2020年06月03日

「捕食者」という存在の実質と限界

しばらく間があいてしまいましたが、今回は、「捕食者」という存在の実質と限界について述べようと思います。

「捕食者」という存在については、前回、基本的なことを大体述べましたし、プログ『狂気をくぐり抜ける』の方でも、「狂気」をもたらす大元ということで、何度もとりあげ、相当つっこんだ解説をしています。たとえば、前回もあげたように、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 、『「捕食者」という理由』などがあります。ですので、前回の記事と、それらを参照してもらえば、十分理解できることとは思います。

ただ、何度も言うように、「捕食者」という存在は、「オカルト」の基本にとって抜かせない重要な事柄なので、こちらでは、より一般的に、分かりやすく説明したいと思います。

前回みたように、「捕食者」とは、「我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食料源にしている存在」です。そして、その「恐怖」や「不安」などの感情的エネルギーを絞り取るため、社会的にも、個人的にも、さまざまな働きかけをしています。その働きかけは、戦略的で徹底しており、人間からすれば、冷酷そのものです。それは、「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情をもたらすことに向けられていますから、当然、人間にとって、「恐ろしい」こと、「不安になる」ことが仕掛けられます。

そのために、人間は、楽しく、喜びにあふれた生を送りたいと思っても、そうはならず、ネガティブな感情から、逃れることができないでいるのです。

我々は、そのような働きかけを「悪」として、「破壊」を意図するもののように解してしまいますが、そうではなく、「恐怖」や「不安」という感情そのものを生み出すことを意図しているのです。我々にとっては、まずは、それに気づくことが、決定的なことであり、彼らという存在についての、本質をつかむことになります。そして、彼らを、殊更怖がることからも開放される、というより、それでも怖がることは、進んで、彼らの餌食になろうとすることに他なりません。

人間は彼らの食料源ですから、人間を破壊してしまうことは、彼らが望むことではありません。ウイルスのように、人間に「寄生」しているということであり、あるいは、「依存」していると言ってもいいです。つまり、そこにこそ、彼らの大きな限界もあるのです。これについては、また改めて述べることがあろうかと思います。

何しろ、彼らが、言って来ることや、仕掛けて来ることは、徹頭徹尾、「恐怖」や「不安」という感情を生み出すための「戦略」なのであって、真実のものでも、特別に意味があるものでも、ありません。「恐ろしい」ことでも、「不安をかき立てる」ことでも、それらを本気にしたり、真に受ける必要はないということです。(ただし、完全なウソ、虚偽だけでは、効果を発揮しにくいので、真実が交ぜられるということはあります。みかけは、真実を含むものであることも多いので、注意が必要ということです。)

それにしても、このような存在の仕掛けなど、想像もつかない。具体的にどういったものなのかと、いぶかるかもしれませんが、前回も述べたように、既に現在の高度産業社会そのものが、そのような仕掛けによって、できあがっている社会です。

貨幣、金融等の経済的な制度、教育やメディアを通しての社会的洗脳、物質主義的な価値観や医療システムなど、全てが、人間の支配層を介しているとはいえ、彼らのもたらした仕掛けと言えます。あるいは、最近もしょっちゅう問題となる、戦争やテロ、大掛かりな事故、さらには、自然現象とされてしまいますが、一部の地震や異常気象、そして、現在の新型コロナウイルス騒動もそうです。つまり、我々が、日々周りにみているもの、既に前提としてあるものの多くがそうなのです。

これらは、それによってもたらされる直接の害悪よりも、不安や恐怖を煽ること自体が意図されているのです。こういった事柄は、一つ一つが決定的なまでの破壊的効果を生むというよりも、何かが来たら、次は何と、次々に起こされ、一向に休まる暇もなく、収束しないことに気づかれると思います。そのように、継続的に恐怖や不安の種を発生させ続けることこそ、彼らの戦略なのです。

個別的なところで言うと、私が体験したような、霊界の境域での遭遇や、「声」を通しての働きかけがあります。これらは、必ずしも、「捕食者」そのものではなく、某かの霊的存在を通してなされることが多いですが、その背後には、彼らがいることも多いのです。執拗な、攻撃的内容、暗示的なほのめかし、幻覚的現象の創出などが多いですが、どれも、恐怖、それも尋常でない恐怖を、継続的にもたらすことが図られています。

最近では、「集団ストーカー」という現象もそうで、「声」とは限らず、通りがかりの人間などを利用して、様々な「嫌がらせ」的な仕掛けがなされます。最近は、「統合失調」のような、古典的な仕掛けから、このような方法に移行していることも窺わせるものです。

ただし、このような個別的な働きかけも、決して、特別な者に特別に仕掛けられたというものではなく、本当は、誰にも、なされているものです。ただ、多くの場合、それを意識することがほとんどない、というだけなのです。意識することがなければ、意識レべルで恐れることもないですが、 無意識レベルでは、何らかの反応が生じている可能性が高いです。少なくとも、何らかの、ネガティブな思考のもとになっていることが多いのです。

こう言っても、現在ほとんどの人が、このような存在を認めないでしょうが、既に、人間は、いやというほど、このような存在の支配下にいるのです。それでも、このような存在を否定することは、私には、皮肉を通り越して、滑稽にすら思われます。ただし、既にみたように、唯物論的な発想そのもの、従って、彼らの存在を知られないように「隠す」ことも、彼らの戦略の一部なので、その戦略がよく効いている結果とはいえます。

先に、「捕食者」としての、彼らの本質をつかめば、それほど恐れることはないと言いました。それは、本当であり、彼らの戦略から逃れる第一歩です。しかし、彼らには、人間を超えた力や、狡猾な知性があるのも事実です。そして、現に、そのような存在に、いやというほど支配されて、どうしようもない状態にいる現状は、まともに認識する必要があります。そこから脱することは、決して容易なことではないのです。これについても、また改めて述べたいと思います。

既に述べたところから、「捕食者」という存在は、特定の固有の存在というよりも、「捕食者的な型」をもった、ある一群の存在ということが分かると思います。その意味では、シュタイナーのいう「アーリマン存在」と同じです。実際、両者は、重なるところが多いです。これらは、「霊的な存在」とみられると同時に、次元を超えた「宇宙人」とみることもできます。「レブティリアン」というのが、その典型です。

ただし、「レプティリアン」説で有名なデーヴィッド・アイクも、最近は、「レプティリアン」(爬虫類系の宇宙人)を特別視することから離れて、それも、元々の「大いなる認識」から逸脱した、「捕食者」的な存在または原理の、一つの現れに過ぎないという見方に変わって来ています。もちろん、そちらの方が正しいと言うべきです。

このように、「捕食者」という認識が、まだまだ少ないとはいえ、一定程度広まって来ていることは、望ましいことと言えます。



posted by ティエム at 23:27| Comment(2) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月10日

「捕食者」という捉え方 1-経緯

前回、「悪魔」という捉え方は、問題が多いことをみました。何しろ、「悪魔」というのは、人間の側からみて、「邪悪な存在」、「敵対する存在」ということで、観念的に押しつける面の強いものです。それは、その存在そのものの実質を、必ずしも、明かにするものではありません。

私も、初め、その強烈な攻撃性と、とても敵わないと思われる力、醸し出す雰囲気などから、この存在を、「悪魔」とみなさざるを得ませんでした。しかし、しばらく接するうちに、それは、(そうしたければできるはずなのに)必ずしも、私を殺そうとか、人間をなきものにしようとか、しているようには思えませんでした。

そして、この存在を、ほとんど常に、身近にする状況になったのですが、この存在は、私が、恐怖を感じているときは、非常に活気づきます。ところが、あるとき、私が恐怖をあまり感じないでいたとき、目に見えて、勢いを失っていくことを体感しました。それで、この存在は、こちらが恐怖によって、何らかのエネルギーを供給しない限り、それほど恐ろしいという訳ではないということに気づきました。

その後、この存在との関わり方も、それほど恐怖に満ちたものではなく、どこかに余裕ができ、大きく変わりました。(もちろん、なめられるような存在ではないし、その後、「境域の守護霊」の方が恐くなるなど、いろいろ紆余曲折はあります。)

私は、このようなことから、この存在は、どうも、「悪なる存在」というよりも、「恐怖を活力源にする」ということの方が、実質をよく表していると思うようになりました。

その後、前から、前著を読んでいて、自分の体験とも大きく重なる部分があると興味深く思っていた、カルロス・カスタネダの本で、『無限の本質』(二見書房)というのが出ました。これは、前著では触れられていなかった、「捕食者」という存在について、正面から説き起こしている、画期的なものでした。それは、私の接した、悪魔的な存在とも、見事に符合するものだったので、強い衝撃を受けました。

このような存在について、悪魔というのとは別の観点から、これだけ詳しく説いていたものがあったということ。しかも、それは、もともと興味深く思っていた、カスタネダの師ドンファンのものだということも、驚きでした。

この存在については、次回、その実質をより詳しくみますが、簡単に言うと、我々が発する意識のエネルギー、特に「恐怖」や「不安」などのネガティブな感情的エネルギーを食糧源にしている存在です(以下「彼ら」と言います)。

「捕食者」というのは、我々が、他の動物に対して「捕食者」の位置に立つように、人間に対して、「捕食者」の位置に立つということです。これは、キリスト教の発想の影響が強いのですが、我々人間は、他の動物に対して、食物連鎖の頂点に立つ存在のように思って来ました。そうすると、違和感が強いと思いますが、実際には、そうではなく(というか、まともに考えれば、そうであるはずがないのですが)、我々の上にも、捕食者の位置に立つ存在がいるということです。

ただし、この捕食関係は、物理的な成分だけについて言うのではなく、霊的(エーテル的)な「エネルギー」(要するに、既にみた「気」と思えばいいです)も含んだものです。

また、「捕食」と言いますが、実際には、彼らは、人間を、社会システムや信念体系を通じて、管理、飼育しているに等しく、むしろ「牧畜」と言った方が適確です。社会の直接の支配は、人間の支配層によってなされるとしても、その背後には、この存在の働きかけがあるということです。

ただ、人間が、牧畜を主としつつも、ときに野生動物を捕食することがあるように、この存在によっても、人によって(特にその飼育システムから外れる者)は、「捕食」そのものののような対象になります。

(「うつ」というのが、彼らに、飼育システムの中で、がんじがらめにされ、搾取される結果だとしたら、「統合失調」というのは、まさにそのように、飼育システムから外れる者への、特別の攻撃的な搾取の結果と言えます。)

先に、彼らは、人間を直接殺そうとか、なきものにしようとかしているようには思えないことを述べました。それは、要するに、人間は、彼らの食糧源だからです。彼らも、食糧源を、失ってしまうことは望まないのです。まさに、細胞に寄生するウイルスと同じようにです。

ただし、それは、人間から、「恐怖」や「不安」などの感情エネルギーを、徹底的に絞り取るためにこそ、生かすことを意味します。そして、そのために、冷徹かつ戦略的に、徹底して、働きかけます。私と接した存在も、直接的に、分かり易い攻撃を仕掛けるというよりは、とにかく、じわじわじわじわと、精神的に痛めつけるような言葉を発したり、意図の分かりにくい、曖昧な振る舞いや現象を演出し、恐怖を膨らませようとします。それが、途切れることなく、延々と続くのです。

これは、個人レベルのものですが、それを、人間の飼育のため、社会レベルで行うとき、彼らにとって都合のよい、人間をがんじがらめにする、社会システムを導くのです。恐怖や不安に動機づけられた、また、人間の本質を大きく制限する、常識や信念体系を与え、それを社会に行き渡らせることを通じてです。現代の高度産業社会のシステム、またその基礎にある、唯物論的、機械論的な信念などは、その最たるものです。また、現在みられる、コロナウイルスによる「パンデミック」の演出も、そうと言うべきものです。

こうみると、彼らは、シュタイナーの言う悪魔的存在、「アーリマン存在」と重なるところがあることに気づくと思います。

実際にそうで、私も、まず、自分が接した存在について、シュタイナーのいう、「アーリマン存在」こそが、見事に、適確に捉えていると思いました。「アーリマン存在」というのは、二系統の悪魔的存在として、一方の「ルシファー存在」との対比で捉えられたもので、人間を機械的、物質的な方向に導く存在という面が強調されます。

これだけからは、「捕食者」という面は、あまり表に出ないですが、シュタイナーも、アーリマン存在は、人間の中の、ルシファー的な性向から発する情念を「刈り取る」と言っており、実質、「捕食者」的性質があることになります。つまり、一見、異なる捉え方のようにみえて、実際には、かなり重なる部分があるのです。

しかし、私は、「捕食者」という捉え方は、「アーリマン存在」という以上に、実質を捉えている部分が多いと思います。何よりも、それは、人間の側の「善悪」の観念を離れた、客観的な見方を可能にします。さらに、「捕食者」という捉え方は、食物連鎖において人間の上に立つ存在を認めることで、逆に、人間の動物に対する関係を、改めて顧みさせる効果があります。

人間が、彼らを「悪魔」というなら、動物にとって、人間も「悪魔」にほかならないことになるでしょう。そのような生命の全体的な関係を、改めて見直す視点も提供するということです。

このようなことから、私は、彼らについては、「アーリマン存在」という見方も、受け入れつつ、「捕食者」という捉え方をすることにしています。

当時は、このような捉え方は、非常に異質だった感がありますが、最近は、割といろんなところで目にするようになりました。

たとえば、「レプティリアン」などの「ネガティブ系宇宙人」についても、人間に対する、捕食者的な支配者という観点から説明するチャネリングものも、よくみかけます。バーバラ・マーシニアックの『プレアデス+かく語りき』などは、その代表です。さらに、何度か触れた、デーヴィッド・アイクも、特に最近は、このような存在を、「捕食者」的なものとして捉える視点が、強まっています。

我々自身が、「善悪」の観念に捕らわれず、それを「卒業」することによって、このようなことが見えてくる要素が強いので、まさに、最近は、そのようなことが要請される時代になっているということも感じます。

そういうわけで、今回は、私が、彼らを、「捕食者」として捉えるようになった経緯と、理由を中心に述べました。なお、『狂気をくぐり抜ける』の方では、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』が、アーリマン存在との対比について、また、記事『「捕食者」という理由』が、捕食者と呼ぶ理由についてまとめて述べていますので、そちらも参照ください。

posted by ティエム at 00:27| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月25日

「悪魔」という捉え方の問題

記事『様々な「霊的存在」― 特に「悪魔的存在」 』で、物質的身体をもたない、霊的な存在には、人間以外にも多くの存在がいること。そして、その中には、当然「悪」なる存在もいることをみました。また、それらは、物質的な次元とは、次元を異にする、「宇宙人」として捉えることも可能であることをみました。最近では、「レプティリアン」とか「オリオン人」といわれる存在が、これに当たります。

これらは、現実に、我々の世界に強く働きかけているからこそ、問題にする意味があるので、単に抽象的に存在するか否かなどと論じることに、意味があるわけではありません。

特に、現代の状況は、このような存在による影響が、かつてないほど強まっている時代と言えます。このことは、様々な方面で言われますが、度々とりあげるシュタイナーも、現代は、特に、「アーリマン存在」という、悪魔的存在に支配される時代といいます。

アーリマン存在は、物質的なものの背後で、(つまり「霊界の境域」から)働きかける存在で、本来、霊的な存在である人間を、物質的、機械的なものへと貶めようとします。産業革命以後の「技術」は、アーリマン存在によって、(インスピレーションを通して)もたらされたとものとされます。物質的なものが極限にまで発達し、あらゆるものが機械化された、現代の高度産業社会は、端的に、「アーリマン化した社会」ということが言えるのです。

また、これまで、「霊界の境域」 について、かなり詳しくみて来たのは、そこでは、アーリマン存在の働きかけが、個々人への個別的な働きかけとしても、強力になるからです。

私も、「霊界の境域」に、予期せずも入り込み、そこで、さまざまな存在と遭遇しましたが、特に、この存在から強い働きかけを受け、酷い恐怖や混乱を味わいました。しかし、その時点で、霊的なものの存在することは、十分肯定していた私も、このような存在がいるということは、なかなか信じ難く、認め難いものがありました。このような存在を、それとして認めるのには、相当の時間がかかっています。

ですから、一般に、このような存在が信じられないものであることは、よく分かります。

しかし、この経験を通して、私自身は、その存在を、疑いの余地なく、明白に、知ることになったのだし、それを通して、そうでなければ得難い、多くの知識を得たのも事実です。

そして、現代は、我々の世界そのもの、つまり、この「物質的な世界」という枠組みそのものが、大きく揺らいで、霊的な世界との混交をもたらしつつある時代です。だから、「霊界の境域」というのは、何も特別な状況ではなく、我々のこの世界そのものが、そのように化しつつあります。多くの人が、個別的なレべルでも、このような存在と出会う可能性が、高まっているということです。

そのような状況では、この存在のことを知ることは、是非とも必要なことになっていると思います。既に述べましたが、私が、「スピリチュアル」ということよりも、「オカルト」を重視するのも、このような存在の強い影響を、意識してのことです。

この存在については、これまでにも、多くのことが、言われて来ました。特に、近代以前には、むしろ、このような存在が存在することは、多くの人に、「常識」として知られていたのです。そして、それは、多くの場合、「悪魔」という呼ばれ方がしていました。特に、一神教の世界では、善なる「神」に対立するものとして、そう呼ばれ、非常に恐れられるとともに、「おどろおどろし」く、奇怪なイメージも、大きく膨らまされて来ました。

既にみた「魔女狩り」も、そのような見方が一般に浸透していた背景に、起こったことです。

しかし、この「悪魔」という捉え方は、多くの点で問題と思います。

このような存在が、人間の側からみれば、「悪」として意識されることは本当です。しかし、その「悪」は、どうしても、人間の側がもつ観念の押しつけでしかなく、その存在自体の本性を、明らかにするものではありません。

また、それは、時代や文化によっても、大きく移り変わるものです。特に、一神教の文化圏では、善なる「神」ということを強調し、または宣伝するためにこそ、「悪魔」の観念やイメージが、膨らまされて来たことがあります。それは、ことさら、「おどろおどろしい」ものとされ、恐怖や敵意をもつように誘導され、神への信仰へと向けさせるのに利用されたということです。

「魔女狩り」というのも、そのような教会や異端審問所の大きな働きかけのもとに、起こっています。

ところが、非一神教的な文化圏や先住民文化では、「悪魔」や「魔」という捉え方がされるにしても、それは、「悪」の視点一辺倒ではなく、ときに、共同体の秩序を保ったり、成長を促す、「善」なる働きも認められています。つまり、「両義的」な面があるのです。これは、より「真実」に近い捉え方と言っていいですが、やはり、その文化の「悪」の観念に捕らえられているところがあることは、否定できません。

実際に、このような存在に出会うという状況から言っても、「悪魔」という捉え方、特に、一神教的な影響を受けた捉え方では、ことさら、恐怖や混乱を深めることにしかならないと思います。その存在そのものというよりも、「悪」という観念や「悪魔」についてのイメージによって、自ら押し潰されてしまうということです。

私自身、このような存在が、「悪魔」である可能性をみてからは、そのような傾向が強くありました。このような存在が、現に自分がみたとおり、世界を牛耳っている状況では、地球は終わると思ったし、私自身、永遠に地獄に捕らえられると思いました。

また、前々回の記事でみたように、モーバッサンの『オルラ』も、自ら、自分のもった「悪魔」的な観念に、押し潰されてしまったよい例です。「境域の守護霊」と思われる「オルラ」に対して、多分に、実質、これまで「悪魔」としてみられて来たものを、「投影」してしまったからです。

これらは、本当に、人間の側が、この存在に出会ったときに、(やむに止まれず)もたらしてしまうことなのであって、この存在そのものから、明白に露になったものではありません。この存在そのものの実質は、そう簡単に、露になるものではなく、初めは、何しろ、人間にとって、「未知なる存在」としてしか、受け止めようのないものです。そのうえで、徐々に、時間をかけて、見極めて行くしかないものということです。

ところが、このように、「未知なる存在」として、そのまま受け止めるのは、人間にとって、容易なことではありません。どうしても、自分が既にもっている、観念やイメージを押しつけることで、とりあえずの「理解」を得ようとします。

そのようなときに、「悪魔」という観念は、決して「真実」を明らかにしないばかりか、その場の状況としても、恐怖と混乱をもたらすだけで、建設的な働きをしないのです。

シュタイナーも言っているように、このような存在は、それと出会ったことにより、初めて、存在したのではありません。既に、ずっと存在していたものを、たまたま、そのとき、自分も知ったというに過ぎません。それが、どんなに「恐ろしい」ものと思ったとしても、既に、その存在の働きかけのもとに、(「知らぬが仏」で)自分もそれまで、「普通に」生きて来たのです。その状況は、その存在を現に見、知ったからと言って、急に変わるものではありません。

つまり、このような存在がいるといっても、ことさら、恐怖したり、混乱したり、大変なことと、騒ぎ立てたりすることは、意味のないことということです。「悪魔」という捉え方は、そのようなことに、拍車をかけるだけです。 

そこで、私は、これからは、これらの存在を、これまでの観念やイメージから離れて、新たに捉え直す必要があると解します。そして、それらは、「捕食者」として捉えることが、適当と考えています。ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、既にこれについては、相当詳しく、述べていますが、次回はこれについて述べることにします。

posted by ティエム at 19:01| Comment(0) | 精霊、神々、捕食者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月14日

「境域の守護霊」を通して知る「生と死」の意味

前回までに述べていませんが、「境域の守護霊」との出会いの重要な意義の一つに、「生と死」の意味を知るということがあります。「境域の守護霊」との出会いを通して、「死と生」の意味が、これまでとは違った相貌のもとに、新たに、浮かび上がるのです。

物質的な身体をもってこの世に生きる以上、我々には必ず、「死」というものがつきまといます。我々の「生」には、必然的に「死」が伴っているのです。それは、「生きる」ということの意味を、問わしめることにもなります。

しかし、物質的、感覚的な「この世」のみが存在するものである、と思っているとしたら、この「生きる」ということの意味には、どうしても確たるものを見出し難いと思います。

ところが、「霊界の境域」の体験、あるいは「臨死体験」など、何らかの霊的な体験をすると、我々は、我々の本質が物質的なものではなく、霊的なものであることを知ることになります。それは、この世的な意味の「死」が、すべての終わりを意味するのではないことを、知らしめてくれるのです。

しかし、そうすると、今度は、また違った意味で、「生と死」の意味が、問われることになります。我々は、本来、霊的なものであるにも拘わらず、なぜ、あえて物質的な身体をもって、死を先に見据えつつ、この世に生きることになるのか、ということです。

「境域の守護霊」には、「底知れない」面があると言いましたが、それは、まさに、「死」そのものを体現しているかのようです。実際、「境域の守護霊」との出会いは、「死」を間近に迫るものとして意識させ、その「死」を通して、「死」の意味を知らしめる、という面があるのです。シュタイナーも、「境域の守護霊」は、「死の天使」でもあると言っています。

前回みたモーパッサン(『オルラ』の主人公)も、「オルラ」との出会いにおいて、強烈に死を意識し、最後には、「自分自身が死ぬのだ」という言葉を残しています。(モーパッサンは、実際に、その後精神を患って病院に入院し、まもなく、死んでしまったようです。)

この出会いは、単純に、「死」の意味を考えるということでは、とても適わない、実際の「死」の体験を与えてくれます。ただし、その間近に迫る「死」を、どのように通り越すかは、我々自身にかかっています。モーパッサンのように、「境域の守護霊」の認識がない場合、混乱と恐怖によって、それも、難しいことになるかもしれません。

しかし、その「死」の体験を通り越すことができれば、我々はその体験から、「死」の意味をくみ取り、同時に、「生」の深い意味を、新たに蘇らせることができることにもなります。

とは言え、このような「死の意味」や「生の意味」は、重層的な「深み」をもっているので、とても、一義的に、言葉で言い表せるものではないでしょう。あるいは、一種、「直感的」なものとて、認識されるに止まることも多いでしょう。

しかし、ここでは、シュタイナーが、「境域の守護霊」を通して得られる、「生と死」の意味として述べている、決定的な要素をあげておきます。まず、「死の意味」ですが、シュタイナーは、端的に次のように言います。

死とは、かつての超感覚的な世界が、もはや自分自身によってはそれ以上前進できない地点にまで到達してしまったことの表現以外の何ものでもない


超感覚的、霊的な世界と言えば、この世的な苦悩とは縁のない、楽で自由な世界というイメージもあるでしょう。ところが、決してそうなのではなく(というより、むしろそうであるからこそなのですが)、結局は停滞し、にっちもさっちも行かず、行き詰ってしまった。そのことこそ、「死」の起源であり、後にまで引きずる、「死」のモチーフというのです。それは、この世においてではなく、霊的な世界においてこそ、生じたということなのです。

そして、そのように行き詰った霊的世界は、全体としての「死」を避けるため、新たに、感覚的、物質的な世界への移行を必要としたのです。それは、なぜ、霊的な世界から、この感覚的、物質的な世界が創造されねばならなかったのか、ということの端的な説明ともなります。同時に、初めにあげた、本来、霊的な本質をもつ人間が、なぜあえて、この世に生きなければならないのか、ということの端的な答えともなるものです。つまり、それこそが、新たに蘇る「生の意味」ということです。

シュタイナーは、人間が、この感覚的な世界で必要な能力を獲得し、不完全さを克服して、自らを完全なものとして完成させることが(この感覚的な世界を超え出るというだけでなく)、停滞した霊的な世界をも、全体として、進化、発展させることにつながなると言います。これは、既にこれまで述べて来た、「境域の守護霊」を通して示される、自己を完成させるという道そのものですし、それこそが、「境域の守護霊」との出会いの意義そのものなのです。

「境域の大守護霊」は、自己のみを、感覚的世界から解脱させようとする方向は、「黒い道」として、牽制することを述べました。このようにみて来ると、それも頷けるものとなると思います。自己のみが、感覚的な世界から解脱して、霊的な世界へと進んだとしても、それたけでは、このような霊的な世界全体の停滞の解消と発展には、資すものではないからです。自己のみではなく、あくまで、感覚的な世界の全体が、そこを超え出て、霊的な世界全体を発展させるのでなければなりません

私も、シュタイナーが述べているこのような、「生と死の意味」には、概ね同意しますし、「境域の守護霊」との出会いのときに、すぐさま同じような認識を得たわけではないですが、確かに、似たような認識は持ちました。

この体験をする前は、この世から逃げたい志向が強く、霊的な世界にも「憧れ」に近いものがありましたが、この体験を通して、霊的な世界にも、行き詰まりや「死」があることは感じ取りましたし、この世に生きることの意味が、新たに自覚されることにもなりました。

シュタイナーも、

感覚的に把握しうる世界の本当の価値が、修行以前よりも、もっと深く認識でき、評価できるということは、霊界に参入した者の体験内容のもっとも重要な部分である

と言っています。

ただ、私は、シュタイナーとまた違った観点として、「境域の守護霊」は、単に「死」というだけでなく、むしろもっと根源的な「虚無」、「闇」または「無限」を反映するものでもあるということをも、感じ取っています。「境域の守護霊」の「底の知れなさ」は、まさに、そのような根源的なものを反映するところから来ていると思うのです。

そうすると、「死」の意味合いも多少変わって来るのですが、しかし、それは、ややこしくなるので、ここでは述べず、また機会があれば述べることにします。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の方では、このような「虚無」「闇」または「無限」について、かなり詳しく述べ、それは、最後に触れた問題にも及んでいますので、興味ある方は、そちらを参照ください。
posted by ティエム at 00:11| Comment(0) | 境域の守護霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月30日

境域の守護霊との出会い―私の場合と「オルラ」の例

今回は、「境域の守護霊」との出会いの実際の例として、私の場合と、モーパッサンの小説『オルラ』に描かれた、「オルラ」の例をみてみます。

私の体験は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『 12 初めの「引き金」体験 』から、『22 「闇」ないし「虚無」との接触』までに詳しく述べられています。「境域の守護霊」のことは、記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』当たりから、述べています。

記事では、この存在のことを、「背後の存在」と呼んでいます。実際、場所としては、自分の背後にいるものとして感じることが多く、また、常に自分と近しいものであることは感じていました。ただし、常に背後にいたわけではなく、別の場所で、遭遇したこともあります。

ある時期から、その存在を直に「感じる」、「声を聞く」ということは、しょちゅう起こっていましたが、姿形を視覚的に「見る」ということは、それほど多くはなかったと思います。

シュタイナーは、「妖怪じみた姿」として出会われると言いますが、確かに、映画『ゴーストバスターズ』に出て来るゴーストのような、不気味な姿で現れることはよくありました。一方、私自身の昔の姿(ただし、身長は1メートル少しかない)で、出会ったこともあり、何と、当時普段着として愛用していたウインドブレーカーを着ていました。

もちろん、恐ろしい面はあるのですが、私の場合、恐怖をそれほど感じなかったのには、明白な理由があります。それは、この存在との出会いに先だって、他の存在が、明らかに他者的で、悪魔的な存在として、現れ出ていたからです。(記事では、「アール」及び「ルーシー」と呼んでいます。)そのような存在との出会いが、明白に恐怖をもよおすものだったので、それとの対比で、それほど恐怖を感じることなく済んだということです。

私は、いろいろ攻撃を仕掛けて来る、他者的な存在を、「敵」とみなしていて、それとの対比で、背後の存在を、「味方」とみなす、というより、決めつけていました。そのような恐ろしい状況では、(さらに敵を増やすことなどしたくなく)とても、そうしないではいられなかったというのもあります。

しかし、既にみたように、常に「自分に近い」ものを感じていた、言い換えると、どこか「安心できる」ものを感じていたのは事実です。ただし、自分自身そのものではないのは明白で、はっきりと、自分とは別である、一つの生きた存在ということは、意識させられます。

「声」としても、自分が言いそうなことを言うのではないし、性格等も、かなり違います。恐ろしい面はありますが、非常に、いたずら好きな、「トリックスター」的な面があり、ユーモアがあるのです。「アニマ」と呼んだ、妖精的な存在も、よく一緒にいたのですが、その存在とは、よく子供のように戯れていました。

ある意味、「愚か」でどうしようもない風でもありますが、私は、それを、「余裕」と解していて、このような存在が味方ならば、きっと大丈夫だ的な見方もしていました。かと思うと、前回の記事でもみたように、非常に高貴で、崇高な面が背後に透けて見えることもあるのです。これは、「大守護霊」としての面が、現れ出ていたと思われます。何しろ、容易には捉え難い、多面的な存在なのです。

多分、私も、このような存在と、初めに出会っていたら、恐怖の方が先だっていたと思います。実際に、後に、悪魔的な存在とは、ある程度「決着」がついて、それほど怖いと思わなくなった頃には、この存在の、「底の知れなさ」のようなものがみえて来て、逆に、こっちの方が恐ろしくなって来たということがあります。他者的な存在を呼び寄せたのもこの存在で、むしろ、実質的に支配さえしているのではないかという疑いも持ちました。

私は、当時は、「境域の守護霊」などというものは知らなかったし、「自分自身が生み出した存在」とも思っていませんでした。ただ、繰り返すように、「自分自身に近しい存在」というのは常にあったのと、ある種の「守護霊的な存在」というのは、希望的にも、持ち続けていました。しかし、いずれにせよ、実際には、「分からない」としか言いようのないもので、その「分からなさ」が、恐怖をもたらす面は、常にありました。(これは、当時出会っていたすべての存在について言えることですが、この存在については、特にそれが言えるのです。)

今現在はと言うと、この存在については、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」というのが、ピッタリ来ます。何か、他の存在というよりも、やはり、私自身の生み出した存在で、過去と未来の、自己の全体を反映するものということで納得ができます。やはりこれも、他の他者的な存在と比較することで、なし得る認識ということができます。

シュタイナーは、「境域の(小)守護霊」は、自らが導かなければならないと言いますが、私は、ほとんどそれができてはいませんでした。と言っても、決して振り回されたのではなく(これも、他者的な存在に十分振り回されていたので、この存在については、そうならなかったに過ぎない面がありますが)、一種「傍観」するような感じでいたことが多いです。

ちなみに、この「境域の守護霊」は、現在も身近に存在しているし、声を聞くことも多いです。ただ、相変わらず、一種「傍観」するようなことが多く、私から働きかけることはほとんどないし、向こうも、特に私に対して、どうこうしようということもないような関係です。恐ろしい面もほとんどなく、かといって、特に高貴な面を見せるでもなく、とても安定していると言えば言える状態です。

今後、どのように発展して行くかは、未知数ですが、ともに、成長に向かっていると信じたいです。

次に、モーパッサンの「オルラ」の例をみてみます。

モーバッサンの怪奇小説『オルラ』は、「境域の守護霊」との鬼気迫るような出会いを、迫真的に描き出しています。モーパッサンは、実際に精神を患って、入院したのですが、この「オルラ」との出会いは、事実に基づく部分が多くあると感じます。私の例との対比でも、とても興味深いものがあります。

モーパッサン(以下「主人公」)は、ある時から、非常な違和感とともに、何かある存在が身近にいて、自分を乗っ取ろうとしているような感覚に襲われます。そして、その姿が見えるわけではないですが、水を入れておいた水差しに、水がなぜかなくなっていたり、食事を置いていた机から、なぜか牛乳だけなくなっているような体験をします。主人公は、とても怯えますが、何か他の見えない存在がそうしたのだとはとても信じ難く、自分が夢遊病状態に陥ったのだとして、納得しようとします。

また、バラ園に行くと、自分が持ったわけでもないのに、バラが一輪上に持ち上げられて、目の前でもぎ落とされるのをはっきりと見ます。主人公は、非常に驚き、恐れますが、これも幻覚なのだとして何とか納得しようとします。ところが、もはや自分の意志というものが失われていき、何者かに乗っ取られている感覚は、疑いないものとなって来ています。

その後、あらゆる超自然的存在について、調べるべく、本を読んでいましたが、うとうとしていると、机の上の本が勝手にめくれていくのを、はっきりと見ます。そして、もはやこのときは、自分ではなく、他の見えない存在が本を読んでいるのを、はっきりと感じ取ります。そして、その存在が、自分のことを「オルラ」と名乗ったように感じます。

それは、かつて「地の精、生霊、神霊、仙女、妖怪」など、あらゆるおぞましい形で呼ばれていたものですが、その実態がつかめていなかった存在です。しかし、こうして自分の前に現れた「オルラ」は、もはや人間にとって代わる存在で、人間が牛や馬に対してしていたように、人間を所有し、奴隷にし、しかも食するものと感じます。

主人公は、この存在を殺さない限り、自分が殺されると思いますが、この存在には体がないので、殺すことはできないことに気づきます。そして、最後に、「ということは自分自身が死ぬのだ」という言葉を残して、この小説は閉じられます。

この「オルラ」は、非常に恐ろしいものに仕立て上げられていますが、多くの点で、私の場合と共通するものがあります。主に、「背後にいる」ように感じられるのも、いたずら好きな、「トリックスター」的な面も、私の場合と共通しています。主人公は、「自分を乗っ取る」と言っていますが、実質、自分と近い存在のはずなのです。

主人公は、このオルラについて、初めは、漠然と存在を感じるだけですが、それに、様々に想像を膨らまし、また、いろんなものを投影して、とても恐ろしいものに仕立て上げてしまったのです。

しかし、実際に、この存在が、主人公に仕掛けたことをみてみると、それは、超常的なものであるのは確かとしても、ある種「ユーモア」に満ちた、トリックスター的な「悪戯」というべきものが多いのです。

水差しの中の水や牛乳だけを、なぜか飲んだり、バラを持ち上げて主人公の前でもぎ落としたり(これらは、主人公の意志を読んで、先取的に行ったものと解せます)、あらゆる超自然的な存在のことの書かれた本を、自らが読むというのも、皮肉を含んだ、「悪戯」的な行為と言えるでしょう。

ただし、私も、このような存在を、近くに感じるだけで、恐ろしいのがよく分かるし、他者的な存在が、明白に現れ出ていない分、この存在に、恐怖する面が一身に浴びせられ、さらに、「悪魔的」な存在の性質まで、投影されていたのが分かります。

私も、先に他の存在に出会っていなかったら、これに近いことになっていたような気もします。

ただ、このような結果に陥ったのは、「オルラ」が何かしたからだと言うよりも、主人公が、自ら恐怖に突き動かされて、思考と想像を膨らませて、「自爆」して行ったのです。自分に近い存在ではなく、完全な他者的な存在として、自分を乗っ取るものと思ってしまったからです

このような存在を、「境域の守護霊」として認識できることが、いかに重要なことかが分かるでしょう。

しかし、それは、まさに、「境域の守護霊」としてみれば、「霊界の境域」に入る準備がなく、ふさわしくない者を、追い返したということになるのだと言えます。

なお、『狂気をくぐり抜ける』の記事、『「実体的意識性」と「オルラ」』でも、このオルラとの出会いについて述べていますので、そちらも参照ください。

posted by ティエム at 02:06| Comment(0) | 境域の守護霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする