ただ、最も基本的な部分での、見方というのは、一応理解するつもりなので、その線に沿って、前回みたような、時間・空間を超えた「移動」ということと、「相対性理論」との関係について、簡単な補足をしておきたいと思います。
「相対性理論」については、根本的に誤った理論である、という見方をする人もかなりあるようです(※)。しかし、私は、物質的なものと時間・空間の関係を明らかにした理論としては、基本的に正しいのではないかと思っています。実際、多くの実験的な事実は、この理論と符合します。
前回みたように、「光速度不変の原理」は、破られることがあるのですが、それは、「物質的な領域を超えた領域」にいたることで、起こるということでした。「物質的な領域を超えた領域」とは、「霊的な領域」ということでもあり、そこは、物質的なものと相関関係にある、「時間・空間を超えた領域」ということでもあります。
このような領域においては、物理法則を覆す現象が起きることは、当然と言え、それは、相対性理論に限らず、どのような理論においても、起こり得ることです。なので、そのことから、すぐさま、その理論そのものに欠陥があるということにはなりません。
問題は、何であれ、ある物理法則を、すべての領域に当てはまる、万能のものとみなしてしまうことです。つまり、すべての現象は、物質的な理論である物理法則によって解ける、という発想をしてしまうことです。それだと、その物理法則に当てはまらない現象が生じたとき、その現象を「ないもの」として葬り去るか、さもなくば、その物理理論が誤っているとみなすという、極端な選択をしなくてはならないことになるのです。
「相対性理論」について言うと、それは、むしろ、時間・空間の相対性を明らかにした点で、画期的な理論と言えると思います。ニュートンの古典物理学では、時間・空間は、絶対的な枠組みで、その中で、物理的な現象が起こるのでした。それでは、時間・空間が超えられるという発想そのものが、出て来にくく、そんなことは、受入れ難いこととなるでしょう。しかし、「相対性理論」が、時間・空間の「相対性」を明らかにしたことで、時間・空間が「絶対不動」のものではなく、超えられるという発想とも、結びつきやすいものとなったということが言えます。
ただ、「相対性理論」では、時間・空間ではなく、光(の速度)の方が「絶対的」な基準となったのです。時間・空間も、光の速度というものを一定にすべく、相対的に変化するということです。言わば、物質的なもの全体の基準となる枠組みは、時間・空間ではなく、光の方にあったということです。(と言っても、それが、顕在化するのは、物質の速度が光の速さに近づくときであって、通常の速度では、ニュートンの古典物理学が、近似的に当てはまります。)
これが意味するのは、物質的な領域にとって、光というものが、一種の「境界領域」にあるということだと思います。時間・空間を相対的ならしめる、光こそが、物質的領域の「ぎりぎり」の境界に、存在しており、それを超えた領域にいたると、時間・空間は、もはや、全体として超えられるということです。言い換えると、「物質的領域」を超えた「霊的領域」というのは、「光」を超えた領域なのであって、その結果として、時間・空間も超えられることになるということです。
「光を超える」とは、その速度を超えるということではなく、「存在」そのものとして、超えるということです。「速度」というのは、あくまで、空間・時間との関係で捉えられるものですから、その場合には、もはや「速度」という発想そのものが超えられることになります。
光とは、「電磁波」の一種であり、「光子」という「素粒子」でもあります。ですから、それは、「電磁波」という波動を超えるということであり、「素粒子」という物質を超えることでもあります。
「電磁波」というのは、電場と磁場の振幅が連続して伝わる、「見えない」波動エネルギーで、広く様々な情報を運ぶ媒体として利用されます。その在り方は、まさに、「霊的なもの」との境界領域を、よく示していると言えます。「電磁波」というのは、物質的な領域において、最も、霊的なものに類似する性質のものなのです。
ただし、電磁波も、物理的なものである以上、距離の二乗に反比例してエネルギーを減ずるなど、物理法則に従います。ところが、霊的なものとなると、電磁波と似た性質を持ちつつも、そのような物理法則には従わず、さらに自由度の高いものとなります。
また、「素粒子」というのは、微小ながら、一定の体積をもち、空間的な位置を占める、「物質」なのですが、「光子」の静止質量は「0」とされます。つまり、質量をもたない、物質としては、「ぎりきり」の存在とも言えるわけです。「霊」というのは、それを超えて、質量をもたないだけでなく、もはや、体積ももたず、特定の空間的な位置を占めることもない存在と言えます(ただし、みかけ上、そのように見えるということはあります)。
前回、KANという人が、そのような領域を「潜象界」(「現象界」の背後にある、具体的に形をなさない潜勢的な世界)と言っていることをみましたが、まさに「物質的な領域」を超えるとは、そのように、物質として顕現する以前の、潜勢的なものに帰すこととも解し得ます。そこから、エネルギー状態、または波動を落とすことで、再び、物質的なものとして顕現することも、可能と解されるのです。
このように、「霊的な領域」とは、物質的なものの境界にある、「光を超える」領域であり、そこに至ると、空間・時間も、結果として超えられるということです。前回みたように、「テレポーテーション」などの現象は、このようにして起こる現象で、「宇宙人」の移動方法というのも、やはり、このようなことを、何らかの技術によって、可能にしているものと解されるのです。
しかし、だからと言って、相対性理論そのものは、物質的な領域の内部では、「正しい」ことに変わりなく、それ自体に欠陥があるということにはならないということです。
ここで述べたことは、あくまで、「基本的なものの見方」を簡単に示したものに過ぎません。が、相対性理論というものを例にとって、物質的な領域と霊的な領域について、どのように捉えられるかということの、一つの分かりやすい例を示すことはできたと思います。
※ 「エーテル」の否定について
特に、相対性理論がエーテルを否定したという点について、疑義が唱えられることが多いようです。「エーテル」とは、真空中に充満すると想定される媒質で、光の波動を伝えるものとして要請されたものです。
しかし、この「エーテル」を物理的に確認することは、現在までのところ、できていません。私も、「エーテル」というものを、「物理的実体」として想定することは、無理なのではないかと思います。オカルトの方でも、「エーテル」の存在が言われますが、これは、東洋で「気」に相当するもので、「物理的な実体」ではありません。それが、真空中に充満していることは、確かと思われますが、直接光の波動を伝える役割をするようなものではないと思われます。(この意味の「エーテル」または「気」については、いずれまたとりあげます。)
ただし、この「エーテル」を否定することで、空間そのものの媒質性やエネルギー性に目が向けられることは、少なくなり、「量子論」との折り合いは、悪くなったのではないかと思われます。
本文で、「光が物質の基準となった」と言いましたが、物質と時間・空間は、相関的に結びついて存在しているという視点も重要と思います。時間・空間も、単なる「枠組み」ではなく、ある種の「物理的な実体」で、物質そのものと結びついて存在しているということです。そのような相関的な結びつきの中で、「光」という存在が、物質的領域のぎりきりの境界線上にあり、それを超えるということは、必然的に、それと結びついた時間・空間も超えるということになるのだと思います。
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