2019年11月11日

「霊界の境域」と「人格の分裂」

シュタイナーは、人が「境域の守護霊」に出会うのは、「霊界の境域」に入って、しばらく後、「人格」(思考・感情・意志)が分裂し始める頃だと言います。

そこで、「境域の守護霊」について述べる前に、「霊界の境域」における「人格の分裂」ということを、先に述べておきたいと思います。これは、それ自体、「霊界の境域」の危険性に関わる、重要な事柄であるし、「境域の守護霊」と関わる部分も多くあるからです。

ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、『「霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」』及び『シュタイナーの「精神病論」1』という記事で、これについて、かなり詳しく述べています。本当は、それを参照してもらえばいいのですが、あえてこちらでも、重要な事柄に触れておくことにしました。

「人格の分裂」ということからは、分裂病(統合失調症)のような「病的な状態」が連想されると思います。まさにこれは、それと関わっています。実際、シュタイナーが、これについて述べている部分は、シュタイナーの「分裂病論」としても読めます。

ただ、シュタイナーが言っているのは、(他の「霊界の境域」での現象と同じように)これは、一つの「越えるべき試練」として起こることで、全体として「成長」するための、必然的な過程だということです。

「霊界の境域」に入る以前、通常の人間は、「宇宙法則」により、自然と「人格」は統合されています。思考・感情・意志は、互いに結びつき、ある思考はある感情を導くというように、連動して働いています。また、思考・感情・意志のうちのどれかが、突出して働こうとしても、自然な結びつきが、バランスとして作用し、それを抑制することができます。

ところが、「霊界の境域」に入ると、この「思考・感情・意志の自然な結びつき」が外れることになります。思考・感情・意志は、互いに、ばらばらに分離するようになるということです。たとえば、ある思考が、自然にある感情を導くというようなこともなくなります。思考・感情・意志のどれかが突出して働くとき、他の要素が、それを抑制することもできにくくなります。

人は、大概、思考・感情・意志を全体としてバランス良く発達させている訳ではなく、どれかが突出しているものです。それで「人格の分裂」が起こると、その要素が、歯止めなく働いて、抑制が利かなくなります。それは、いかにも、「異常」で、偏った様相を帯びることになります。

たとえば、シュタイナーは、「意志」が突出している場合、意志は統御されぬまま突き進み、いかなる拘束も受けずに、行為から行為へと突っ走る、「暴力的人間」が生じるとします。同様に、「感情」が突出している場合、制御できない、様々な「感情的耽溺」を生みます。他人を崇拝する傾向を持った人は、限りなく依存性を強め、あるいは、妄信的な宗教的熱狂を生じます。また、「思考」が突出している場合には、日常生活を敵視する、自己閉鎖的な隠遁生活が生じます。そして、いたるところで、冷たい無感動な態度が現れるのです。

これは、要するに、はた目からみても、いかにも、狂気じみた、常軌を逸した行動をとるようになるということです。

しかし、このような「人格の分裂」が起こるのは、思考・感情・意志を、分離、独立させて、(通常の自我ではなく)新たに目覚める、より高次な自我が、それらを統合的に使用できるようになるためなのです。

それまでは、「宇宙法則」といわれる、自然に備わっていた要素(そこには、さまざまな霊的な存在の働きもあるのですが)によって、「統合」がなされていました。ところが、「霊界の境域」に入ると、それはあえて外され、その者自身の、新たに目覚める高次の自我によって、意識的に「統合」されなくてはならなくなる、ということです。その新たな「統合」のためには、それまでの「統合」は、一旦、外される必要があるのです。

しかし、その場合、新たな「統合」がうまく行かなければ、当然、その分裂した状態は、病的な様相を呈し続けることになります。それこそ、まさに「分裂病(統合失調症)」の状態ということです。

だから、シュタイナーは、「霊界の境域」に入るのは、そのような危険性を認識しつつ、修行によって、自我を鍛えたうえで、自覚的に行う必要があることを強調するのです。また、この場合、「霊界の境域」に入る前に、思考・感情・意志をバランス良く発達させておくことも、強調されます。 

ところが、現代では、多くの場合、そのような自覚的な方法によってではなく、「望まず」して、「霊界の境域」に入ってしまうことが多いので、「統合」に向かうことは、容易ではなく、病的な状態も、もたらされやすいのです。

さらに、既に述べたように、現代では、この「感覚的な世界」そのものが、大きく揺らいで、「霊界の境域」に近いものとなっているので、このようなことは、今後、多くの人が辿ることとなると予想されます。ですから、このような状態が、容易に克服できるものではないことは、認識しつつ、それなりの知識と知恵により、少しずつでも、越えて行けるようにしなければなりません。

(私自身、シュタイナーの言うような、「霊的な修行」をしていた訳ではなく、「霊界の境域」には、「望まず」して入ってしまうことになったものです。それで、(私は、意志タイプではなかったので、それほど目立たなかったですが)シュタイナーが述べているような、「病的状態」も多く体験し、通過しています。それは今思っても、本当にどうしようもないくらい、「狂気」じみたものでした。しかし、結果として、何とか、それを「くぐり抜け」、「越えて」行くことができたので、それは、シュタイナーが言うような、自覚的な修行に基づくものでない限り、絶対に越えられないというものではないことは、保証できます。

ただし、それは、シュタイナーが想定するような、「模範的」なものではあり得ないし、その場合に比して、不必要な混乱、苦悩も多く、結果としても、決して「十分」な「成長」をもたらすものではなかったと思われます。

しかし、今後に向けて、シュタイナー的な「模範的な道」を進める人は、わずかと思われるので(もちろん、それが最善ですが)、私のように、「望まず」して「霊界の境域」に入った場合にも、結果的に、何とか越えられるような、知識と知恵を身につけてもらうことは必要と思い、このようなことを述べています。)

「霊的なもの」への指向というと、多くの人は、「霊的なもの」や「存在」に依存し、頼るような方向に行くものと思うかもしれません。しかし、シュタイナーが述べているのは、逆に、徹底的に、「主体性」を高めて行く方向です。

むしろ、「霊界の境域」に入る前の状態の方が、自然に(無意識レベルで)「霊的存在」の保護や支援を受けていたので、「霊界の境域」に入るというのは、それらの保護や支援が外されるということです。それで、それらの保護や支援に代わるものを、自分自身で身につけて行かなくてはならなくなるのです。それは、それまでの生き方に比しても、全く、「主体的な生き方」を進める方向のものです。

だし、それを可能にするのは、それまでの「自我」ではなく、新たに目覚める「高次の自我」になります。そして、その「高次の自我」との関係で、「霊界の境域」に生まれるものこそが、次回に述べる、「境域の守護霊」なのです。

ただ、この「高次の自我」にしても、それまでの「自我」という基盤の上に生まれることかできるものです。従って、通常の「自我」の育成こそが、その前提として重要なことになるのは、改めて確認しておくべきです。

posted by ティエム at 22:46| Comment(0) | 霊界、霊界の境域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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