるのは、近代人は、超能力のような現象を否定する文化的環境の中にいること、また、日常的に物質的な技術を頼るので、そのような能力を発揮する機会も必要性も少ないことが大きく影響しているというべきです。(前者については、実際に、超心理学的にも、「信じる」人の方が能力を発揮しやすいことが分かっています。)

それに対して、普遍的な文化、特に先住民の文化では、周りの環境は、普通に信じる人たちに取り囲まれているし、また、様々な生活上の危機や必要に対処するために、それを使う機会や必要性も多くあったということが大きいのです。

近代人においても、超能力を排除せず、一般に認められるようになれば、それを発揮する機会は、確実に増えることでしょう

前々回も触れたように、超能力を認めることは、たとえば、「呪い」のような、望ましくない方向での力の発現も認めることになります。近代人が恐れる意味での、「オカルト」そのもののような現象を、引き入れることになるということです。それが、ネックになるのは間違いないでしょうが、それさえ克服されれば、本当に、かなり劇的に、これらの現象を迎え入れることになると予想されるのです。

前回、多くの人の集合的な意思が、超能力の明白な発現を拒んでいる可能性について述べました。しかし、既にみたように、それは、しょせん、「近代人」という特殊な文化の中でのことです。人類の普遍的な文化は、既にずっと、そういうものを認めて来ているのです。だから、それが覆ることもまた、全体としてみれば、さほど困難なことではないはずです。

次回は、さらに進んで、「霊」について述べます。

posted by ティエム at 23:43| Comment(0) | 超能力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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