2020年01月30日

境域の守護霊との出会い―私の場合と「オルラ」の例

今回は、「境域の守護霊」との出会いの実際の例として、私の場合と、モーパッサンの小説『オルラ』に描かれた、「オルラ」の例をみてみます。

私の体験は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『 12 初めの「引き金」体験 』から、『22 「闇」ないし「虚無」との接触』までに詳しく述べられています。「境域の守護霊」のことは、記事『14 「幻聴」から「幻視」へ』当たりから、述べています。

記事では、この存在のことを、「背後の存在」と呼んでいます。実際、場所としては、自分の背後にいるものとして感じることが多く、また、常に自分と近しいものであることは感じていました。ただし、常に背後にいたわけではなく、別の場所で、遭遇したこともあります。

ある時期から、その存在を直に「感じる」、「声を聞く」ということは、しょちゅう起こっていましたが、姿形を視覚的に「見る」ということは、それほど多くはなかったと思います。

シュタイナーは、「妖怪じみた姿」として出会われると言いますが、確かに、映画『ゴーストバスターズ』に出て来るゴーストのような、不気味な姿で現れることはよくありました。一方、私自身の昔の姿(ただし、身長は1メートル少しかない)で、出会ったこともあり、何と、当時普段着として愛用していたウインドブレーカーを着ていました。

もちろん、恐ろしい面はあるのですが、私の場合、恐怖をそれほど感じなかったのには、明白な理由があります。それは、この存在との出会いに先だって、他の存在が、明らかに他者的で、悪魔的な存在として、現れ出ていたからです。(記事では、「アール」及び「ルーシー」と呼んでいます。)そのような存在との出会いが、明白に恐怖をもよおすものだったので、それとの対比で、それほど恐怖を感じることなく済んだということです。

私は、いろいろ攻撃を仕掛けて来る、他者的な存在を、「敵」とみなしていて、それとの対比で、背後の存在を、「味方」とみなす、というより、決めつけていました。そのような恐ろしい状況では、(さらに敵を増やすことなどしたくなく)とても、そうしないではいられなかったというのもあります。

しかし、既にみたように、常に「自分に近い」ものを感じていた、言い換えると、どこか「安心できる」ものを感じていたのは事実です。ただし、自分自身そのものではないのは明白で、はっきりと、自分とは別である、一つの生きた存在ということは、意識させられます。

「声」としても、自分が言いそうなことを言うのではないし、性格等も、かなり違います。恐ろしい面はありますが、非常に、いたずら好きな、「トリックスター」的な面があり、ユーモアがあるのです。「アニマ」と呼んだ、妖精的な存在も、よく一緒にいたのですが、その存在とは、よく子供のように戯れていました。

ある意味、「愚か」でどうしようもない風でもありますが、私は、それを、「余裕」と解していて、このような存在が味方ならば、きっと大丈夫だ的な見方もしていました。かと思うと、前回の記事でもみたように、非常に高貴で、崇高な面が背後に透けて見えることもあるのです。これは、「大守護霊」としての面が、現れ出ていたと思われます。何しろ、容易には捉え難い、多面的な存在なのです。

多分、私も、このような存在と、初めに出会っていたら、恐怖の方が先だっていたと思います。実際に、後に、悪魔的な存在とは、ある程度「決着」がついて、それほど怖いと思わなくなった頃には、この存在の、「底の知れなさ」のようなものがみえて来て、逆に、こっちの方が恐ろしくなって来たということがあります。他者的な存在を呼び寄せたのもこの存在で、むしろ、実質的に支配さえしているのではないかという疑いも持ちました。

私は、当時は、「境域の守護霊」などというものは知らなかったし、「自分自身が生み出した存在」とも思っていませんでした。ただ、繰り返すように、「自分自身に近しい存在」というのは常にあったのと、ある種の「守護霊的な存在」というのは、希望的にも、持ち続けていました。しかし、いずれにせよ、実際には、「分からない」としか言いようのないもので、その「分からなさ」が、恐怖をもたらす面は、常にありました。(これは、当時出会っていたすべての存在について言えることですが、この存在については、特にそれが言えるのです。)

今現在はと言うと、この存在については、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」というのが、ピッタリ来ます。何か、他の存在というよりも、やはり、私自身の生み出した存在で、過去と未来の、自己の全体を反映するものということで納得ができます。やはりこれも、他の他者的な存在と比較することで、なし得る認識ということができます。

シュタイナーは、「境域の(小)守護霊」は、自らが導かなければならないと言いますが、私は、ほとんどそれができてはいませんでした。と言っても、決して振り回されたのではなく(これも、他者的な存在に十分振り回されていたので、この存在については、そうならなかったに過ぎない面がありますが)、一種「傍観」するような感じでいたことが多いです。

ちなみに、この「境域の守護霊」は、現在も身近に存在しているし、声を聞くことも多いです。ただ、相変わらず、一種「傍観」するようなことが多く、私から働きかけることはほとんどないし、向こうも、特に私に対して、どうこうしようということもないような関係です。恐ろしい面もほとんどなく、かといって、特に高貴な面を見せるでもなく、とても安定していると言えば言える状態です。

今後、どのように発展して行くかは、未知数ですが、ともに、成長に向かっていると信じたいです。

次に、モーパッサンの「オルラ」の例をみてみます。

モーバッサンの怪奇小説『オルラ』は、「境域の守護霊」との鬼気迫るような出会いを、迫真的に描き出しています。モーパッサンは、実際に精神を患って、入院したのですが、この「オルラ」との出会いは、事実に基づく部分が多くあると感じます。私の例との対比でも、とても興味深いものがあります。

モーパッサン(以下「主人公」)は、ある時から、非常な違和感とともに、何かある存在が身近にいて、自分を乗っ取ろうとしているような感覚に襲われます。そして、その姿が見えるわけではないですが、水を入れておいた水差しに、水がなぜかなくなっていたり、食事を置いていた机から、なぜか牛乳だけなくなっているような体験をします。主人公は、とても怯えますが、何か他の見えない存在がそうしたのだとはとても信じ難く、自分が夢遊病状態に陥ったのだとして、納得しようとします。

また、バラ園に行くと、自分が持ったわけでもないのに、バラが一輪上に持ち上げられて、目の前でもぎ落とされるのをはっきりと見ます。主人公は、非常に驚き、恐れますが、これも幻覚なのだとして何とか納得しようとします。ところが、もはや自分の意志というものが失われていき、何者かに乗っ取られている感覚は、疑いないものとなって来ています。

その後、あらゆる超自然的存在について、調べるべく、本を読んでいましたが、うとうとしていると、机の上の本が勝手にめくれていくのを、はっきりと見ます。そして、もはやこのときは、自分ではなく、他の見えない存在が本を読んでいるのを、はっきりと感じ取ります。そして、その存在が、自分のことを「オルラ」と名乗ったように感じます。

それは、かつて「地の精、生霊、神霊、仙女、妖怪」など、あらゆるおぞましい形で呼ばれていたものですが、その実態がつかめていなかった存在です。しかし、こうして自分の前に現れた「オルラ」は、もはや人間にとって代わる存在で、人間が牛や馬に対してしていたように、人間を所有し、奴隷にし、しかも食するものと感じます。

主人公は、この存在を殺さない限り、自分が殺されると思いますが、この存在には体がないので、殺すことはできないことに気づきます。そして、最後に、「ということは自分自身が死ぬのだ」という言葉を残して、この小説は閉じられます。

この「オルラ」は、非常に恐ろしいものに仕立て上げられていますが、多くの点で、私の場合と共通するものがあります。主に、「背後にいる」ように感じられるのも、いたずら好きな、「トリックスター」的な面も、私の場合と共通しています。主人公は、「自分を乗っ取る」と言っていますが、実質、自分と近い存在のはずなのです。

主人公は、このオルラについて、初めは、漠然と存在を感じるだけですが、それに、様々に想像を膨らまし、また、いろんなものを投影して、とても恐ろしいものに仕立て上げてしまったのです。

しかし、実際に、この存在が、主人公に仕掛けたことをみてみると、それは、超常的なものであるのは確かとしても、ある種「ユーモア」に満ちた、トリックスター的な「悪戯」というべきものが多いのです。

水差しの中の水や牛乳だけを、なぜか飲んだり、バラを持ち上げて主人公の前でもぎ落としたり(これらは、主人公の意志を読んで、先取的に行ったものと解せます)、あらゆる超自然的な存在のことの書かれた本を、自らが読むというのも、皮肉を含んだ、「悪戯」的な行為と言えるでしょう。

ただし、私も、このような存在を、近くに感じるだけで、恐ろしいのがよく分かるし、他者的な存在が、明白に現れ出ていない分、この存在に、恐怖する面が一身に浴びせられ、さらに、「悪魔的」な存在の性質まで、投影されていたのが分かります。

私も、先に他の存在に出会っていなかったら、これに近いことになっていたような気もします。

ただ、このような結果に陥ったのは、「オルラ」が何かしたからだと言うよりも、主人公が、自ら恐怖に突き動かされて、思考と想像を膨らませて、「自爆」して行ったのです。自分に近い存在ではなく、完全な他者的な存在として、自分を乗っ取るものと思ってしまったからです

このような存在を、「境域の守護霊」として認識できることが、いかに重要なことかが分かるでしょう。

しかし、それは、まさに、「境域の守護霊」としてみれば、「霊界の境域」に入る準備がなく、ふさわしくない者を、追い返したということになるのだと言えます。

なお、『狂気をくぐり抜ける』の記事、『「実体的意識性」と「オルラ」』でも、このオルラとの出会いについて述べていますので、そちらも参照ください。



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2020年01月16日

「境域の大守護霊」について

今回は、「境域の大守護霊」について述べます。前回にも、ある程度触れており、ざっと、みておくだけのつもりでしたが、「境域の小守護霊」との対比をはっきりさせるためにも、ある程度は詳しく述べることにしました。

「境域の小守護霊」は、過去の総決算としての自己が、自分の外に霊的な存在として、生み出されたものでした。その形姿は、「低次」の性質を反映して、「妖怪じみた」ものともなります。

それに対して、「境域の大守護霊」は、いまだ顕現せざる、未来の「進化」した自己が、外的な存在として現れ出たものです。それは、「高次」の性質を反映して、高貴で光輝く形姿をしています。ただし、準備なくこれと出会う者は、それに圧倒されて、「恐ろしい恐怖感」、「底知れぬ不安」を感じることにもなります。

こう対比すると、「低次の自我」(の現れ)=「小守護霊」、「高次の自我」(の現れ)=「大守護霊」という風に思われるかもしれません。しかし、シュタイナーは、あくまで、「良い面、悪い面を含めた」意味での、過去の総決算が「小守護霊」であり、未来のあるべき理想の姿が現れるのが、「大守護霊」だと言います。現にある「自己」としての「低次の自我」や「高次の自我」が、そのまま「小守護霊」や「大守護霊」というわけではありません。

ただ、シュタイナーは、「進化」または「霊的成長」ということを当然の前提にしているので、事実上、「小守護霊」は 「低次の自我」を多く反映し、「大守護霊」は「高次の自我」を多く反映することにはなるはずです。

「境域の小守護霊」は、その、ときに醜悪な形姿を通して、本人に自己認識を与え、いかにそれを、よき姿へと変化させなくてはならないか。そして、それを自らが導いていかなければならないか、を明らかにしていました。

それに対して、「境域の大守護霊」は、その変化の先にある、「理想」の姿を見せることによって、本人に、進むべき方向を導くものです。

「境域の小守護霊」は、霊界の境域に入って、思考・感情・意志の分裂が、「アストラル体」または「エーテル体」のレベルでなされる頃に出会われるのでした。それに対して、「境域の大守護霊」は、思考・感情・意志の分裂が、肉体レベルにまで及んだ頃に、出会われるとされます。

それは、思考・感情・意志の分裂が、より進むと同時に、高次の意識によって、それらの統制が、十分にできるようになった頃を意味します。あるいは、霊的な世界との合一が進んで、もはや感覚的なものに左右されることがなくなった頃、さらには、霊的な事象において、個人的なものを排して、客観的に判断できるようになった頃ともされます。

要は、「低次の自我」が、ほとんど克服されて、「高次の自我」が十分に働くようになった頃ということになると思います。それは、とりあえず、境域に入って間もなく出会われる可能性のある「小守護霊」と違って、相当のレベルまで進んで初めて、出会われるものということになるでしょう。

実際、シュタイナーは、これとの出会いも、「物語形式」で、綴っていますが、それは、次のようなものです。

おまえは感覚世界からの束縛を脱し、超感覚的世界の市民権を獲得した。今後は超感覚的世界から働きかけることができる。おまえは自分自身のためには、現在所有しているおまえの肉体を、もはや必要としない。おまえがこの超感覚的世界に住むことだけを求めるとすれば、もはや感覚世界の中に帰る必要はないであろう。

しかし私の姿を見なさい。そして今日までおまえが作り出してきたすべてのものに比べて、どれ程この私の姿が限りなく崇高に見えるか、あらためて考えなさい。おまえが感覚世界に生き、その中で獲得してきた能力によって、おまえは現在の完成段階にまで到達した。

しかし今からおまえは、解脱によって得た力をこの感覚世界のために役立たせねばならない。これまでおまえは自分自身の救済のみを計ってきた。解脱した今、感覚世界に住むすべてのおまえの仲間たちの救済のために働かねばならない。これまでおまえは一人の人間として努力してきた。これからは全体の中に自分を組み入れる必要がある。そしておまえだけではなく、感覚世界に生きる他のすべての人々をも、超感覚的世界へ導こうと努めねばならない、その過程でいつかはおまえも、私の姿と合一することができよう


内容は明確であり、特に、説明は不要でしょう。もはや、この感覚世界から解脱し得るという状況での、進むべき方向の選択が問題となっているのです。

まるで、ブッダが悟った後、そのまま涅槃に入ろうとしたときに、人々を教え導くべく、説法をしてくださいと諭す、梵天との出会いのような話です。あるいは、大乗仏教で言う「菩薩」の道そのもので、いわゆる「不住涅槃」(あえて涅槃に入らない)のあり方そのののような話でしょう。

しかも、「境域の大守護霊」は、このような道に進まず、自らの「浄福感」のみを求めて、解脱しようとする方向は、「黒い道」であり、 結局は、人々が自分の上を通り過ぎて行き、自分はそこから閉め出されることになる、とまで言うのです。

実際、シュタイナーも言うように、その方向は、自己の利己的な欲望を適えることには違いないですが、「黒い道」とまで言うのには、首を傾げたくなるでしょう。

しかし、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『「霊的な方向」と「ルシファー」との関わり』でも述べたように、実は、このような誘惑は、霊的な方向を進もうとする者には、非常に強いもので、そこには、「ルシファー存在」の強力な働きかけもあるのです。シュタイナーも、本当に「誘惑」と言えるような「誘惑」は、実は、この誘惑のほかにはないと言います。

実際には、自己の欲望を突き進めるものでありながら、自分では、より高い段階へと進むものだと誤信されてしまうことも、厄介なことです。かつてのオウムにもあったように、カルト的な宗教団体には、つきものの出来事です。

これは、霊的な方向に進もうとするとき、必ず伴う大きな問題なので、「境域の大守護霊」が、光り輝く姿を見せつつ、そのような方向ではなく、全体を導く、より崇高な、進むべき道を指し示すことは、非常に重要なことと、シュタイナーも考えていることが分かります。

実際、この「境域の大守護霊」は、「キリスト」そのものだったことが分かるともされています。もはや、「高次の自我」という、個人的なものを超えた、集合的、あるいは全体的な(一種「神的」な)存在となっているのです。「高次の自我」として、ある段階に達したとしても、さらに、そのような段階にまで、進むべき方向が示されるということです。

ただ、繰り返すと、このようなことは、「低次の自我」がある程度克服されて、「境域の小守護霊」の姿がかなり変化し、「高次の自我」が十分働くようになった段階で、「小守護霊」に代わるようにして、「大守護霊」の姿が、いわば、非常に純化された形で、現れ出たものと解すべきです。

しかし、「境域の大守護霊」が、「自己の未来の姿」であるとすれば、それは、必ずしも、このように純化された形でなくとも、境域に入って、相当の時期に、その都度、現れ出る可能性はあります。それは、前回にもみたように、「境域の小守護霊」と重なるようにして、あるいはその背後に、垣間見られるということもあるのです。実際、私の場合はそうでした。

それで、「境域の守護霊」は、「恐るべき面」があると同時に、「高貴」で「崇高」な面も同時にのぞかせるので、私は困惑し、捉え難い思いもずっと持っていました。

シュタイナーの言うような、純化されたものだけが「境域の大守護霊」だと思っていると、やはり困惑するものがあると思うので、あまりそれに捕らわれずに、要するに、「自己の未来像」であり、「境域の小守護霊」と重なるように現れ出ることもある、ということを押さえておくことも必要と思われます。

いずれにしても、「境域の守護霊」は、全体として「自己」の生み出した、自己の鏡のような像なのであり、その醜悪な面は自己が導いて変えていき、崇高な面は、自己の未来像として、励みや導きの糸としていくことが、求められるということです。

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2019年12月26日

「境域の守護霊」 との出会い

記事『「霊界の境域」と「霊的鏡像」』((四回前の記事)で、「霊的鏡像」について述べ、それは、「自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たもの」と言いました。そして、「この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展する」、「個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となる」と述べました。

今回は、この「境域の守護霊」について述べます。

「境域の守護霊」は、上に示したように、自分自身が「霊界の境域」に生み出した存在です。個々の想念ではなく、自分自身の、過去の思考や行動の総決算のような、本性の全体的な現われです。ただし、すでに述べたように、自分自身が生み出したと言っても、自分と切り離されて、一個の独立的な存在となった以上、もはや「他者」的な存在となったとも言えます。実際に、出会ったときも、はっきりと、自分自身とは、別の存在と感じられます。ただ、どこか、自分に近しいものという思いは、常に伴います。(この「出会い」の具体的な状況については、次回、私自身の例として述べたいと思います。)

シュタイナーは、この「境域の守護霊」は、「思わず怖気立つような、妖怪じみた存在」として出会われるといいます。実際に、「恐るべき面」をもつものとして、出会われるのです。

「境域の守護霊」は、「守護霊」といわれますが、決して、自分自身を「護っ」ているわけではありません。「護る」とすれば、「霊界の境域」そのものを「護」り、あるいは「監視」しているのです。「霊界の境域」に入るのにふさわしくない者を、脅かしたり、試練を与えて、入らせないようにしているということです。

ちょうど、神社の門前における狛犬や、寺院の門前における仁王のような働きです。ただし、「霊界の境域」が危険に満ちた領域であることは、記事『「霊界の境域」の危険性』で、十分にみました。だから、その準備がない者を、そこに入らないように、追い帰すということは、結果として、その者自身も危険から護っていることにはなります。

「境域の守護霊」には、二種類あり、一つは「境域の小守護霊」、もう一つは「境域の大守護霊」です。後者の「大守護霊」についても、次回に述べますが、まず、「霊界の境域」で出会う可能性があるのは、前者の「小守護霊」なので、こちらを重点的に述べます。

シュタイナーによれば、「霊界の境域」に入って、思考、感情、意志の結びつきが、(エーテル体、アストラル体のレベルで)解け始めた頃に、この「境域の守護霊」と出会うと言います。思考、感情、意志の分裂については、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』(三回前の記事)で、既に述べました。逆に、この出会いによって、人は、思考、感情、意志の自然な結びつきが、外れてしまったことを意識することになるのです。これは、非常に不安定な状態ですから、よほど意識を鍛えていて、強く保っていないと、もちこたえられない可能性も高くなります。

「境域の守護霊」との出会いについて、シュタイナーは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)p228以降に、物語形式で、大枠を述べています。シュタイナーにしては、とても分かり易く、心情的にも訴えかける内容のものですので、それを読んでもらうのが一番いいです。ここでは、その要点となることのみを、述べます。

「境域の守護霊」は、「過去の一切の良き面と悪しき面とが内部から取り出され、人格の外に出たもの」です。それまでは、内部に眠っていたものが、独立の存在として、外部に現れ出て、一つの客観的な「形姿」として、見られるものとなったのです。それが、「妖怪じみたもの」だとしても、それは、自分自身の(前世を含む)過去の行いの総決算として現れ出ているのです。つまり、自分自身の、自分でも知らなかった本性を、知ることそのものだということです。

記事「低次の自我」と「高次の自我」』(前々回の記事)で、「霊界の境域」を乗り越えるには、通常の「低次の自我」から、「高次の自我」へと移行することが問題であることを述べました。そして、「低次の自我」は、まさに低次の欲望や衝動を植え込まれているものであることを述べました。それは、「ルシファー存在」のような、悪魔的存在から由来しているものです。だから、それが、包み隠さず現れるとき、「妖怪じみた存在」となるのも、当然の面があるのです。

それまでは、そのような面と直面するだけの勇気も能力も欠いていました。しかし、「境域の守護霊」との出会いにおいて、そのような可能性が開かれたということです。

「境域の守護霊」は、過去の総決算ですが、同時に、今後の本人の思考や行いを反映して、刻々と変化していきます。ですから、この守護霊の姿を、光輝く壮麗な形姿に変えることが、その者の今後の課題となるのです。そして、この守護霊を、光輝く壮麗な形姿となし得た時、それは再び本人と合一するといいます。それは、まさに、「低次の自我」から、「高次の自我」への移行ということでもあります。

「境域の守護霊」は、まさに、このような移行の過程を、目に見えるものとして、はっきりと映し出すものともなるのです。

シュタイナーは、「境域の守護霊」は、「高次の自我」への移行を「妨害する」ものともなると言います。それは、悪魔的な本性をもったものだとしたら、当然のことといえます。ですから、自分自身が、「境域の守護霊」のそのような傾向に振り回されず、打ち勝っていかなくてはなりません。

しかし、「境域の守護霊」は、未だ十分には生まれざる、「高次の自我」を反映するものでもあります。それは、良くも悪くも、「自己」の全体を露わにする存在だからです。次回みる「境域の大守護霊」は、まさに、そのような「高次の自我」の現われです。しかし、「境域の小守護霊」にも、そのような面が、重なるようにして、現れないわけではありません。「境域の守護霊」が、今後の目指すべきあり様を、目に見せるように示すことで、導きになることもあるということです。

あるいは、少なくとも、それは、「低次の自我」の悪魔的面を克服して、「高次の自我」へと移行することは、可能であるということを、指し示していることにはなります。

このように、「境域の守護霊」との出会いの意味は、その存在の形姿を鏡のようなものとして、自覚的に、「高次の自我」への移行をなし、「霊界の境域」を乗り越えるということにあります。

しかし、「境域の守護霊」が生み出される前との関係で言うと、それは、記事『「霊界の境域」と「人格の分裂」』でみたように、それまではあった、様々な存在による、導きや支援を外されるので、それらの働きを、自分自身でなさなければならなくなったということです。「境域の守護霊」自体が導くことがあるとしても、それは、自分自身が生み出したものです。

要は、何かを頼るのではなく、主体的なあり方を、徹底しなければならなくなったということです。

それまではあった導きの一つとして、大きなものに、「カルマ」の働きがあります。それは、善い行いには良い結果を、悪い行いには悪い結果をもたらすことで示されましたが、時間的なラグも大きく、ただ内的に感得されるほかないものでした。しかし、それは、その後は、「境域の守護霊」を通して、即座に目に見えるものとなるので、もはや意識的、自覚的なものとなります。「カルマ」的な結果を、自分自身で生み出しつつ、克服していくべきものということになるのです。それは、いわば、「カルマを超える道」と言うこともできます。

次回は、「境域の大守護霊」について、簡単に述べたいと思います。

なお、「境域の守護霊」については、『狂気をくぐり抜ける』の方のプログでも、次のような記事で述べていますので、ぜひ参照してください。

「境域の守護霊」とは
「境域の守護霊との出会い」まとめ』 
「守護天使」から「境域の守護霊」へ
 
posted by ティエム at 19:30| Comment(0) | 境域の守護霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

補足 低次の自我から高次の自我へ

前回の補足になります。

前回、「低次の自我から高次の自我への移行」ということを、「霊界の境域」に入ると、低次の自我が混乱して、行き詰まり、一種の死を迎えるので、潜在していた、高次の自我へと譲り渡されなくてはならなくなる、ということで説明しました。

こう言うと、「低次の自我」と「高次の自我」が、全く別ものであるかのように思われるかもしれません。しかし、当然ですが、これらは、いずれも、自分自身の「本性」の現れとして、本来は、一つのものです。「魂」あるいは「霊」は、様々に分離する可能性のあるもので、「自我」や「人格」というのも、分離して現れ出ることがあるのは、既に何度か述べました。

あるいは、低次の自我と高次の自我は、無意識領域では、つながっていると言った方が、分かりやすいかもしれません。

意識領域では、「低次の自我から高次の自我への移行」は、一種の「断絶」として感じられますが、無意識領域では、「連続性」があるということです。

これを図で表すと、次のようになります。

自我の移行1.png

ただ、このような移行が、断絶として感じられるのは、低次の自我が、未熟であったからであり、「霊界の境域」へ入ることが、準備もなく、望まずして起こったのであったことが、大きく影響しています。私自身、そうでしたので、説明は、そのような観点からの説明になっています。

シュタイナーの言うような、自覚的な修行において、自我が霊界の参入に向けて、それなりの準備をし、十分鍛えられていた場合、「霊界の境域」での混乱は、より少なく、高次の自我への移行は、よりスムーズに行くと思われます。その場合は、意識領域でも、連続性をもって、移行が可能と思われます。

図にすると、つぎのようになります。

自我の移行2.png

シュタイナーは、自然な成長の先に、あるとき気がついたら、高次の自我へと移行していたというのが、理想の形だと言います。しかし、そのような場合は、稀だと思います。

自覚的な修行をしていて、高次の自我への移行が、スムーズに行くこと自体も、かなり少ないことと思われ、やはり、何らかの意味で、「断絶」が起こるのが、普通のことと思われます。

ただし、低次の自我が、断絶となるような、「死」を迎えれば、高次の自我が、必然的に浮上するというわけではありません。移行が起こるには、高次の自我が、その時点で、少なくとも、何らかの意味で、目覚め始めている(意識に浮上する可能性あるものとなっている)必要はあります。そこで、霊的なものへの何の指向も、準備もなしに、移行が起こるということは、考えにくいことです。

私の場合も、霊界の境域に入った時点で、ある程度の霊的な指向や知識はありました。ただ、それも、実際に入ってみると、とってつけたようなものだったことが分かり、十分には役立ったとは言えません。それで、低次の自我にとっては、霊界の境域は、未知の状況そのもので、遂には、完全に行き詰まり、「死」を迎えることになったので、断絶の要素は、はっきりと伴いました。

何しろ、現代人にとっては、このような移行は、それだけ大変なことであることは、強調しておきます。

posted by ティエム at 00:43| Comment(0) | 霊界、霊界の境域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月04日

「低次の自我」と「高次の自我」

前回、「霊界の境域」では、人格(思考・感情・意志)が分裂するので、それまでの自我ではなく、新たに目覚める「高次の自我」によって、統合されなくてはならなくなることを述べました。

この、「それまでの自我」というのは、新たに目覚める「高次の自我」に対して、「低次の自我」とも言われます。今回も、「境域の守護霊」について述べる前に、この「低次の自我」と「高次の自我」について、簡単に説明しておくことにします。

「低次」とか「高次」 というのは、多分に「価値的」な表現で、抵抗のある人もいるかと思います。その場合は、より客観的に、「狭い(限定された)自我」と、「広い(限定の少ない)自我」ということで、捉えればよいと思います。あるいは、「日常的な自我」と「それを超えた自我」と言ってもいいでしょう。スピリチュアリズムでは、「小我」と「大我」などとも言われます。

いずれにしても、通常の「自我」は、この物質的な世界に生まれて、この世界を規定する、文化的信念体系の中で育ちます。それは、非常に狭く、様々な限定を受けるものにならざるを得ません。特に、近代社会は、知的には、高度なものとみなされていますが、「霊的なもの」を否定する文化なので、「霊的なもの」を前にしたときには、その狭さが、大きく浮き彫りになります。近代社会以前でも、この物質的な世界に生まれる以上、多かれ少なかれ、狭さがありますが、近代社会では、それがより際立つことになるのです。

現代において、まさに、「霊界の境域」という、それまでの世界とは異なる、より広い世界に入ることは、そのような自我の狭さを、如実に、露にしてしまいます

シュタイナーは、「霊界の境域」では、「高次の自我」による新たな統合のために、人格が分裂するという、「目的的」な表現をしていました。確かに、「目的」という観点からは、そのとおりと言えます。しかし、「霊界の境域」で、人格が分裂するのは、それまでの自我では、狭すぎて、とても対応できなくなるからでもあるのです。

それまでの自我は、「霊界の境域」という未知の状況に入ると、混乱し、行き詰まり、一種の限界を迎えます。私の実感で言うと、それは、自我にとっては、明らかに、「死」が差し迫っているという感覚です。もはや、それ自体としては、やっていけなくなったことを、如実に感じ取るのです。そして、思考・感情・意志の統合力を、大きく失うのです。だから、霊界の境域では、思考・感情・意志が分裂するのは、「必然の流れ」と言うこともできます

もちろん、自我も、それに抵抗し、様々にあがいて、「狂気」そのものの様相を呈します。しかし、いずれは、実際に、何らかの意味で、「死」を受け入れざるを得なくなります。そして、最終的には、潜在していた、「高次の自我」を目覚ましつつ、そちらの方に、自らの働きを譲り渡さなくてはならなくなるのです。

「高次の自我」とは、そのように、「霊的なもの」をも受け入れることのできる、より器の広い自我であり、同時に、より強い統合力を発揮し、主体的な働きのできる自我です。

とは言え、そのような移行の過程は、実際には、なかなかスムーズに行くものではありません。特に、望まずして霊界の境域に入った場合は、それが、失敗に終わる場合もままあります。だから、シュタイナーは、自覚的な修行に基づいて、通常の自我を鍛えつつ、霊界の境域に参入する必要を強調するのです。

ただし、自覚的な修行に基づいてなされた場合にも、このような移行は、そう簡単に、一遍になされるものではありません。場合によっては、劇的に、一時になされることもあるかもしれませんが、通常はそうです。

それで、この「低次の自我」から「高次の自我」への移行というものは、それぞれの要素が、様々な葛藤や、せめぎ合いを経つつ、長い時間をかけて、なされることになります。もちろん、一生を越えて、次の生まで持ち越されることもあります。

「境域の守護霊」というのは、自分自身の「本性」の、霊的な現れなのですが、これら「低次の自我」と「高次の自我」の様々な要素が、様々に交錯して現れることになります。ですから、それは、かなり、複雑な様相を呈することにもなります。先に、「低次の自我」は、この世における「日常的な自我」と言いましたが、実際には、この世だけでなく、前世のものも含みます。それで、ますます複雑なものともなるのです。

さらに、シュタイナーが、あえて、「低次」の自我というのは、それが、まさに「低次の欲望や情動」によって、突き動かされることがあるからです。通常の自我に、このような面があることは、誰しも認めざるを得ないと思います。この「低次の欲望や情動」は、シュタイナーによれば、「ルシファー存在」という、「悪魔的存在」によって植え付けられたものです。

それで、「高次の自我」への移行には、そのような、低次の要素が、越えられる―あるいは、シュタイナーは、むしろ、相対する「アーリマン的」な要素との均衡がなされることと捉えるのですが―、必要があることになります。「高次の自我」への移行と言っても、一筋縄では行かないことが、分かると思います。

私自身も、この「低次の自我」の性質が、人一倍強い?故に、なかなか、「高次の自我」への移行がうまくいかず、苦労している面があります。

いずれにしても、「境域の守護霊」とは、このような移行の過程に関わるもので、その移行の過程を、目に見えるように、見せてくれるものとも言えるのです。それについては、次回に述べます。

posted by ティエム at 20:46| Comment(0) | 霊界、霊界の境域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする