2020年04月10日

「捕食者」という捉え方 1-経緯

前回、「悪魔」という捉え方は、問題が多いことをみました。何しろ、「悪魔」というのは、人間の側からみて、「邪悪な存在」、「敵対する存在」ということで、観念的に押しつける面の強いものです。それは、その存在そのものの実質を、必ずしも、明かにするものではありません。

私も、初め、その強烈な攻撃性と、とても敵わないと思われる力、醸し出す雰囲気などから、この存在を、「悪魔」とみなさざるを得ませんでした。しかし、しばらく接するうちに、それは、(そうしたければできるはずなのに)必ずしも、私を殺そうとか、人間をなきものにしようとか、しているようには思えませんでした。

そして、この存在を、ほとんど常に、身近にする状況になったのですが、この存在は、私が、恐怖を感じているときは、非常に活気づきます。ところが、あるとき、私が恐怖をあまり感じないでいたとき、目に見えて、勢いを失っていくことを体感しました。それで、この存在は、こちらが恐怖によって、何らかのエネルギーを供給しない限り、それほど恐ろしいという訳ではないということに気づきました。

その後、この存在との関わり方も、それほど恐怖に満ちたものではなく、どこかに余裕ができ、大きく変わりました。(もちろん、なめられるような存在ではないし、その後、「境域の守護霊」の方が恐くなるなど、いろいろ紆余曲折はあります。)

私は、このようなことから、この存在は、どうも、「悪なる存在」というよりも、「恐怖を活力源にする」ということの方が、実質をよく表していると思うようになりました。

その後、前から、前著を読んでいて、自分の体験とも大きく重なる部分があると興味深く思っていた、カルロス・カスタネダの本で、『無限の本質』(二見書房)というのが出ました。これは、前著では触れられていなかった、「捕食者」という存在について、正面から説き起こしている、画期的なものでした。それは、私の接した、悪魔的な存在とも、見事に符合するものだったので、強い衝撃を受けました。

このような存在について、悪魔というのとは別の観点から、これだけ詳しく説いていたものがあったということ。しかも、それは、もともと興味深く思っていた、カスタネダの師ドンファンのものだということも、驚きでした。

この存在については、次回、その実質をより詳しくみますが、簡単に言うと、我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食糧源にしている存在です(以下「彼ら」と言います)。

「捕食者」というのは、我々が、他の動物に対して「捕食者」の位置に立つように、人間に対して、「捕食者」の位置に立つということです。これは、キリスト教の発想の影響が強いのですが、我々人間は、他の動物に対して、食物連鎖の頂点に立つ存在のように思って来ました。そうすると、違和感が強いと思いますが、実際には、そうではなく(というか、まともに考えれば、そうであるはずがないのですが)、我々の上にも、捕食者の位置に立つ存在がいるということです。

ただし、この捕食関係は、物理的な成分だけについて言うのではなく、霊的(エーテル的)な「エネルギー」(要するに、既にみた「気」と思えばいいです)も含んだものです。

また、「捕食」と言いますが、実際には、彼らは、人間を、社会システムや信念体系を通じて、管理、飼育しているに等しく、むしろ「牧畜」と言った方が適確です。社会の直接の支配は、人間の支配層によってなされるとしても、その背後には、この存在の働きかけがあるということです。

ただ、人間が、牧畜を主としつつも、ときに野生動物を捕食することがあるように、この存在によっても、人によって(特にその飼育システムから外れる者)は、「捕食」そのものののような対象になります。

(「うつ」というのが、彼らに、飼育システムの中で、がんじがらめにされ、搾取される結果だとしたら、「統合失調」というのは、まさにそのように、飼育システムから外れる者への、特別の攻撃的な搾取の結果と言えます。)

先に、彼らは、人間を直接殺そうとか、なきものにしようとかしているようには思えないことを述べました。それは、要するに、人間は、彼らの食糧源だからです。彼らも、食糧源を、失ってしまうことは望まないのです。まさに、細胞に寄生するウイルスと同じようにです。

ただし、それは、人間から、「恐怖」や「不安」などの感情エネルギーを、徹底的に絞り取るためにこそ、生かすことを意味します。そして、そのために、冷徹かつ戦略的に、徹底して、働きかけます。私と接した存在も、直接的に、分かり易い攻撃を仕掛けるというよりは、とにかく、じわじわじわじわと、精神的に痛めつけるような言葉を発したり、意図の分かりにくい、曖昧な振る舞いや現象を演出し、恐怖を膨らませようとします。それが、途切れることなく、延々と続くのです。

これは、個人レベルのものですが、それを、人間の飼育のため、社会レベルで行うとき、彼らにとって都合のよい、人間をがんじがらめにする、社会システムを導くのです。恐怖や不安に動機づけられた、また、人間の本質を大きく制限する、常識や信念体系を与え、それを社会に行き渡らせることを通じてです。現代の高度産業社会のシステム、またその基礎にある、唯物論的、機械論的な信念などは、その最たるものです。また、現在みられる、コロナウイルスによる「パンデミック」の演出も、そうと言うべきものです。

こうみると、彼らは、シュタイナーの言う悪魔的存在、「アーリマン存在」と重なるところがあることに気づくと思います。

実際にそうで、私も、まず、自分が接した存在について、シュタイナーのいう、「アーリマン存在」こそが、見事に、適確に捉えていると思いました。「アーリマン存在」というのは、二系統の悪魔的存在として、一方の「ルシファー存在」との対比で捉えられたもので、人間を機械的、物質的な方向に導く存在という面が強調されます。

これだけからは、「捕食者」という面は、あまり表に出ないですが、シュタイナーも、アーリマン存在は、人間の中の、ルシファー的な性向から発する情念を「刈り取る」と言っており、実質、「捕食者」的性質があることになります。つまり、一見、異なる捉え方のようにみえて、実際には、かなり重なる部分があるのです。

しかし、私は、「捕食者」という捉え方は、「アーリマン存在」という以上に、実質を捉えている部分が多いと思います。何よりも、それは、人間の側の「善悪」の観念を離れた、客観的な見方を可能にします。さらに、「捕食者」という捉え方は、食物連鎖において人間の上に立つ存在を認めることで、逆に、人間の動物に対する関係を、改めて顧みさせる効果があります。

人間が、彼らを「悪魔」というなら、動物にとって、人間も「悪魔」にほかならないことになるでしょう。そのような生命の全体的な関係を、改めて見直す視点も提供するということです。

このようなことから、私は、彼らについては、「アーリマン存在」という見方も、受け入れつつ、「捕食者」という捉え方をすることにしています。

当時は、このような捉え方は、非常に異質だった感がありますが、最近は、割といろんなところで目にするようになりました。

たとえば、「レプティリアン」などの「ネガティブ系宇宙人」についても、人間に対する、捕食者的な支配者という観点から説明するチャネリングものも、よくみかけます。バーバラ・マーシニアックの『プレアデス+かく語りき』などは、その代表です。さらに、何度か触れた、デーヴィッド・アイクも、特に最近は、このような存在を、「捕食者」的なものとして捉える視点が、強まっています。

我々自身が、「善悪」の観念に捕らわれず、それを「卒業」することによって、このようなことが見えてくる要素が強いので、まさに、最近は、そのようなことが要請される時代になっているということも感じます。

そういうわけで、今回は、私が、彼らを、「捕食者」として捉えるようになった経緯と、理由を中心に述べました。なお、『狂気をくぐり抜ける』の方では、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』が、アーリマン存在との対比について、また、記事『「捕食者」という理由』が、捕食者と呼ぶ理由についてまとめて述べていますので、そちらも参照ください。

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2020年03月25日

「悪魔」という捉え方の問題

記事『様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」 』で、物質的身体をもたない、霊的な存在には、人間以外にも多くの存在がいること。そして、その中には、当然「悪」なる存在もいることをみました。また、それらは、物質的な次元とは、次元を異にする、「宇宙人」として捉えることも可能であることをみました。最近では、「レプティリアン」とか「オリオン人」といわれる存在が、これに当たります。

これらは、現実に、我々の世界に強く働きかけているからこそ、問題にする意味があるので、単に抽象的に存在するか否かなどと論じることに、意味があるわけではありません。

特に、現代の状況は、このような存在による影響が、かつてないほど強まっている時代と言えます。このことは、様々な方面で言われますが、度々とりあげるシュタイナーも、現代は、特に、「アーリマン存在」という、悪魔的存在に支配される時代といいます。

アーリマン存在は、物質的なものの背後で、(つまり「霊界の境域」から)働きかける存在で、本来、霊的な存在である人間を、物質的、機械的なものへと貶めようとします。産業革命以後の「技術」は、アーリマン存在によって、(インスピレーションを通して)もたらされたとものとされます。物質的なものが極限にまで発達し、あらゆるものが機械化された、現代の高度産業社会は、端的に、「アーリマン化した社会」ということが言えるのです。

また、これまで、「霊界の境域」 について、かなり詳しくみて来たのは、そこでは、アーリマン存在の働きかけが、個々人への個別的な働きかけとしても、強力になるからです。

私も、「霊界の境域」に、予期せずも入り込み、そこで、さまざまな存在と遭遇しましたが、特に、この存在から強い働きかけを受け、酷い恐怖や混乱を味わいました。しかし、その時点で、霊的なものの存在することは、十分肯定していた私も、このような存在がいるということは、なかなか信じ難く、認め難いものがありました。このような存在を、それとして認めるのには、相当の時間がかかっています。

ですから、一般に、このような存在が信じられないものであることは、よく分かります。

しかし、この経験を通して、私自身は、その存在を、疑いの余地なく、明白に、知ることになったのだし、それを通して、そうでなければ得難い、多くの知識を得たのも事実です。

そして、現代は、我々の世界そのもの、つまり、この「物質的な世界」という枠組みそのものが、大きく揺らいで、霊的な世界との混交をもたらしつつある時代です。だから、「霊界の境域」というのは、何も特別な状況ではなく、我々のこの世界そのものが、そのように化しつつあります。多くの人が、個別的なレべルでも、このような存在と出会う可能性が、高まっているということです。

そのような状況では、この存在のことを知ることは、是非とも必要なことになっていると思います。既に述べましたが、私が、「スピリチュアル」ということよりも、「オカルト」を重視するのも、このような存在の強い影響を、意識してのことです。

この存在については、これまでにも、多くのことが、言われて来ました。特に、近代以前には、むしろ、このような存在が存在することは、多くの人に、「常識」として知られていたのです。そして、それは、多くの場合、「悪魔」という呼ばれ方がしていました。特に、一神教の世界では、善なる「神」に対立するものとして、そう呼ばれ、非常に恐れられるとともに、「おどろおどろし」く、奇怪なイメージも、大きく膨らまされて来ました。

既にみた「魔女狩り」も、そのような見方が一般に浸透していた背景に、起こったことです。

しかし、この「悪魔」という捉え方は、多くの点で問題と思います。

このような存在が、人間の側からみれば、「悪」として意識されることは本当です。しかし、その「悪」は、どうしても、人間の側がもつ観念の押しつけでしかなく、その存在自体の本性を、明らかにするものではありません。

また、それは、時代や文化によっても、大きく移り変わるものです。特に、一神教の文化圏では、善なる「神」ということを強調し、または宣伝するためにこそ、「悪魔」の観念やイメージが、膨らまされて来たことがあります。それは、ことさら、「おどろおどろしい」ものとされ、恐怖や敵意をもつように誘導され、神への信仰へと向けさせるのに利用されたということです。

「魔女狩り」というのも、そのような教会や異端審問所の大きな働きかけのもとに、起こっています。

ところが、非一神教的な文化圏や先住民文化では、「悪魔」や「魔」という捉え方がされるにしても、それは、「悪」の視点一辺倒ではなく、ときに、共同体の秩序を保ったり、成長を促す、「善」なる働きも認められています。つまり、「両義的」な面があるのです。これは、より「真実」に近い捉え方と言っていいですが、やはり、その文化の「悪」の観念に捕らえられているところがあることは、否定できません。

実際に、このような存在に出会うという状況から言っても、「悪魔」という捉え方、特に、一神教的な影響を受けた捉え方では、ことさら、恐怖や混乱を深めることにしかならないと思います。その存在そのものというよりも、「悪」という観念や「悪魔」についてのイメージによって、自ら押し潰されてしまうということです。

私自身、このような存在が、「悪魔」である可能性をみてからは、そのような傾向が強くありました。このような存在が、現に自分がみたとおり、世界を牛耳っている状況では、地球は終わると思ったし、私自身、永遠に地獄に捕らえられると思いました。

また、前々回の記事でみたように、モーバッサンの『オルラ』も、自ら、自分のもった「悪魔」的な観念に、押し潰されてしまったよい例です。「境域の守護霊」と思われる「オルラ」に対して、多分に、実質、これまで「悪魔」としてみられて来たものを、「投影」してしまったからです。

これらは、本当に、人間の側が、この存在に出会ったときに、(やむに止まれず)もたらしてしまうことなのであって、この存在そのものから、明白に露になったものではありません。この存在そのものの実質は、そう簡単に、露になるものではなく、初めは、何しろ、人間にとって、「未知なる存在」としてしか、受け止めようのないものです。そのうえで、徐々に、時間をかけて、見極めて行くしかないものということです。

ところが、このように、「未知なる存在」として、そのまま受け止めるのは、人間にとって、容易なことではありません。どうしても、自分が既にもっている、観念やイメージを押しつけることで、とりあえずの「理解」を得ようとします。

そのようなときに、「悪魔」という観念は、決して「真実」を明らかにしないばかりか、その場の状況としても、恐怖と混乱をもたらすだけで、建設的な働きをしないのです。

シュタイナーも言っているように、このような存在は、それと出会ったことにより、初めて、存在したのではありません。既に、ずっと存在していたものを、たまたま、そのとき、自分も知ったというに過ぎません。それが、どんなに「恐ろしい」ものと思ったとしても、既に、その存在の働きかけのもとに、(「知らぬが仏」で)自分もそれまで、「普通に」生きて来たのです。その状況は、その存在を現に見、知ったからと言って、急に変わるものではありません。

つまり、このような存在がいるといっても、ことさら、恐怖したり、混乱したり、大変なことと、騒ぎ立てたりすることは、意味のないことということです。「悪魔」という捉え方は、そのようなことに、拍車をかけるだけです。 

そこで、私は、これからは、これらの存在を、これまでの観念やイメージから離れて、新たに捉え直す必要があると解します。そして、それらは、「捕食者」として捉えることが、適当と考えています。ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、既にこれについては、相当詳しく、述べていますが、次回はこれについて述べることにします。

posted by ティエム at 19:01| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月10日

様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」

前に、記事『「霊」とは何か』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/461645415.html )で述べたように、「霊」なるものがあるとすれば、人間にだけでなく、いろいろな存在にもあるはずです。また、もともと、霊だけで存在できるのだとすれば、物質的な身体をもたない「霊的存在」というのも、種々いるはずです。

実際、近代以前または近代以外の「普遍的」な文化は、そのように解して来ました。動物には、「動物霊」が宿り、木などの植物にも、その植物の「霊」が宿ります。そればかりか、石や鉱物にも、何らかの霊的なものが宿っているとされます。

また、物質的な身体をもたない霊的存在も、広く認められています。「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」など、文化や宗教形態により、様々な呼び方がありますが、これらはすべて、そのような存在です。「スピリチュアリズム」では、これらを「自然霊」と呼びます。

これらのほかに、現代では、「宇宙人」と呼ばれるものも、重要な存在となっています。「宇宙人」というと、太陽系外の惑星に住む、人間と同様の存在というイメージでしょうが、広く、宇宙起源の、地球の人間と関わり得る存在が問題です。そして、これらは、単純に、人間を基準にして、物質的な存在とするわけにはいきません。物質的なものを超えた、「霊的存在」の一種と解すべきものも多く、現に、かつては、先のような、「精霊」、「神々」、「妖精」、「妖怪」、「天使」、「悪魔」、「神」などと呼ばれていた可能性があります。

この「宇宙人」については、次回、改めて述べたいと思います。

日本の神道では、「神々」は、岩や鏡、神木などの、「御神体」に宿るとされますが、それは、一定期間、または一時的に宿っているのであって、本来、物質的なものを住処としないで、自由に移動できる、霊的な存在です。

「妖精」や「妖怪」などは、「UMA」(未確認生物)と言われることもあり、物質的な存在と同様に、視認され、人間と接することもよくあります。日本では、妖怪としての「狐」や「狸」、あるいは「カッパ」などが有名でしょう。

しかし、これらの存在も、常に、物質的な形態をとっているわけではなく、ある期間、または一時的に、「物質化」しているものと解されます。「神々」や「精霊」なども、一時的に「物質化」して現れることがあります。前に触れたように、人間の幽霊ですら、「物質化」して現れることがあるのです。

記事『「霊」とは何か』で述べたように、「霊的なもの」は、本来「物質的なもの」を含むので、それが凝縮して、物質的なものとして現れ出ることもできるのです。ただし、それには、相応のエネルギーがいるようで、長い間、物質化していることは難しいようです。

このような、様々な「霊的存在」が認められるようになったのは、一つには、このようにして、物質化して現れて、人間と接することが多くあったからと思われます。どこの文化にもある、「昔話」や「伝説」に記録されていることは、文化的な脚色を受けているとはいえ、本当にあったことなのです。現在でも、「都市伝説」として、このような「接触」は多く伝えられています。

私自身、(「宇宙人」も含める必要がありますが)これらの存在が物質化したもの(と解すほかないもの)に、出会ったことがあります。

しかし、これらの霊的な存在が、広く認められるもととなったのは、やはり、「シャーマン」という特別の能力をもった人間を、介してのものと思われます。シャーマンは、先住民文化において、どの共同体にも、一人はおり、これらの霊的な存在と交流する特別な能力を備えています。そして、それらの存在から、様々な知識を与えられたり、守護されたり、あるいは、こちらから、交渉して、さまざまな力を引き出したりします。それが、儀式などを通して、共同体の多くの者にも、共有されるわけです。

だから、先住民文化にとっては、このような霊的な存在が、普遍的に認められることになるのです。文明化した文化においても、その伝統は、多かれ少なかれ引き継がれており、かつてのシャーマンの役割をする者は、存在しています。 それで、そのような文化においても、このような霊的な存在は、認められているのです。ただし、先住民文化の「精霊」などの存在こそが、その原点のようなもので、より原初的な姿を現しています。文明化された文化の、「神々」や「神」などは、文化的に脚色された「観念」を、多くまとっていると言うべきです。

私も、また、記事『私の体験から』(http://tiem-occult.seesaa.net/article/460455111.html )で述べたように、(物質化して現れたものとは別に)霊的な存在としての、様々な「精霊」と遭遇しました。これらは、人間と共通する面もあり、似たものとして現れ出ますが、人間とは異質の面が強く、かなり強烈(ときに攻撃的)な存在です。それで、それまで人間という存在しか想定していなかった私は、大きな混乱に見舞われました。実際、人間という範疇の想定しかない者にとっては、そうなるしかなく、その混乱が、周りには、「病的」とみなされるような、危うい反応をもたらすのです。「妄想」というのも、その遭遇を、自分の理解できる範囲のことに引き寄せて、自分流に解釈した結果です。

それは、かつては、そのようなものとして「知られたもの」だったわけですが、近代になって、そのようなものを「ないもの」として切り捨てたので、それに対処する手立てを失った、ということによる面が大きいのです。

これらの存在は、「神」や「神々」という言い方だと、洗練されたイメージになるでしょうが、実際、エネルギーに満ちた、「荒々しさ」というものを醸し出しているので、「精霊」という言葉がぴったり来ます。

それらは、性質にもいろいろあり、人間からみれば、「善」または「味方」、あるいは「悪」または「敵」という捉え方で、捉えることもできます。「天使」や「悪魔」という言い方は、それを反映したものといえます。ただし、そこには、やはり、多分に、人間の都合による、解釈が入り込んでいます。「善なるもの」といい、「悪なるもの」といっても、人間からみた、人間の都合により、それらに押しつけられた「観念」に過ぎない、という面が多くあるからです。

とはいえ、もし「悪魔は存在するか」と問われるならば、当然、「存在する」と言わなくてはなりません。人間にも、「悪人」がいるのに、霊的存在に、「悪なる存在」がいないはずがありません。そして、そのスケールも、当然、人間とは比べ物にならないものとなります。

様々な「霊的存在」について、みて来ましたが、それらが、ただ単に「存在している」というだけでは、それを特に問題にする意味もありません。それらの存在が、人間に対して、多くの影響を与えていると思われるからこそ、問題にする意味があるのです。

先にみたように、そもそも、先住民の文化からして、シャーマンとの交流を通して、「精霊」が、多くの部分をもたらしたといえます。木内鶴彦氏の臨死体験の例でもみたように、霊的な存在は、人間を通して(憑依して)、様々な行為をすることもできます。我々の意思に基づくと思われている、人間の行為の多くが、霊的な存在の影響によるという可能性は、常にあるのです。何しろ、我々が思っている以上に、霊的な存在の影響を受けているというべきなのです。

ところが、近代に入って、そのような存在がいないとみなされて、「排除」されたため、人間とそのような存在との関係は、大きく変化したと考えられます。特に、それらの存在の中でも、これまで人間に友好的に働きかけていた存在との関係が、大きく「断たれた」可能性があります。そして、それは、その間隙をぬって、逆に、「悪意」ある存在が、人間を好きなように、「支配」する契機をもたらしたといえます。自らの存在が知られることもなく、他の霊的存在に邪魔されることもないので、いいように、人間と関ることができるからです。

実際、現代とは、かつてないほど、人間が、「悪魔的存在」の影響のもとにある時代ということがいえます。現代の社会情勢や、人間同士のあり方を顧みれば、それも頷けることのはずです。争いや戦争が絶えないのも、その影響によるところが大きいのです。もちろん、人間そのものにも原因がありますが、人間の内部からのみそれを追究しようとしても、なかなかうまくいかないし、現にそれが止むことはないでしょう。人間が、そのような存在がいないと思っていればいるほど、なぜとは明確に分からないままに、その影響から脱せられない状況を、闇雲に拡大し続けてしまうのです。

何度も触れたように、「オカルト」という言葉が、「おどろおどろしい」ものを連想させ、嫌悪感をもたらすことにも、この「悪魔的存在」の影響が強く働いています。人間は、表面的には否定しつつも、「オカルト」という言葉が、「悪魔的なもの」と結びつくことを、心のどこかでは知っているというべきなのです。

記事『私の体験から』でみたように、この世的なものからはみ出して、霊的世界の入り口に踏み出す体験が、病的なものになりやすいのも、その影響が強く働いているからです。実際、私の遭遇した存在の多く、というより、私が最も強いインパクトを受け、影響を被った存在も、 そのような悪魔的存在です。そして、一連の体験の間には、このような存在が、いかに多くの人間に影響を与えているか、いやというほど、肌で知らされることになりました。

私は、このような存在を、人間の「善悪の観念」に入れ込んで、「悪魔」と呼ぶのは適当でないために、「捕食者」と呼んでいます。ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、多くそれに触れています。こちらでも、それについては、改めて述べることにします。

いずれにしても、現代では、特に、このような悪魔的存在との関係を問い直すことが、重要になっています。私が、「オカルト」ということを、正面から問題にする理由の半分も、実は、そのことにこそあると言ってもいいのです。

posted by ティエム at 23:39| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする