2020年12月04日

「共時性現象」の受け止め方

前々回にも、「共時性現象(シンクロニシティ)」の受け止め方が問題となることについて、簡単に述べました。今回は、この点について、まとめて述べたいと思います。

「共時性現象」は、その受け止め方によって、現象自体も変わって来るほど、「受け止め方」こそが重要な問題と言ってもいいものです。もちろん、「受け止め方」によって、その現象に関わる者の精神状態や理解も大きく左右されます。

「受け止め方」によって、現象自体が変わって来るのは、前回もみたとおり、要するに、受け止める側の「意識」が、現象の発生や継続に、作用することになるからと言えます。そもそも、「共時性現象」は、(様々なレベルにおける)「意識」により、「意味」的に関連する出来事が「引き寄せ」られて、同時的に起こるものでした。ですので、「受け止める」、「注目する」、「解釈する」という、本人の「意識」の作用(その「結果的な意味」)も、現象に対してフィードバック的に、影響を与えることになるのです。

このことは、単純に、共時性現象が起こったときに、それに「注目する」かどうかによっても、かなり違って来ます。それだけで、その現象は、繰り返し、起こる傾向があるのです。さらに、それに強い印象をもち、感情的な反応を伴えば、それはなおさら、強化されます。

それは、その現象に注目したことにより、繰り返し起こるのではなく、注目しないでも、たまたま、まれな現象として、繰り返し起こっていたものに、注目したが故に気づかれたというに過ぎない、という見方もあり得ます。しかし、私も、注目することで、明らかに、連続的に起こるようになるということを、何度も体験していますし、ユングや、その研究者河合隼雄も、そのことを示唆していました。

本当に、単純な例では、たとえば、ある数字に特別に注目するだけで、その数字を身の回りに目にすることが、明らかに、連続して、増えるということが起こります(何か、世界相手に、ゲームをしているような感覚に陥ります)。皆さんも、是非試してみてください。これは、マージャンやその他のギャンブルでも、よく起こることで、むしろ、ギャンブルにおいては、あえて、そのように意図して、その数字を「引き寄せる」ということが、(無意識にも)行われるものとみることができます。

そして、前々回も述べたように、「霊界の境域」に入り込んだときには、「共時性現象」は頻発し、このような、「受け止め方」によって、現象自体が変化する傾向も、如実に感じ取れるものとなります。

そのような現象は、たまに起こるということであれば、特に影響を受けることもないでしょうが、そのように頻発するときには、混乱したり、振り回されて、よからぬ精神状態に陥ることにもなりがちです。ですから、そのような場合は、どのように受け止めるかが、殊更重要なことにもなります。

多くの人が、日常的にしているように、そのような現象を、単なる「偶然」として、受け流すという方途もあり得ます。後にみるように、「共時性現象」を、否定的、恐るべきものと受け止めれば、その現象自体も、実際に、そのような傾向を帯びて、それが繰り返される可能性があります。それで、下手に「共時性現象」などと受け止めるぐらいなら、「偶然」として受け流す方が、賢明ということもできます。

しかし、「共時性現象」は、前々回みたとおり、日常を超えた、「オカルト」的な現象を身近に感ずるよい機会だし、これまでの常態化した「世界」の受け止め方を変え、新たなものをもたらす機会にもなります。また、「霊界の境域」に入り込んだときのように、それが、明らかに、偶然とは考えられないというほどに、頻発するときには、もはや、偶然ということで、受け流すことは難しくなるでしょう。

従って、そのようなときは、「共時性現象」をそれとして受け止めたうえで、それに囚われることなく、振り回されないようにするという方向に向かうことが、建設的です。そして、その受け止め方によって、その現象の現われ自体を、良い方向に変えていける可能性があることを知ることも重要です。

「共時性現象」を、それとして受け止めるということは、前々回も述べたように、その現象を、単純な因果律の延長上に解釈することを止め、因果律を超えた別の原理が働いたものとして受け止めるということです。

単純な因果律の延長上に解釈した場合、前々回の例でいくと、たとえば、「心に思っていることが、何事か、または誰かを通して、まさに現れ出たような場合、自分の心が(盗聴などの方法で)読まれている<から>、そんな現象が起こったのだと、被害妄想的な解釈をすることにつながる」ということがあります。あるいは、「逆に、自分が思っていることがらが、まさに外界にも、何らかの形で現れ出たようなとき、自分には、特別の「力」がある<から>、そのような現象を起こせたのだと、誇大妄想的な解釈をしてしまう」ことにもなります。

どちらも、それが頻発する状況では、妄想的に凝り固まってしまって、かなり危険な状態をもたらし得ます。

このような場合には、「理由は何にせよ」、「意味的に関連する出来事が、同時的に起こったに過ぎない」ということ。そして、「単純な因果律を超えた原理が働いた」のだと、まずは率直に認めることが必要なのです。

前回もみたように、「共時性現象」にも、それが起こる「原理的な理由」はあって、それは、(種々のレベルにおける)「意識」にこそあると言えるのですが、それは、物理的な世界における「因果律」、特に、単純な「一義的」な因果律とは異なります。そこを、短絡的に、因果的に解釈すると、上のような、「妄想」につながる解釈をし、囚われを生むことになるのです。

しかし、先にみたように、「意識」の作用が元であるとすると、その現象自体に対する、自分自身の「受け止め」方もまた、現象自体に影響を与えることになり得ます(頻繁に起こる状況では、それを自ら確かめることもできるはずです)。そのことを自覚して、その受け止め方自体を、できる限り、肯定的、建設的なものにしていくということが必要になるのです。

「共時性」は、「意味」において関連する出来事が同時的に起こるのですから、その「意味」というのを、よい兆候として、肯定的に受け止めるか、または、悪い兆候として、否定的に受け止めるかということが問題となります。

そもそも、「共時性現象」は、頻発して起こると、恐怖をもたらすものがあるので、悪い兆候として、あるいは、自己に対して、攻撃的なものとして、否定的に受け止められる可能性が高まります。否定的な受け止め方は、感情的な要素も伴って、より強化されがちなので、その否定的な受け止め方自体が、現象に影響し、さらに否定的な現れを繰り返し、循環されるようになる傾向もあるのです。

このことに関連して、一つの典型的な例として、このような現象を、「集団ストーカー」の被害を受けている、と解釈するものがあります。

人などと、不自然な形(自分の内心にとって特別なタイミング)で、出会うことなどが重なると、自分に誰かが、つきまとっているというような感覚に陥ることにもなります。そして、それを、集団としての組織が、嫌がらせのために、ストーカー行為をしていると解釈するようなことも起こるのです(最近は、ネットでも、多くの「被害報告」が挙げられていることにもよります)。

そして、そのような解釈にはまり込むと、その「被害」は、延々と繰り返されて、止まない傾向があります。

これなどは、(単なる誤認でないとすれば)、偶然を超えた「共時性現象」が元になっている可能性があり、それを否定的、攻撃的なものとして受け止めてしまったために、まさに、その否定的な現れを、実際に強化して、繰り返し現れるようにしてしまったものと解されます。

ですので、「共時性現象」は、できる限り、肯定的、建設的なものとして受け止めることが望ましいのです。明らかに、否定的なものがあるときでも、肯定的、建設的な受け止め方ができれば、その方向に変わってくる可能性もあります。

たとえば、前々回あげた、ユングの「黄金虫」の例でも、「黄金虫」の夢を、何か奇妙な、攻撃的な現われとして、受け取る可能性もあったはずです。しかし、それを、「癒し」に関わる、神話的、象徴的な意味として受け取ったことが、(患者自身にも)作用し、「癒し」へ向けた、よい結果を「引き寄せ」たとも考えられます。

ただし、そのように、あえて、肯定的に受け止めることなどをしないでも、殊更、否定的に受け止めなければ、その現象が繰り返されることもないとして、受け流すような態度を身につけることも必要でしょう。むしろ、「共時性」として受け止めたうえで、あえて「意味」を詮索したりしないで、ただそのまま受け止めておくことの方が、現象に拘らないようにするうえで、望ましいとも言えるのです。私自身は、そのようにしています。

現在は、この世界自体が大きく揺らいでいる(ある意味「霊界の境域」と化している)ので、このような現象は、一般にも、ますます頻発して来ると思われます。そのような現象は、何か特別なことではなく、自然なこととして、受け止めることの方が、適切になって来ると思われるのです。

以上、要するに、「共時性現象」は、因果律を超えた現象とはっきりと受け止めつつも、それには囚われず、受け流し、あるいはできる限り、肯定的、建設的に受け止めるようにすることが望ましいということです。

次回は、難しい問題として、触れるだけにしていた、「輪廻転生」の問題を述べたいと思います。

※ もう一つ、「共時性現象」を受け止めるときの、ポイントとなる見方をあげておきます。それは、「現実」というものは、「確定的」なものではなく、「流動的」なものである。あるいは、「一つ」のものではなく、「多様にある」という見方です。

現実が、確定的なものとして、一つしかないものであるならば、意味において関連する事柄が、同時的に起こるなどということは、(「現実を変えてしまう」事柄なので)起こり得ない、という見方にもなります。これは、共時性現象自体が、受け入れ難く、恐ろしいものと感じる基盤となります。

これについては、記事でも、たとえば、『「量子」と「霊的なもの」』で、実際には、現実とは、観測以前に確定しているものではないことを述べました。量子のレベルでは、このことが認められていても、なかなか日常の現実において、このことを認めることは難しいとも言えます。しかし、共時性を受け止めるにおいても、現実について、このような柔軟な見方をしておくことは、大きく作用すると思われるのです。

なお、『狂気をくぐり抜ける』の方の、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1,2』では、さらに踏み込んで、現実は知覚と別にあるのではなく、「知覚自体が現実を作る」ということも述べていますが、これも「共時性」の受け止め方に大きく影響する見方なので、ぜひ参照ください。
posted by ティエム at 00:40
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