2018年07月10日

「オカルト」とは何でしょうか?

「オカルト」という言葉は、本来、「隠されたもの」という意味です。「表に現れないもの」ということでもあります。要は、現象の表面には現れないけれども、その現象を深く探っていくと、背後に見え隠れする、何らかの力といったものを意味すると言っていいでしょう。

本来、「オカルト」そのものには、決して、否定的な意味合いはないわけです。

しかし、現代では、通常この言葉は、否定的な意味合いで使われます。たとえば、「そんなのはオカルトだよ」と言う場合、それは、根拠が曖昧で、非合理的なものを、揶揄する意図で言われています。そんなものは、「論理的に存在し得ない」というわけです。あるいは、「おどろおどろし」くて、「受け入れ難い」ものを、言い表わすことがあります。通常は起こり得ないはずの、恐ろしい事柄といった意味合いです。

このように、「オカルト」とは、「論理」とか「常識」などとは反対の意味で使われているのです。その「論理」とか「常識」の背後にあるのは、通常「科学」でしょうから、端的には、「反科学」あるいは「非科学」の意味ともなります。

このように、「オカルト」がもたらす否定的な意味合いを理解するには、「科学とオカルトの関係」を、押さえておく必要があります。「科学」が、「論理的」「常識的」なものとして、肯定的にみられるのに相反して、「オカルト」が否定的なものとみられるのですから。

しかし、この「科学とオカルトの関係」は、近代以前の時代から、近代を経て、現代に至るまで、複雑な紆余曲折を重ねて、あるものです。

近代以前には、科学もオカルトも、「信仰」ということに導かれ、混然一体となっていました。ところが、近代に至って、合理的な思考に基づく、「科学」が台頭することで、その科学と相いれないものが、「オカルト」と呼ばれるようになったのです。「科学が選ばれた」ことで、「オカルトが捨てられた」ともいえます。それによって、「オカルト」の否定的な意味合いが、確かに固められたのです。

しかし、現代に至ると、その「科学」そのものへの不信から、「オカルト」的なものも復興した面があります。「科学」は、明るい未来を約束するものとして、「選ばれた」のですが、実際には、必ずしも、そうはなりませんでした。それで、逆に「オカルト的な力」ということの方に、期待が移ったという面もあるのです。

さらには、「科学」そのものの飛躍的な発展が、「オカルト」との区別を、かつてのようには、明確でないものにもしました。それは、我々の周りに、原理の理解しにくい、「魔術的」ともいえる、技術の発展をもたらし、また、「量子力学」などの、不可思議で、「オカルト」にも通じるような、理論も生み出したのです。

詳しくは、おいおい、ブログでみていくつもりですが、何しろ、現在は、「科学」と「オカルト」は、どちらが肯定的とか否定的とか、単純に割り切れるものではなくなっています。あるいは、何が「科学」で、何が「オカルト」かも、明確には定めにくいものになりつつあるのです。

それでも、「科学が肯定的なもの」で、「オカルトが否定的なもの」だというのは、現在の大方の人の見方であるのは、間違いないでしょう。しかし、事情によっては、それが逆転する可能性もないわけではないし、そもそも、科学とオカルトの区別すら、今後も維持されるかどうか分からないのです。

現在、「オカルト」が否定的な意味合いとなるのに、大きく影響していることとして、かつてのオウム真理教事件があります。オカルトにのめり込む人たちが、人の命をも軽視するような、重大な事件を起こし、「オカルトは危険」との認識が、広く行き渡ったのです。

しかし、そもそも、それだけ多くの、それも知的と言われる若い人たちが、「オカルト」の方にこそ、真実性をみて、突き進んでいったということは見逃せません。そして、現代でも、その傾向が、なくなったわけではありません。

現在でも、「科学」というものを、無条件に信奉するという人、「オカルト」など容れる余地は、微塵もないという人にとっては、オカルトなど問題とすること自体、無意味か、あるいは危険なことであるでしょう。

しかし、私は、現代は、改めて、「科学とオカルトの関係」を問い直し、「オカルト」そのものを見つめ直す必要がある時代になっていると考えます
posted by ティエム at 22:51| Comment(2) | オカルト全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする