2018年10月20日

「霊」についての総合的考察 2

前回みたように、総合的に考察する限り、「超能力」のみならず、「霊」についても、十分認められることが分かります。しかし、現代の状況は、全体として、「霊」を認めることにはなっていません。

まず、その理由として、「表面的」なものをあげると、大きく、次の2つになると思います。

1 「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている。
2 多くの人は、「霊」というものを、現実的なものとして、捉える手立てがない。


「表面的」と言いましたが、決して「軽い」ということではなく、近代人にとっては、十分に「重い」理由です。ただし、その根底に潜む、真の理由が、より「重い」ということです。その理由こそ、ブログの初めに述べたように、「オカルト」的なものへの独特の嫌悪感であり、恐怖です。近代が、「魔女狩り」によって始まったと言えるほど、「オカルト」的なものを、排除しようという意思と、結びついていることは、既にみました。

「霊」というのも、「オカルト」的なものを象徴するといえるほど、それを代表する一つです。近代人にとって、それを認めることは、そもそも、心情的に難しいのです。それは、我々の無意識の奥底に、潜んでいるものなので、通常、自覚することはないでしょうが、強力に根を張っているのです。

この無意識的な意思が、強く作用している限り、たとえ、「表面的」なところで、十分の「論理的」な理由があったとしても、容易に、それを認めることはできないことになります。

ただし、そうは言っても、その無意識的な意思を克服するには、一種の「タブー意識」を排して、「表面的」なところからでも、それを正面から問題にして、考察することを積み重ねていくしか、ないのだと思います。

そこで、今回は、上にあげた、2つの理由について、検討します。

まずは、1の「「科学的」には、「霊」は認められない(あり得ない)という常識が、強く行き渡っている」について

既に、「科学的」なアプローチによって、「霊」の存在は、十分示唆されることをみました。だから、「霊」は、決して「科学的」に認められないのではないのです。まして、「あり得ない」などということは、ありません。

「霊」を否定するのは、「科学」そのものではなく、「(物質)科学的な方法によって、その存在を証明できるものだけが、存在し得るものである」という、「ものの見方」です。端的には、「物質的なものだけが存在する」という「唯物論」ということです。この見方による限り、「物質的なもの」ではなく、従って、物質科学的な方法で、直接捉えることのてきない「霊」などは、初めから、存在し得ないことになります。

「ものの見方」が「霊」を否定しているのであって、「科学」という方法そのものが、否定しているわけではないということです。

前に、「霊」も、物質的なものと完全に別ものなのではなく、物質的なものと結びつきながら、働いていることをみました。だから、その限りで、「科学的なアプローチ」は可能ではあるのですが、それは、直接、「霊」そのものを捉えるものではありません。(もし、「科学」で「霊」そのもののが捉えられるのであれば、それは「霊」ではなく、何らかの、「未だ解明されていない物質」の一種ということになります。)

ただ、そのようなアプローチの結果、間接的に、霊の存在を想定した方が、論理的に整合的になるということで、「示唆」されるということに過ぎません。「霊」については、恐らく、「証明」ということは、不可能と思われます。というより、どうすれば、「証明」したことになるかという共通の理解を得ることは、無理ということです。

「(物質)科学」は、「存在するもの」を、数学的、客観的な法則として捉えて来たので、多くの人に、共有することができ、しかも、その法則を、実際に、技術として応用することができます。この点で、「物質科学」は、多くの人に、共通の理解と利便をもたらし、人間を取り巻く、「存在するもの」が、人間によって、コントロール可能なものと思わせてくれました。だから、「存在するもの」のすべてが、「物質科学」によって捉えられると思うことには、大きな理由があります。

しかし、本来、そのような保証は、どこにもないものです。そのように望むのは、人間の側の都合であり、あるいは一種の思い上がりでしかないと言うべきです。

そして、実際に、そのような発想により、もともと、文化的に共通に認められていた「霊」なるものを、「存在するもの」から「排除」したのです。「霊」は、数学的、客観的な法則として捉えられるものではなく、曖昧なもので、何よりも、人間のコントロールが効かないと思われるものです。そのようなものは、科学が、「存在するもの」すべてを、説き明かしてくれることを期待する者にとっては、「邪魔もの」だったということです。

このようなことは、単に、一般の「常識」というだけでなく、「科学者」の考え方としても、当たり前のようにみられるものです。それを象徴するのが、そのような「科学的に捉えられないもの」を知覚したというときに、必ず持ち出される、「幻覚」という見方です。

前回、臨死体験の場合にも、科学者の主流は、「幻覚」とみなすことを述べました。

「幻覚」とみなす見方は、「科学的に捉えられない」すなわち、「一般的に共有できない」形の知覚がなされたとき、それがある脳の活動と結びついていることが判明すると、それは脳が生み出した「幻覚」とみなすものです。臨死体験の場合は、脳の活動が停止した状態でなされることがあるので、その「幻覚」とみる説すらも、成り立たなくなります。しかし、そうでなくとも、人間が生きている限り、ある知覚が、脳の活動と結びつくことは当たり前なので、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」の根拠となるものではありません

(逆に、脳の活動と結びつくことが「幻覚」の根拠となるなら、いわゆる「唯脳論」がいうように、すべての知覚は、脳が生み出した、「幻覚」の一種ということになるべきであり、それなら、一貫していると言えます。)

脳波活動のある場合の「臨死体験」や、臨死状態とは別に起こる、通常の「体外離脱」についても、脳の活動と結びついていることが、「幻覚」であることの根拠となるものではないということです。

この点は、「霊」なるものがあるとしたときに、「脳」とどのような関係にあるのかという問題となり、いわゆる「心脳問題」とも関わる、厄介な問題なので、いずれ改めて検討します。(「体外離脱」の場合については、次回にも、少し触れるつもりです。)

いずれにしても、「幻覚」とされることの根拠は、それが「科学的に捉えられない」ものについてであることであり、「一般に共有することのできない」ものであることの方なのです。初めから、「科学的に捉えられないもの」を「排除」する限りで、成り立つものの見方だということです。「結論」が既に「前提」として、先取りされているのであり、一種の「トートロジー」(循環論法)ということです。

このような見方は、「科学」の内部においても、かなり一般化されているのであり、それによってこそ、科学の「権威」が保たれているところがあるのです。

このように、「霊」なるものが、「科学的には認められない」とか「あり得ない」というのは、それ自体、一つの、かなり偏狭な「ものの見方」であり、本来、「科学」的な見方とは、とてもいえないものと言うべきです。

次回は、理由の2の点について、検討します。

posted by ティエム at 02:40| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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