2019年06月22日

「魔女狩り」の心理と「陰謀論」のネガティブな効果

「悪魔」と結託して、人々に危害を加える者は、かつて「魔女」として恐れられ、大々的に「狩られる」ことになりました。しかし、その後、近代社会が起こり、「魔女」なる者は、「存在しない」ことにされました。

だから、現在では、前回みたような、「悪魔」と通じて、魔術的な陰謀を行う「悪魔主義者」も、「魔女」として摘発されることは、ありません。何らかの現実の法に触れない限り、このような行為そのものが、咎められることはなくなったのです。ある意味、現代では、「悪魔主義者」は、好き放題できるということです。

一方、「魔女」そのものとしてではなくとも、実質、「魔女狩り」に相当するような出来事、つまり、特定のある者を、はみ出し者、厄介者として、「排除」する現象は、なくなったかと言えば、そんなことはありません。むしろ、様々に陰湿な形で、増え続けています。

学校や、職場、その他の集団の中でのイジメや、「精神病者」、「犯罪者」、その他の「レッテル」のもとに、実質的な差別を行うなどのことです。

「魔女なる者は存在しない」というのは、近代社会の合理主義的な発想がもたらしたもので、かつての「魔女狩り」に対する、一定の反省に基づいているものではあるでしょう。しかし、そのことの効果は、決して、「悪魔主義」をなくすことにも、「魔女狩り」に相当するものをなくすことにも、結びついていないのです。

それは、多くの人が信じた、「魔女」とか「悪魔」という存在について、本当に顧みることなく、ただ「迷信」として、表面的に、葬り去ってしまったからです。「魔女狩り」が、あまりに悲惨な結果を生んだので、そんなものは、「ないこと」にして、二度と同じ「過ち」を繰り返したくなかったのは分かりますが、実質的には、何らの対処がされているわけではありません。

そもそも、「魔女狩り」からして、実際に、狩られたのは、「魔女」そのものではなく、集団の中の、「はみ出し者」、「厄介者」であり、「害悪をなす者」として、「疑念を向けられた者」なのです。「魔女」としての、悪魔と結びついた行為が恐れられたのは事実であり、そのような、「オカルト的なもの」こそが、恐怖の元にあるのは事実です。しかし、そのようなオカルト的なものを、(意識のレベルで表面上)「ないことにする」だけでは、それに対する(深層における)根本的な恐れは、なくすこくなどできるはずもありません。そして、実質的には、そうであった、集団の中の、「はみ出し者」、「厄介者」を排除するという行為そのものも、(表面上)「オカルト的なもの」をないことにすることでは、なくなりようがありません。

そういうわけで、表だって、「魔女」として狩られることはないにしても、実質的には、「魔女狩り」に相当する出来事は、今後もあり続けることになります。

また、そのような「魔女狩り」の心理には、「オカルト的なもの」に対する、深層における、かなり根本的な恐怖と、ある(不幸な)出来事が起こったとき、それを、普段から好ましく思われていない、特定の「はみ出し者」や「厄介者」のなした行為として、「疑念を向ける」ということがあることを、確認しておくことは重要です。

そして、このような「魔女狩りの心理」は、巷の「陰謀論」にもまた、強く働いているとみられるのです。

「陰謀論」的な発想は、表面上、「オカルト」的なものを前提としていなくとも、「オカルト」的なものに対する恐れと、通じ合うところがあるのは、前回にみました。

そして、その発想には、端的に言えば、人々を不安ならしめる、何らかの出来事の背後には、支配者の陰謀があるのではないかと、疑心暗鬼になる心理があるのです。まさに、「魔女狩りの心理」そのものです。

それで、「陰謀論」には、根拠が必ずしも十分伴っていなくとも、人々の心を引きつける、一定の力があると言えます。そして、多くの人に不信や恐れ、あるいは怒りや反感を抱かせ、混乱や葛藤をもたらすのです。「陰謀論」には、確かに、そのような「ネガティブな効果」があるということです。

しかし、「魔女狩り」では、疑念は、「支配者」には向けられていなかったが、「陰謀論」では、「支配者」に向けられているという点に、大きな違いがあると言うかもしれません。

確かに、その違いは、一応あると言えますが、実質的には、微妙なものがあります。「陰謀論」でも、陰謀の主体、またはその実行者は、様々なレベルに拡張し得るもので、必ずしも、真に「支配者」に向けられているとは限りません。たとえば、「集団ストーカー被害」という、一種の陰謀説では、一般人を取り巻く、身近な「集団」自体が、そのような行為の実行者と捉えられています(※1)。

一方、「魔女狩り」も、当時は、そのような「魔女」こそが、世界を支配したと、実感に基づいて信じられたのであり、背後の「悪魔」に着目するなら、そのこと自体は、現代にも通じる、一定の理由があると言えます。

そのようなわけで、「陰謀論」は、「魔女狩り」の心理と通じるところがあるのです。そして、それは、決して、真の「支配者」にとって、都合の悪いものではない、ということが言えます。

これは、「オカルト」についても言えることなのですが、そもそも、「陰謀論」は、現代において、決して一定以上の多数の者に、受け入れらるものではないことが、「支配者」にも、あるいは、背後の「悪魔的存在」にとっても、分かっています。現代の社会自体が、根本から変わらない限り、そのことは変わりようがありません。ある一定の人たちには、かなりの影響力をもつとしても、最後には、そんなのは「陰謀論に過ぎない」ということで、容易に、切り捨てることができるのです(※2)。

一方で、「陰謀論」は、既にみたように、ある出来事の原因を、特定の者の陰謀として、疑念を植えつけ、不安や疑心暗鬼を煽ることができます。このようなことは、「支配者」にとっても、背後の「悪魔的存在」にとっても、むしろ望ましいことなのです(特に、「悪魔的存在」にとっては、自分らに向けられる疑念は、ほぼ皆無なので、望ましい面の方がはるかに大きい)。

「陰謀論」には、ネガティブな効果が多くあること、むしろ支配者の都合の良いように利用される可能性があることを、十分認識する必要がある、ということです。しかし、そのうえで、決して、丸ごと忌避せず、その中に含まれる「真実」を見極めるようにすることが重要です。

※1 ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「集団ストーカー」という厄介な問題』を参照ください。

※2 そこには、もちろん、いくら根拠を重ねても、完全な「証明」にはなり得ないということがあります。せいぜい、「説得力」を高めるということしかできません。「陰謀論」という「レッテル」の力の方が、勝ってしまうということです。
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2019年06月07日

「陰謀」と「魔術」「悪魔主義」

前回、「この世的には難しいと思われることでも、背後にある、「オカルト」的な領域から働きかけることによって、それがこの世的に実現しやすくなる」ことがあるということ。また、「そのような効果を期して、この世の人物が、オカルト的な力を頼って、陰謀を働くことが多くある」ということを述べました。

これは、一種の「魔術」にほかなりません。「魔術」などというと、多くの人にとっては、関わることなどない、疎遠なものと言うかもしれません。

しかし、多くの人も、たとえば神社などに行けば、何かしら「願をかける」ということはあると思います。「願をかける」というのも、神々という、この世の背後にある存在の力を借りて、願いを叶えようとすることなのですから、もはや立派な「魔術」の一種です。本人の意思は、必ずしも、実際に「叶えられる」と思っていないとしても、どこかでそのようなことを期待しているとすれば、その「思い」が、神々に通じないとも限りません。

あるいは、このようなことは、単純に自分の「幸せ」を願うことなのだから、「魔術」というのとは、異なると思うかもしれません。

しかし、日常においても、誰かに、何か酷いことをされたというときに、「コノヤロー」「〇〇!」みたいな感じで、呪いの言葉を吐いたり、心に思ったりすることはあるはずです。これなども、もし、この世の背後の存在の力と通じるようなことがあるとすれば、やはり、十分一つの「魔術」(呪術)となり得るのです。この場合は、他人への攻撃の意図を含みますから、「魔術」という言葉にも、違和感はないはずです。

このようなことは、「支配者」として、自分の望みのとおり人々を動かし、自分の願望を叶える必要に多く迫られる人々にとっては、より強く望まれ、行われることであるのが分かると思います。そして、このような人々は、直接、背後の存在に、願いをかけることもあるでしょうが、背後の存在と強く結びついて、それを取り次ぐことのできる、特別な能力をもった人間を、身近に抱え込んでいることも多いのです。

最近では、レーガン大統領が、お抱えの「占い師」に、政治的な判断について、アドバイスを受けていたことは有名ですし、このようなことは、現代の多くの政治家にも、当てはまることのはずです。「占い師」というと、穏当なイメージですが、本当は、「魔術師」である可能性は、いくらもあるのです。

現代では、政治家よりも、金融資本家等の経済力を持つ者の力の方が絶大であり、それらの人々もまた、自らの富を拡大し、支配力を高めるため、このような行いを、多かれ少なかれ必要としていることでしょう。

日本の戦国時代も、それぞれの武将が、何ほどかの「霊媒師」「シャーマン」を身近に抱えて、背後の存在に、戦いについて伺いを立てたり、守護してもらうなど、その力を頼るということが多くあったと思われます。その前の時代では、むしろ、多くのことが、背後の存在の力でこそなされると解されたのであり、そのような存在と通じることができる人物が、支配者の元で重宝されました。「陰陽師」の安倍 晴明などは、そのような存在として、有名です。さらに、卑弥呼や神功皇后など、支配者自身がそのような力を有した場合もあります。

いつの時代も、支配者は、「陰謀」と「魔術」に染められていたということが言えるのです。本当に,、人間の合理的な計算で、人々を支配できる部分などは、わずかと言うべきですから、そのような力を頼るのは、当然のこととも言えます。そして、「超能力」や「霊」についての記事でみたように、そのような力が現実にあるということは、少なくとも近代以前の多くの文化にとっては、当然のことだったのです。

前回、「それを、本当に、この世的な現象として実現させるには、人間の協力がある方が、威力を発揮する」と述べました。現代では、技術も飛躍的に発展したので、人間としてなし得る限りの行いは、人間がなすことの方が、より合理的になっています。しかし、それでも、最後のところは、やはり、そのような存在の力を頼らざるを得ないことも多いのです。

そして、そのような存在の力を頼ることは、必ずしも、「意識的」である必要はありません。先に述べた、「願をかける」とか「呪いの言葉を吐く」などの行いも、必ずしも、「意識的」に、そのような力を頼るものではありませんでした。「無意識」レベルで、通じ合うところがあり、結果として、そのような力を呼び寄せることがあれば、十分なのです。あるいは、背後の存在の方が、主導権を握り、この世の支配者を、(本人は意識しなくとも)「憑依」的に操るということも、いくらもあるのです。

このような、「支配者」が「陰謀」としてなすような、「魔術」に関わる存在は、支配者の意識はどうあれ(本人は、正義に適うことと思っている場合も多いでしょうから)、多くの場合、「悪魔的な存在」と言うことになるでしょう。その場合、自分の望みを叶えるとは、端的には、敵や不都合な者に、危害を加えることを意味することも多いからです。

そして、もし、支配者が、自ら積極的に、このような「悪魔的存在」の力を頼り、引き出そうとするなら、それはまさに、「悪魔主義」ということになるでしょう。それは、同時に、悪魔との「契約」において、悪魔の望む、非人間的な行いをも辞さないことになることを意味します。

そうして、その効果を実感した者は、より「悪魔」の力を信じ、それに「魂を捧げる」ことで、さらに深く、悪魔主義のとりこになっていくこともあり得ます。そうなれば、普通は考えられないほどの、非人間的な行いも、平気でなすようになるということもあるのです。人間そのものが、悪魔に近づくという言い方もできるでしょう。

現代は、そのような支配者も、かなり多くいると推察されるのです。現に、最近は、そのようなことが、多く行われているとしか考え様のない出来事も、多いはずです。

ところで、このように、悪魔と結託して、人々に危害を加える者は、かつて「魔女」として恐れられ、「狩られた」者でもあったのでした。次回は、そのこととの関係を顧みると同時に、「陰謀論」のネガティブな効果にも、改めて触れてみたいと思います。

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2019年05月31日

「オカルト」と「陰謀論」

記事『「明治維新」の捉え方の変化―「進化史観」』でも触れたように、「陰謀論」というのも、「オカルト」と同じような扱いを受けるのが、現代の状況です。「非理性的」「反理性的」で、「怪しく」「おどろおどろしいもの」としてのレッテルが貼られているのです。

実際、巷の陰謀論的なものには、根拠が薄く、飛躍的な論理で、ある出来事を、支配者である「誰々」の陰謀であるという、強引な結論に結びつけるものも多いです。あるいは、ユダヤ人など、特定の民族の陰謀に結びつけるものも多いです。感情的に、絶望感や無力感に陥らせたり、怒りや反感を煽って、扇動するようなものが多いということです

この傾向は、「この世的」な陰謀論というか、「オカルト」的なものや存在の影響を認めない、人間による単純な陰謀ということを説くものに顕著だと思います。というよりも、人間による単純な陰謀ということでは、どうしても論理に、飛躍や無理が出て来て、それが、ある種の「いかがわしさ」や「おどろおどろしさ」を醸し出してしまうことにもなるのです。

しかし、このような陰謀論というものが、単純に、「ウソ」「偽り」だけで成り立つはずがないのも、確かなことです。そこには、一定の「真実」が含まれているからこそ、長い間生き残り、また、多くの陰謀論が対置されることで、淘汰されて、ある程度真実でない部分が、削ぎ落とされたりもしています。少なくとも、現代の陰謀論として生き残っているようなものには、かつてほどの、強引な傾向や扇動的な傾向は、少なくなっていると感じます。

そもそも、ある支配的な層があるとして、その人たちが、何の「陰謀」や「企み」もなく、この世の執事に当たる、などということは考え難いことです。支配的な人たちも、「聖者」ではなく、自分たちの利益や権力を維持し、できるだけ自分たちの都合の良いように人々を動かしたいのですから、その方向での働きかけがあるのは、当然のことなのです。

ただ、巷の陰謀論は、一般の人には、人間として、倫理的にも、技術的にも、あまりに信じ難く、実現不可能と思われるような事柄を、断定的に「陰謀」として説くことから、不信を招いているということが言えます。

この点は、本当に、そのような「非人間的」なことを、平気でなすような人々もいるということを、一般の人たちは、なかなか認め難いということもあります。また、技術的な面も、一般に知らされ、表に出ている部分は、あまりに少ないということは、改めて押さえておかなければなりません。

しかし、実際、「この世的」な陰謀論というものでは、どうしても、無理や飛躍を来す面を拭い去れないことが、多いと思います。

実は「オカルト」と「陰謀」とは、分かち難く結びついているのであり、「オカルト」への注目抜きに、本当に「陰謀」を説くことは難しいと言うべきなのです。あるいは、「オカルト」と「陰謀」とは、本当に、「非人間的なもの」でこそ、結びついているということです。

「オカルト」とは、この世的なものの背後に働く「力」であることは、既にみて来ました。この世的には難しいと思われることでも、背後にある、「オカルト」的な領域から働きかけることによって、それがこの世的に実現しやすくなる、ということがあるのです。あるいは、そのような効果を期して、この世の人物が、オカルト的な力を頼って、陰謀を働くことが多くあるということです。直接、この世的に知れたものを「操作」するだけではなく、背後の「オカルト」的な領域から、この世的には知れない情報や力に基づいて、この世的なものを、「操作」するということです。

これは、一種の「魔術」であり、この観点からすると、「オカルト」とは、「陰謀」そのものです。隠れたところから、その「企み」または「諮り」という「思考」を、直接、実現しようとするものだからです。

そして、このような領域で力を発揮するのは、人間ではなく、元々の、霊的存在、または異次元的な存在、あるいは宇宙人的な存在です。「超能力」に関する記事でみたように、人間には、このような力があるとしても、かなり制限されたものです。ところが、このような存在は、元々、物質的な領域ではなく、オカルト的な領域に住んでいるので、そのような力こそが、通常の意思実現の方法なのです。つまり、「オカルト的-非人間的な存在」にとっては、「陰謀」こそが、意思実現の方法とも言えるのです。

ただし、それを、本当に、この世的な現象として実現させるには、人間の協力がある方が、威力を発揮します。人間では難しい部分を、「オカルト」的な存在が担うとしても、この世的に、現実になし得る行動は、人間がなすことの方が合理的です。そのような協力関係によって、真に、精度が高く、実現しやすい陰謀が可能となります。

ここで、「人間では難しい部分」とは、人間では通常知り得ないような、情報を得ることや、人間の世界を俯瞰しつつ、よいタイミングを計ること、また、技術的な面でも、宇宙人による高度の技術の提供を受けることなどです。

このように、(一見、人間的には信じ難いことがもっともである)陰謀というものは、オカルト的な領域との連携により、可能になるのです。言い換えれば、オカルト的な領域への注目なしには、本当には、陰謀には迫れないということです。

現在、オカルト的なものに十分注目しつつ、かなりの説得力をもって、陰謀を説き明かしている者に、デーヴィッド・アイクがいます。一面的な要素や、扇動的な面もあり、陰謀の背後にいるオカルト的な存在として、「レプティリアン」のような、特定の宇宙人のみをあげているのも、偏りがあるとは思います。

しかし、全体としてみる限り、概ね、「真実」を捉えているものと感じられます。アイクについては、改めてとり上げたいと思いますが、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『アイクの「陰謀論」など 』でもとり上げているので、参照ください。

人によっては、この世的な陰謀論以上に、背後に「オカルト」的な力を認める陰謀論の方が、より「おどろおどろし」く、絶望感や無力感も大きい、という人もいるでしょう。

しかし、それは、何度も述べたように、「オカルト的なもの」そのものに対する、イメージや嫌悪感が、大きく影響していると思います。「オカルト」そのものを、忌避せず、じっくりと学んで行けば、陰謀論的なものからもまた、多くを学べ、得るところが大きくあることが分かると思います。

アイクも言っているように、人間が、陰謀の支配する奴隷的な現実から脱するには、人間の霊的な本質を知り、その意識に目覚めることが必要です。現在の陰謀の多くが、人間の霊的な本質を覆い隠し、「物質的なものこそが存在するすべてである」という、唯物論的な発想を基盤にしているからです。

霊的な面を知る、または体験するのには、「闇」に彩られた、「オカルト」的な面こそ、入り口にならざるを得ないのは、何度か述べたように、必然的なところがあります。が、そこから入って、「霊的なもの」の本質に、より深く迫ることは、できることなのです。

陰謀論は、オカルト的なものと同様の、レッテルが貼られ、オカルト的なものと同様の、嫌悪感をもたらすということを述べました。これは、実は、多くの人が、「陰謀論」と「オカルト」には、(単に表面上、理性に反するように思えるということを超えて)通じ合うところがあることを、どこかで感じ取っているためと思われます。そして、その感覚は正しいと言うべきなのです(ネガディブな反応として現れているとは言え)。

そして、それは、「オカルト」の領域に踏み込もうとする限り、「陰謀論」もまた、無視できないものとして、見据えなければならないものであることを、物語ってもいるのです

posted by ティエム at 23:29| Comment(0) | 陰謀論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする