2018年08月27日

「超能力」について 3

文化的な視点から

超能力については、科学的な視点のほかにも、文化的な視点から考察することが、重要と思います。というより、そもそも、「科学」という発想そのものが、「近代社会」という、特定の文化に生まれたものなので、広い意味では、文化的な視点の一つにほかならないのです。

科学には、特に、その一神教的な発想が強く影響しています。簡単に言うと、唯一の神によって作られた「宇宙」は、その神が設定した、唯一の数理的な法則によって統べられている、という発想です。この発想は、そこからはみ出るもの、つまり、あやふやなものだったり、明確な法則で捉えられないものは、極力排除しようとします。このような発想は、非常に狭く、排他的なものですが、それによってこそ、成功を収めた面もあるのは確かです。しかし、後にみるように、他の文化をみれば、何ら普遍的なものではなく、一つの、特殊な「文化」の見方に過ぎないことが分かります。

「科学」については、いずれまた、改めて考察することになりますが、何しろ、それだけで、超能力やその他の「オカルト的」な現象を判断することはできないということです。

そこで、「文化的な視点」ですが、それは、このような近代社会以外の文化において、超能力のような現象が、どのようにみられているかという視点です。

「近代社会以外の文化」とは、西洋または世界全般でいえば、近代以前の時代の文化ということになります。しかし、現在でも、それが生きている文化は、いくらもあります。日本の伝統文化もそうですし、特に、「先住民の文化」がそうです。

これらの文化においては、共通して、超能力のような現象は、当然のように認められていました(す)。超能力だけでなく、「霊的な存在」が広く認められ、人間の霊のほかにも、様々な「精霊」または「神々」といった存在が認められていた(いる)のです。認められていた(る)だけでなく、生活上において非常に重視した(する)のです

「超能力」というのも、近代人が解すように、「個人的な能力」というよりは、これらの「霊的な存在と交流する能力」、あるいは、「霊的な存在の力を自分を通して現す能力」という意味合いが強くなります。霊的な存在や神々との関係抜きには、あり得ない能力ということです。そのような能力は、一般の人も現すことがありますが、特にそれを現すのは、やはり、「シャーマン」あるいは「霊能者」という特別な者になります。そういった者が、逆に、これらの存在を「使役」するということもありますが、そうなると、それは、「呪術師」とか「妖術師」ということになります。

「魔女狩り」のところで述べたように、西洋の近代以前には、「魔女」が広く信じられていました。これは、一神教的な神への信仰が、これら伝統的な文化の「精霊」や「神々」を「悪魔」として貶めたために、それと結びつけられて、「魔女」という風に捉えられたのです。一神教的な変更を受けていますが、「魔女」も、一種の「呪術師」的な存在として、信じられ、恐れられていたのです。

それを「排除」するべく、「魔女狩り」が起こり、そこから、近代社会が出現したことは、既にみたとおりです。だから、近代社会は、出自そのものが、そのようなものの「排除」と結びついているのです。

何しろ、こういったことは、近代以前の文化としては、歴史的な記録を通して知るしかありません。しかし、現在においても、それが生きている、先住民文化などでは、人類学者などのフィールドワークを通して、多くのことを知ることができます。これらの文化では、超能力や霊的存在が、当然のように信じられているわけですが、研究者の中には、自ら、実際に、そのような現象を体験して、報告する者もいます。たとえば、シャーマンによる、「治療儀礼」などの儀式において、感染症のような病気が治るなどのことです。

『ミュータントメッセージ』という本は、「事実に基づいて書かれたフィクション」ということですが、アポリジニーの普通の人たちが、互いに離れたところでも、当たり前のようにテレバシーで意思を通じ合わせるところが、詳しく描かれています。これに近いことの報告は、他にもよくあります。

日本でも、アイヌ文化を踏み込んで研究した藤村和久は、アイヌの長老が、いつ誰それが来るとか、カラスの鳴き声を通して、誰それが死んだとか、天気がどうなるなどのことを的確に当てることを、驚きとともに報告しています(『アイヌの霊の世界』小学館)。カルロス・カスタネダの「ドンファンシリーズ」を知っている人は、メキシコのシャーマンであるドンファンが、やはりカラスの鳴き声を通して、同意や前兆を受け取っていたのと、似ているのが分かるでしょう。

これらは、ほんの一例に過ぎませんが、もちろん、厳密な科学的方法によって、明らかにされたものではありません。しかし、これらの文化が、普遍的に、共通して、しかも、非常に長い間にわたって、このような現象や存在を身近に信じ、文化の中心にして、生きて来たことは、驚くべきことというべきです。それに比べれば、西洋の近代とは、わずか200年余りの最近の出来事によって生じたのに過ぎず、実績もあまりに短いものです。しかも、それは、既に、綻びをみせています。そのような近代社会とは、人類の文化全体の中では、むしろ「異端」というほかありません。

西洋近代の方では、それらの文化を、迷信であり、科学的な知識がないために、怖れから、信じたに過ぎないものとみなします。しかし、たかだか200年余りの文化が、それだけ長く続いた、普遍的な文化に対して、そんなことを言えるはずがないでしょう。それが本当だとすれば、人類は、ずっと長い間、誤った迷信を信じて生きて来たのが、ここ200年の近代人が、ぽっと出てきて、突然それを覆し、唯一、「真実」を生きるようになった、ということになります。しかし、そんなことは、とても信じ難いことです。

何も、長く続いているから、普遍的だから「真実」で、異端だから「間違い」だということではありません。しかし、少なくとも、普遍的な文化が、そのように信じることで、長い間、生を全うして来たなら、そこには何らかの真実が含まれているはずだ、という風に考えるのが、当然のことなのではないでしょうか。

再び、超能力を認めることの意義

ここで問われているのは、何も、近代社会の「すべて」ということではありません。問題なのは、初めに少し述べたように、近代の排他的な見方である、「科学によって全てを捉えることができる」という発想なのです。普遍的な文化は、「科学」によっては捉えられない領域というものを信じ、そちらこそを重視して来た文化といえます。だから、このような見方をする限り、これらの普遍的な文化を、入れる余地はありません。まさに、「排除」するしかないのです。

そのような普遍的な文化と、「融和」があり得るとすれば、頑なな「排除」は止めて、「科学によっては捉えられない領域」もあり得ることを、認めるしかないことになります。しかし、それは、近代社会にとっては、そのあり方自体についての、根本的な変革を迫るものとなるのは事実です。そもそも、近代社会とは、そのようなものを「排除」することでこそ、成り立ってきた文化なのですから。

しかし、前回みたように、近代社会の側の、科学という方法によっても、超能力の存在が、「統計的な有意性」という範囲であれ、明らかにされているのです。このことは、これらの文化の信じて来たことを、見直すだけの根拠も十分与えているというべきです。超能力は、科学との接点を持つが故に、そのようなことが明らかにできたといえます。そのことがもたらす意義は、とても大きく、それは、これらの文化の普遍的に信じる、「霊的なもの一般」へと目を向けさせる契機にもなるはずのものです。

超能力は、脳または身体を持つ、生きた者が発揮する能力ですが、それは、意識が、脳や身体など物質的なものを超えて、作用することがあることを、物語っています。超能力は、「電磁波」の作用によって起こるという見方もありましたが、電磁波を通さない条件でも成功した実験は多くあり、また距離に影響を受けないこと、意志により選択的に働くことなどからも、もはや無理なものとなっています。

従って、超能力は、それが認められるなら、脳や身体から独立して働く「魂」のような存在を、少なくとも示唆することにはなります。そして、それを広げれば、「霊的な存在」一般の存在をも示唆するものとなり得ます。これらのことは、結局、普遍的な文化が信じて来たことと通じることになるのです。

前回みたように、超能力の存在は、一般人による、「統計的な有意性」という範囲でしか、明白にはなりませんでした。しかし、それは、一般人を対象とした、科学的な方法という限定された方法で、明らかにされた範囲のことだからです。さらに言うと、そのような範囲にとどまるのは、近代人は、超能力のような現象を否定する文化的環境の中にいること、また、日常的に物質的な技術を頼るので、そのような能力を発揮する機会も必要性も少ないことが大きく影響しているというべきです。(前者については、実際に、超心理学的にも、「信じる」人の方が能力を発揮しやすいことが分かっています。)

それに対して、普遍的な文化、特に先住民の文化では、周りの環境は、普通に信じる人たちに取り囲まれているし、また、様々な生活上の危機や必要に対処するために、それを使う機会や必要性も多くあったということが大きいのです。

近代人においても、超能力を排除せず、一般に認められるようになれば、それを発揮する機会は、確実に増えることでしょう

前々回も触れたように、超能力を認めることは、たとえば、「呪い」のような、望ましくない方向での力の発現も認めることになります。近代人が恐れる意味での、「オカルト」そのもののような現象を、引き入れることになるということです。それが、ネックになるのは間違いないでしょうが、それさえ克服されれば、本当に、かなり劇的に、これらの現象を迎え入れることになると予想されるのです。

前回、多くの人の集合的な意思が、超能力の明白な発現を拒んでいる可能性について述べました。しかし、既にみたように、それは、しょせん、「近代人」という特殊な文化の中でのことです。人類の普遍的な文化は、既にずっと、そういうものを認めて来ているのです。だから、それが覆ることもまた、全体としてみれば、さほど困難なことではないはずです。

次回は、さらに進んで、「霊」について述べます。

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2018年08月16日

「超能力」について 2

超能力は存在するのか-科学の視点から

超心理学による所見

それでは、超能力が実際に存在するのかどうか、みてみます。

「存在するかどうか」と言っても、厳密にそれをしようとすると、その前提として、「存在する」とはどういうことかということ自体が、問題となってきます。「科学的に存在することが証明できること」のみが、「存在する」ものであるなどとは言えないのです。とはいえ、これは、形而上的な問題であり、容易な問題ではありません。

しかし、「超能力」は、前回みたように、物質的な現われをする限り、「科学」と接点のあるものです。私も、「科学」は、「物質的なもの」の領域について、多くの者に共有できる形で、客観的に知識をもたらす、有力な方法と思います。そこで、まずは、「科学」の視点から、みてみることにします。

現に、超能力を実験的な手法に基づいて、科学的に研究する学問はあります。それは、「超心理学」(パラサイコロジー)と呼ばれています。日本では、少ないですが、外国には、大学に講座を持つところも多く、専門の教授も多くいます。

この「超心理学」について、一般向けの分かりやすい解説書としては、宮城音弥著『超能力の世界』(岩波新書)、笠原敏雄著『超心理学読本』(講談社+α文庫)があります。いずれも、絶版ですが、古本では、比較的手に入れやすいようです。最近のものでは、石川幹人著『超常現象を本気で科学する』(新潮新書)があります。同著者の、超心理学を概観したものがネット上にもあります。(http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/ )研究者の現状を取材した読み物としては、NHK取材班著『超常現象 科学者たちの挑戦』(新潮文庫)があります。興味のある人は、是非、どれかをお読みください。

超能力というものは、「意識」の起こす、通常の物理的手法によらない、「特別の」現象なので、その現れは、かなり気まぐれで、必ずしも、「再現的」なものではありません。また、人間の「能力」である以上、様々な条件にも左右されます。それで、超心理学においても、(物質的な科学と同じような意味で)疑いのない、明白な結論というものが、提出できたわけではありません。

ただ、現在のところ、多くの研究が明らかにする、一定の確からしい結論というのを、あげることはできます。

それは、「一般人を対象とする実験的な研究を繰り返し行ったところ、それがなければ偶然では起こり得ないような、「統計的な有意性」という範囲で、超能力があること自体は、証明された」というものです。「証明された」という点については、様々な疑義もあり得ますが、少なくとも、「十分示唆される」という程度の確からしさは、認められたと言っていいでしょう。

「一般人を対象とする」というのは、初め、超能力研究は、特別の「能力者」を研究対象にしたのですが、能力者は、実験的な環境では、必ずしも、好成績を出せず、また、出したとしても、トリックの疑いを排除できず、研究に馴染まないとみなされたのです。それで、現象そのものは、大きな現われが見込めませんが、研究対象にしやすい、一般人に目が向けられ、繰り返し実験を行って、統計的な処理を施し、統計的な有意性を判断することによって、その現象の現れを「客観的に」捉える方法がとられるようになりました。

この方法により、研究の一般性や客観性は、もたらすことができたのですが、しかし、この方法では、「証明」が間接的であり、これで本当に、「超能力がある」と多くの人が 納得できるかというと、やはり難しいことでしょう。また、たとえ「ある」としても、「統計的に明らかになる程度の能力が、何の役に立つのか」という疑問も生じることでしょう。

このようなことは、仕方のないことで、これは、「超能力の存在を科学的に明らかにしようとする」ことそのものに伴う限界であろうと、私は思います。

むしろ、超能力の存在を、誰にも明らかなように、客観的な方法で明らかにしようとしたことで、「一般人による統計的有意性の範囲」でしか、明らかにできなかったというのが本当のところと思います。実際に、超能力が、このような範囲のものに過ぎないのかというと、そんなことはないということです。

何しろ、超心理学は、「超能力がある」ということの「証明」に関しては、この程度のもので満足せざるを得ず、現在は、それがあることを一応認めたうえで、その能力にどのような性質があり、どのような条件のもとに現れやすいのか、どのような原理で発現するのかなどを研究しています。それには、一定の興味深い積み重ねがあります。

しかし、一般の人には、それがまた、「科学」ではなく、「オカルト」的な研究に深入りしているとの印象をもたらすことにもなるでしょう。

超能力者による科学的証明は可能か

ただ、私は、科学的視点からも、超能力をもっと明白に証明する手段がないとは思いません。それは、やはり、少なくとも、「統計的な有意性」という範囲を超えて、超能力を頻繁に発現できる、「特別な能力者」を研究対象とすることです。このような能力者を、研究対象として確保することは難しく、先に述べたように、実験に馴染まない要素が多くあることも確かでしょう。しかし、本当に、一般の人にも納得されるような形で、超能力が証明されるということがあるとすれば、それしかないと思います。

ただ、これが難しいのは、他の要素も多くあります。

まず、前回みたように、「オカルト的なもの」に対する排除の発想がある限り、このような実験が公正になされ、公正に評価されることは難しい、ということがあります。

前回も触れましたが、明治期の「千里眼事件」は、それを象徴する事件といえます。長尾郁子という透視能力と念写能力を現した人物の公開実験では、実験を設定した否定派の学者により、ターゲットが抜き取られる(本人の弁では、過失により入れ忘れる)という事件が起き、長尾がそのことを透視により指摘するということがありました。それで、実験そのものが中止されてしまったのですが、その学者は、記者会見で、確かな根拠とは言い難い理由で、長尾の能力はトリックによる詐欺であると、強く批難しました。

初め、透視能力の存在をセンセーショナルに宣伝していた新聞も、これを機に、トリックによるものとして能力を否定し、このような実験そのものが科学に反し、迷信を助長するものだと訴えるものが増えて来ます。その前に、かなり緩やかな条件とはいえ、一応実験を「成功」されていた三船千鶴子の透視能力も、否定的にみられるようになり、様々なバッシングを受けるようになりました。それが原因かどうか不明ですが、三船は自殺し、長尾も病気のため死んで、実験はできなくなり、東大の福来友吉も、大学を追われることになりました。結局、超能力があるかどうかについては、うやむやになり、そして、以後、このような研究をすること自体が、難しくなってしまいます。

この事件については、正確なところは現在では分かりにくくなっていますが、大まかな流れはこのとおりです(一柳廣孝著『<こっくりさん>と<千里眼>』講談社選書メチエ 参照)。やはり、「オカルト」的なものを排除しようという意思が、強力に働いたとしか言いようがありません。また、それは、直接には、否定派の学者や新聞の影響が大きいですが、総体的にみると、当時の、多くの者の総意によるといえる面も多分にあると思われます。つまり、多くの者が、この能力について、強い関心を示したものの、いざはっきりと白黒つけるとなると、それを望まず、拒否したという面があるということです。初めは、興味本位で面白がっていたとしても、ある線を超えると、恐怖にかられ、それを本当に「現実」として認めることは、拒否したのです。

そして、これに似たことは、その後の、超能力少年の事件や超能力ブームなどをみても、何度も繰り返されていると言わざるを得ません。

ただし、超能力者の実験が、否定派も疑いなく納得できるような形で、はっきりと示されることがないのは、否定派やそれを拒む者だけの問題ではありません。能力者自身も、緩やかな条件だったり、好意的、肯定的な者の設定した実験であれば、「成功」しても、否定派の納得するような、本当に厳密な条件を設定されると、その能力を如実に示すことがないということも確かにあるのです。

オウム事件など種々の社会問題を鋭く追究するジャーナリスト森達也は、超能力についても鋭い追究をしています。そして、『オカルト』(角川文庫)という本では、オカルトが示唆的には現れても、多くの者の見守る、疑いようもなく明白な形では現れにくいことを問題とし、「オカルトそのものが、見え隠れしつつ、表に明白に現れることを拒否する、意思を有している」ようだと評しています。

これは、能力者が能力を現せないことの、言い訳として利用される可能性もありますが、私も、そのとおりと思います。まさに、正面にはっきりと現れず、見え隠れするからこそ、「オカルト」とも言えるのです。それでこそ、「オカルト」としての陰影や、深みを残すということです。正面にはっきりと現れるようであれば、それは、考えるまでもなく、ただ受け入れるしかない、単なる「事実」の「押しつけ」に過ぎないとも言えるでしょう。

しかし、同時に、これは、能力者を含めて、多くの者の、受け入れ態勢ができていないことによる影響も大きいと思います。現在のところ、「オカルト的なもの」が、有無を言わさず、疑いもなく、明白に現れ出ることを、多くの者が望んでおらず、そのことの影響を、能力(能力者)自身も受けているということです。

超心理学でも、個人的な意思より、多くの者の集合的な意思が重なった場合の方が、現象として生起しやすいことが分かっています。NHKの超常現象に関するドキュメンタリーでもとりあげられた、「地球意識プロジェクト」では、多くの者が同時的に精神的に高揚したときに、乱数発生器に有意に乱れが生じることを明らかにしていました。

それと同じように、「オカルト的なもの」の明白な現れも、多くの者の集合的な意思の影響を受ける可能性があるということです。

空海は、「密教」には「如来秘密」(如来自身が設定した秘密)と「衆生秘密」(衆生の理解が及ばないため生じている秘密)があると言いましたが、この現象にも、似たような、両面の「秘密」が働いているようです。先にみた、現象自体の意思ともいえるものが、「如来秘密」に相当し、後者の、多くの者の意思が「衆生秘密」に相当します。

恐らくですが、多くの者が、本当に受け入れる準備ができたなら、この現象は割と素直に正面に現れるのではないかと予想されるのです。

ただし、もう一つ、ネックになるのが、「トリック」ということの評価の難しさでしょう。「千里眼事件」でも、トリックという批難が強く出されましたし、これは、超能力実験にはつきものです。マジックというものも、現在は相当に進化し、一見超能力としか思えないようなものもよくあります。そこで、マジシャンが、「超能力はトリックでてきる」ということもよく主張されます。ところが、マジシャンが職業上の秘密であるそれを、具体的に明らかにすることはないので、一般人としては、判断が難しく、そのマジシャンの言を信用するかどうかということになります。また、実験において、そのトリックの可能性を一般的に排除する設定を標準化するというようなことも、難しいことでしょう。

しかし、たとえ、トリックでできるとしても、その実験において本当にそれが行われたのかどうかは別問題で、それによって、超能力が否定できるということではないのはもちろんです。いずれにしても、大変な問題であることに変わりありません。

それにしても、私は、いずれそう遠くないうちに、これらは克服され、超能力の存在を、実験的に明白に明らかにすることは可能と踏んでいます。ただし、そのためには、能力者の側も、研究者の側も、否定論者も、我々一般の人も、相当に経験を重ね、精神的に成長する必要があると思われます。
posted by ティエム at 00:33| Comment(0) | 超能力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月07日

「超能力」について 1

超能力」とは何か 

現代の科学的理論に反する「オカルト的現象」として、最も身近な現象は、「超能力」だと思います。今回は、これについてとりあげます。

「超能力」は大まかに、物理的手段によらずに、何らかの情報を受け取る「ESP」(超感覚的知覚)と、物理的手段によらずに、外界に何らかの現象を起こす「PK」(サイコキネシス)に分かれます。

「力」を「受ける」方と「出す」方という分け方も、できるかと思います。かつてテレビで、『ナイトヘッド』という、超能力を持った兄弟を主題としたドラマがありました。それを知っている人は、兄の直人が「出す方」を得意とし、弟の直也が「受ける」方を得意としていたことが、分かると思います。

「ESP」は、他人の思考や感情を読み取る「テレパシー」や、外界に関する何らかの情報を読み取る「透視」が典型的です。行方不明の人を探す「超能力捜査」というのが、テレビなどでもよく披露されますが、これは「透視」の例です。「PK」は、ショー的要素が強いですが、思念の力でスプーンなどの物体を変形させる、「スプーン曲げ」が典型的です。これは、かつてテレビで実演して、大きな話題となった、ユリ・ゲラーが広げたものです。

超能力については、「特別な人が示す特別な力」という見方も、根強くあります。しかし、実際には、後にみるように、(少なくとも潜在的には)誰にもあるというべきものです。たとえば、誰かのことをふと考えたら、ちょうどその人から電話がかかって来たとか、誰かが言う言葉が、予めかなり明確に分かってしまったという経験は、誰にもあることと思います。

あるいは、マージャンなどの賭け事や、スポーツなどの競技で、調子がいいときには、とても偶然とは思えない幸運が続くときがあります。そのようなときも、一種の超能力が働いているとしか思えないことがあります。

ただ、超能力は、現代では、科学的な理論に反する「あり得ない」ことか、あるいは、あっても、「まれで特別な現象」と思われているのが一般的です。それで、そのような方向で受け取られることはめったになく、ただの偶然だろうとして済まされたり、一瞬、不思議なことと思われても、特に注目されることもなく、忘れ去られることが多いでしょう。

そのように、超能力に対する見方が影響して、現代では、まだあまり一般的ではないですが、超能力に対する見方が変われば、もっと本格的に、「誰にもある身近なもの」と認識される可能性があります。

とりあげる意義

いずれにしても、「超能力」が、「オカルト」と呼ばれる領域の中では、最も身近で、親しみやすいものであるのは確かでしょう。

しかし、その「身近さ」「親しみやすさ」に反して、超能力が実際に存在するとなると、そのことが意味することを、真剣に考える限り、それは、「オカルト」全般にも関わる、重大な意味合いを帯びてきます。その意味でも、「オカルトの基本」として、まずとりあげるのに、ふさわしいものです。

まずそれは、「科学との関係」を、見直さざるを得なくします。超能力が現代の科学的理論に反するというのは、本当です。少なくとも、物質的な現象全般について、現在まで築き上げられて来た科学的理論では、説明できないのです。この科学的理論で、すべての現象が説明できるという立場をとる限り、超能力は「あり得ない」ことになります。

しかし、超能力があるということになると、逆に、現代の科学的理論の方が見直されなくてはならないことになります。それが見直されるということは、それに反するということで、これまで一蹴されていた、オカルト全般についても、大きな意味をもたらします。

超能力は、「霊」などとは異なり、現に生きている人間の能力であり、物質的なレベルで、その発現を確認することができ得るものです。つまり、科学と、少なくとも「接点」をもつものではあります。この点からも、特にとりあげる意味があります。

次に、現代の社会生活上の制度は、超能力がないことを前提にできあがっていますから、超能力があるということになると、さまざまな矛盾や問題が浮上します

一つの例で言うと、透視やテレパシーがあるとすると、我々の個人的な生活が、他の者に知られることがないという、プライバシーの発想は、大きく揺らぐことになります。我々の生活だけでなく、そもそも、我々の脳または心の内部の思考すら、知られ得るということになるからです。

さらに、『私の体験から』という記事でもみた、「精神的な病」に関わるものもあります。精神的な病とされる、統合失調状態では、自分の考えが、「つつぬけている」とか、「さとられる」と訴える現象がよく起きます。これは、当然のように、「病気の症状」とされますが、テレパシーがあるとすると、一概にそうとは言えなくなります。実際に、テレパシーによって起こっている現象なのかどうかということが、問題となって来るのです。

また、様々な「妄想」にも同じことが言えます。統合失調状態では、かなり突飛な妄想が、確信されることがありますが、これも、超能力があるとなると、一概に「妄想」とは決めつけられなくなります。

こういった問題は、外界に影響を与えるPKになると、さらに強く現れます。たとえば、法律では、誰かを思念の力で阻害する、「呪い」などというものはないことになっています。たとえ、それを行って、本当に危害を及ぼしたとしても、罰されることはありません。しかし、PKがあるとすると、現実に、そういうことは、あり得ることになります。

前々回の記事で「魔女」についてみましたが、現代でも、人に不幸をもたらす「魔女」を、現実に恐れる理由は、あるということになります。つまり、かつての「魔女狩り」の再燃ということも、十分あり得ることになるのです。

もちろん、超能力があるとしても、その程度はどの程度のものか、わずかなものかもしれない、という問題はあります。しかし、原理的にあるということであれば、その程度も、初めから、制限されるとしなければならない理由はありません。

超能力には、病気を治すとか、煩わしい技術によらずに、自由に物質的なものを操るなど、様々に、「明るい」可能性をみることもできます。しかし、「魔女狩り」についてみたように、近代前後には、「オカルト」的なものに対する恐れが、異様に拡大しているのです。超能力についても、このような恐れの面からみられる可能性の方が優ると、十分予想されます。その点から言っても、、「オカルト的なもの」全般への波及をもたらさざるを得ないということです。

さらに、超能力は人間の「意識」がもたらす力とすれば、ことは、「科学」とか「制度」など、外面的なことだけではすまされません。生き方とか思想など、内面的な面においてこそ、大きな影響をもたらすはずです。それは、近代以降に、培われた生き方や思想を、根本的に変えてしまう可能性があるのです。

これら、超能力を問う意義として、ここにざっとみたことは、ほんの一例に過ぎず、また、個々の例に述べたことも、ほんの概要にしか過ぎません。次回、超能力が、実際に存在するのかどうかをみた後、再び、これらのことを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
posted by ティエム at 22:53| Comment(5) | 超能力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする