2019年05月31日

「オカルト」と「陰謀論」

記事『「明治維新」の捉え方の変化―「進化史観」』でも触れたように、「陰謀論」というのも、「オカルト」と同じような扱いを受けるのが、現代の状況です。「非理性的」「反理性的」で、「怪しく」「おどろおどろしいもの」としてのレッテルが貼られているのです。

実際、巷の陰謀論的なものには、根拠が薄く、飛躍的な論理で、ある出来事を、支配者である「誰々」の陰謀であるという、強引な結論に結びつけるものも多いです。あるいは、ユダヤ人など、特定の民族の陰謀に結びつけるものも多いです。感情的に、絶望感や無力感に陥らせたり、怒りや反感を煽って、扇動するようなものが多いということです

この傾向は、「この世的」な陰謀論というか、「オカルト」的なものや存在の影響を認めない、人間による単純な陰謀ということを説くものに顕著だと思います。というよりも、人間による単純な陰謀ということでは、どうしても論理に、飛躍や無理が出て来て、それが、ある種の「いかがわしさ」や「おどろおどろしさ」を醸し出してしまうことにもなるのです。

しかし、このような陰謀論というものが、単純に、「ウソ」「偽り」だけで成り立つはずがないのも、確かなことです。そこには、一定の「真実」が含まれているからこそ、長い間生き残り、また、多くの陰謀論が対置されることで、淘汰されて、ある程度真実でない部分が、削ぎ落とされたりもしています。少なくとも、現代の陰謀論として生き残っているようなものには、かつてほどの、強引な傾向や扇動的な傾向は、少なくなっていると感じます。

そもそも、ある支配的な層があるとして、その人たちが、何の「陰謀」や「企み」もなく、この世の執事に当たる、などということは考え難いことです。支配的な人たちも、「聖者」ではなく、自分たちの利益や権力を維持し、できるだけ自分たちの都合の良いように人々を動かしたいのですから、その方向での働きかけがあるのは、当然のことなのです。

ただ、巷の陰謀論は、一般の人には、人間として、倫理的にも、技術的にも、あまりに信じ難く、実現不可能と思われるような事柄を、断定的に「陰謀」として説くことから、不信を招いているということが言えます。

この点は、本当に、そのような「非人間的」なことを、平気でなすような人々もいるということを、一般の人たちは、なかなか認め難いということもあります。また、技術的な面も、一般に知らされ、表に出ている部分は、あまりに少ないということは、改めて押さえておかなければなりません。

しかし、実際、「この世的」な陰謀論というものでは、どうしても、無理や飛躍を来す面を拭い去れないことが、多いと思います。

実は「オカルト」と「陰謀」とは、分かち難く結びついているのであり、「オカルト」への注目抜きに、本当に「陰謀」を説くことは難しいと言うべきなのです。あるいは、「オカルト」と「陰謀」とは、本当に、「非人間的なもの」でこそ、結びついているということです。

「オカルト」とは、この世的なものの背後に働く「力」であることは、既にみて来ました。この世的には難しいと思われることでも、背後にある、「オカルト」的な領域から働きかけることによって、それがこの世的に実現しやすくなる、ということがあるのです。あるいは、そのような効果を期して、この世の人物が、オカルト的な力を頼って、陰謀を働くことが多くあるということです。直接、この世的に知れたものを「操作」するだけではなく、背後の「オカルト」的な領域から、この世的には知れない情報や力に基づいて、この世的なものを、「操作」するということです。

これは、一種の「魔術」であり、この観点からすると、「オカルト」とは、「陰謀」そのものです。隠れたところから、その「企み」または「諮り」という「思考」を、直接、実現しようとするものだからです。

そして、このような領域で力を発揮するのは、人間ではなく、元々の、霊的存在、または異次元的な存在、あるいは宇宙人的な存在です。「超能力」に関する記事でみたように、人間には、このような力があるとしても、かなり制限されたものです。ところが、このような存在は、元々、物質的な領域ではなく、オカルト的な領域に住んでいるので、そのような力こそが、通常の意思実現の方法なのです。つまり、「オカルト的-非人間的な存在」にとっては、「陰謀」こそが、意思実現の方法とも言えるのです。

ただし、それを、本当に、この世的な現象として実現させるには、人間の協力がある方が、威力を発揮します。人間では難しい部分を、「オカルト」的な存在が担うとしても、この世的に、現実になし得る行動は、人間がなすことの方が合理的です。そのような協力関係によって、真に、精度が高く、実現しやすい陰謀が可能となります。

ここで、「人間では難しい部分」とは、人間では通常知り得ないような、情報を得ることや、人間の世界を俯瞰しつつ、よいタイミングを計ること、また、技術的な面でも、宇宙人による高度の技術の提供を受けることなどです。

このように、(一見、人間的には信じ難いことがもっともである)陰謀というものは、オカルト的な領域との連携により、可能になるのです。言い換えれば、オカルト的な領域への注目なしには、本当には、陰謀には迫れないということです。

現在、オカルト的なものに十分注目しつつ、かなりの説得力をもって、陰謀を説き明かしている者に、デーヴィッド・アイクがいます。一面的な要素や、扇動的な面もあり、陰謀の背後にいるオカルト的な存在として、「レプティリアン」のような、特定の宇宙人のみをあげているのも、偏りがあるとは思います。

しかし、全体としてみる限り、概ね、「真実」を捉えているものと感じられます。アイクについては、改めてとり上げたいと思いますが、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『アイクの「陰謀論」など 』でもとり上げているので、参照ください。

人によっては、この世的な陰謀論以上に、背後に「オカルト」的な力を認める陰謀論の方が、より「おどろおどろし」く、絶望感や無力感も大きい、という人もいるでしょう。

しかし、それは、何度も述べたように、「オカルト的なもの」そのものに対する、イメージや嫌悪感が、大きく影響していると思います。「オカルト」そのものを、忌避せず、じっくりと学んで行けば、陰謀論的なものからもまた、多くを学べ、得るところが大きくあることが分かると思います。

アイクも言っているように、人間が、陰謀の支配する奴隷的な現実から脱するには、人間の霊的な本質を知り、その意識に目覚めることが必要です。現在の陰謀の多くが、人間の霊的な本質を覆い隠し、「物質的なものこそが存在するすべてである」という、唯物論的な発想を基盤にしているからです。

霊的な面を知る、または体験するのには、「闇」に彩られた、「オカルト」的な面こそ、入り口にならざるを得ないのは、何度か述べたように、必然的なところがあります。が、そこから入って、「霊的なもの」の本質に、より深く迫ることは、できることなのです。

陰謀論は、オカルト的なものと同様の、レッテルが貼られ、オカルト的なものと同様の、嫌悪感をもたらすということを述べました。これは、実は、多くの人が、「陰謀論」と「オカルト」には、(単に表面上、理性に反するように思えるということを超えて)通じ合うところがあることを、どこかで感じ取っているためと思われます。そして、その感覚は正しいと言うべきなのです(ネガディブな反応として現れているとは言え)。

そして、それは、「オカルト」の領域に踏み込もうとする限り、「陰謀論」もまた、無視できないものとして、見据えなければならないものであることを、物語ってもいるのです

posted by ティエム at 23:29| Comment(0) | 陰謀論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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