2019年10月01日

「霊界の境域」と「霊的鏡像」

シュタイナーは、「霊界の境域」で初めに遭遇する霊的な現象は、「霊的鏡像」であると言います。

前回もみたように、思考、想念というものは、「霊界の境域」では、一つの生命のように、「実体化」して現れるものになります(「想念形態」(エレメンタル))。自分自身の発した想念が、実体化して、鏡に反射するように、「霊界の境域」に現れ出たものが、「霊的鏡像」です。

「鏡に反射する」というように、これは、外部や他者に向かって発せられたものも、自分自身に向かって来るように現れ出ます。たとえば、恐怖や、攻撃性をもって発した想念は、自分自身に、恐れをもよおすような、また自分自身を攻撃して来るようなものとして、跳ね返ってくるのです。しかも、それは、一つの生きた存在のように(たとえば、動物の姿や人の姿として)、現れ出るのです。

シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを知らずに、「霊界の境域」でこのようなものに出会うと、それを他者的な存在として捉えてしまって、恐れをなし、混乱してしまうので、注意を促しているのです。それが、自分自身の発したものであるとに気づけば、自分の思考、感情を制御することで、それらの現象を抑えることができます。

また、それだけでなく、「霊界の境域」で起こることを、客観的に観察し、見極めて行くには、まず、自分自身の発する「霊的鏡像」をそれとして認識することが、不可欠のことになります。「霊的鏡像」は、ただ単独に現れるというよりも、様々な霊的現象にかぶさるように、あるいは、それらに影響するものとして、作用します。

自分自身が、発している思考、想念が、外界に現れる霊的現象に大きく影響するのです。たとえば、恐れや攻撃性をもって接していれば、「霊的鏡像」と同じように、その現れ出る現象そのものも、それを反映して、恐ろしいものとして現れ出てしまいます。(あるいは、そのような想念をエネルギー源にしている存在も多いので、実際に、その存在をより強力なものに、拡大させてしまいます。)

「霊界の境域」では、自分自身が発している「霊的鏡像」が、様々に影響して、外界の景観をもたらしているのです。ですから、その「霊的鏡像」を、自分自身の発するものとして正しく認識し、それを排すようにして、初めて、外界の「客観的な」現象と向き合うことができるということです。

さらに、「霊的鏡像」というのは、結局、自分自身の、それも、多くは、自分でも意識しない、本性のようなものです。

「霊界の境域」では、それが、一つの外的な像として現れ出るので、それを認識することは、結局、自分自身を認識することです。つまり、「霊的鏡像」を通して、(自分でも知らない)自分自身を知ることが、可能になるということです。シュタイナーは、「霊的なもの」の認識を高めて行くには、「自己認識」を通して、自分自身を統制して行くことが、重要ということを強調します。「霊的鏡像」は、そのための、貴重な材料ともなってくれるのです。

ただし、実際に「霊界の境域」に入ったときに、現れ出たものの、何が、「霊的鏡像」で、何が「他者の想念形態」で、何が、「他の霊的存在」なのかということは、そう簡単に判明するわけではありません。

まず、初めに「霊界の境域」に入ったときには、そこで見たり、感じる「知覚」も、細分化されず、曖昧なところが多いのです。ある程度、「知覚」が細分化されて、明確になるまでは、「漠然たる感じ」として、すべてが、同じように、あるいは、混然一体となって、感じられると思います。

また、初めに「霊界の境域」に入ったときには、どうしても「恐怖」の感情が先立つので、「霊界の境域」で出会う存在も、それを反映したり、それにつけ込むような存在が多くなります。「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、「他の霊的存在」であろうと、それらは似たようなものとなり、要するに、「恐れをもよおさせる」、「攻撃的なもの」として迫って来るのです。それで、それらの見分けも、難しくなります。

ただ、前回もみたように、「想念形態」は、それに捕らわれず、無視できるような態度でいれば、いずれは、自然に勢いを衰えさせて、消滅してしまうものです。これは、自分の「霊的鏡像」であろうと、「他者の想念形態」であろうと、同じと解されます。(ただし、次回みるように、一時的な想念の現れである「霊的鏡像」ではなく、もっと本質的な、自己の性質あるいは、存在そのものの現れというべき「ドッペルゲンガー」や「境域の守護霊」になると、そのように消滅してしまうものとは言えません。この点については、次回にみます。)

ところが、「他の霊的存在」となると、無視するような態度でいれば、攻撃力を減退はしますが、その存在そのものが、衰えたり、消えて行くということはありません。そして、ある程度の経験を通して、自己の感情的な抑制がつくようになると、「霊的鏡像」の覆いもとれて、「他の霊的存在」の性質も、客観的に現れやすくなります。そのようにして、「想念形態」と「他の霊的存在」の見分けは、かなり明白に、つくようになると言えます。

それにしても、まず、「霊界の境域」で、初めに出会うものは、自分自身の「霊的鏡像」である可能性が高いことを、予め知っておくことは重要です。あるいは、何か、客観的な現象が現れ出ているとしても、そこには、自分自身の「霊的鏡像」が影響を与えていることを知ることが、重要なのです。そして、その自分自身の発するものを正しく認めて、それに捕らわれず、それを排したうえで、外界を客観的に見極めるようにすることが、必要なのです。

私の場合も、初め、霊界の境域で、襲いかかって来るものは、漠然として、あやあやだったものが、段々と知覚的にも細分化して、明確化してくるようになりました。あやふやだったり、不鮮明なものは、表に現れなくなりましたが、最終的に、もっと強力で、明白な他者的な存在が現れ、それに取り巻かれるようになりました。

私は、「霊的鏡像」というものは知りませんでしたが、心理的な「投影」ということは十分意識していて、初め、漠然と襲って来るものは、この自分自身の思いの「投影」ではないかと疑っていました。これらは、実際、本当に、何らかの実体であるかのように襲って来ていたのですが、「心理的な投影」という可能性を、かなり後まで、捨てずにみていたために、それほど酷く、捕らわれずにいることができたと思います。

シュタイナーのいう「霊的胸像」のような理解には、なかなかいたりませんでしたが、実質的には、それに近い考えを抱いていたと思うのです。実際、それは、シュタイナーのいう、「霊的鏡像」だったと解されます。

しかし、それらへの捕われが薄れ、より明確に知覚が細分化し出すと、後に、それは、例えば特定の友人のような、明確な他者として現れ初めました。それは、「他者の想念形態」だったと思います。そして、最終的には、もっと明白な形で、もはや、人間的なものとは解し得ない、他者的な「霊的存在」そのものとして現れ出したのです。(このあたりの経過は、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の前半に詳しいので、参照ください。)

初めの現われに、それほど酷く捕らわれることなく、さらに深みに入って行った訳で、その深みでは、もはや、疑いようのない形で、他者的な霊的存在が立ち現れたのです。「霊的鏡像」ということを知っていれば、もう少し、混乱少なく、これらの過程を踏むことができたと思います。(初めの現われに酷く捕らわれてしまうと、より深みには入らない代わりに、それらに捕らわれた混乱から抜け出せないことにもなります。シュタイナーの意図するような、「霊界の境域を超える」ということには、全くつながらないことになるということです。)

このように、個々的な「霊的鏡像」は、いずれ弱まる、儚い存在と言えるのですが、この「霊的鏡像」は、一方で、「ドッペルゲンガー」から「境域の守護霊」という、より強力な存在へ発展すると、シュタイナーは言います。個々の思いとか、想念だけでなく、自己のもっと、本質的な性質を現すような存在となるからです。しかし、それについては、次回述べます。

※ シュタイナーの「霊的鏡像」についての記述は、特に『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫)の178ページ以降に詳しいです。

その中から、いくつか重要と思われるものを引用しておきます。

「この形象世界全体の内部には、特別の種類の形姿も存在する。それははじめ人間の影響をほとんどまったく受けつけない形姿である。
……この部分が何に由来するのかは、修行者が自分自身を観察したとき、はじめて明らかになる。すなわちこの霊的形姿は修行者自身が生み出したものに他ならないのである。自分が行い、欲し、望むとき、それがこれらの形姿となる。」

「ちょうど自分の周囲を鏡で囲まれた人が、自分の姿をあらゆる側面から、よく見ることができるように、高次の世界の中では人間の魂的本性が鏡像となって、その人間の前に立ち現れてくる。」

「このような体験を持つ場合、もしあらかじめ以上に述べた霊界の本質が理解できていなかったとすれば、修行者自身の魂の内部を映し出している外部の霊的形姿は、まるで謎のように思えるであろう。彼自身の衝動や情熱の諸形姿なのに、それがあたかも動物や、時には人間の姿となって現れてくる。」

「魂の特性もまた鏡像のような現われ方をする。外にある何かに向けられた願望は、その願望を抱く人自身のところへ向う形姿として現れる。人間の低い本性に基づく情欲は動物のような姿をとって、人間に襲いかかってくる。」

「静かな自己反省を通して自分の内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己の姿であるとは認めたがらず、それを自分と異質な外的現実の一部分と見做すであろう。またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿が見るに耐えなくなり、それを根拠のない空想の産物であると思い込もうとするかもしれない。」



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2019年09月07日

「霊界の境域」の危険性

前回みた「想念形態」(エレメンタル)に近いものとして、シュタイナーは、「霊的鏡像」ということを言っています。これについて述べる前に、その「霊的鏡像」が、実体的なものとして現れ出る領域である、「霊界の境域」について、ざっとみておくことにします。

シュタイナーは、この感覚的、物質的な世界と霊的な世界との間には境界があり、それを「霊界の境域」と言って、重視します。人は、この感覚的な世界を越え出ようとするとき、いきなり、「霊界」に参入するのではなく、まずは、その境界である、「霊界の境域」に入ると言うのです。

「感覚的な世界」も「霊的な世界」も、それぞれ独自の性質と秩序をもって存在する、一つの閉じられた世界です。「霊界の境域」は、それらの枠組みから、はみ出さんとする、周辺的、あるいは境界的な領域で、それらの合い交わる、曖昧で、混沌とした世界と言うことができます。図で表すと、次のようになります。

霊界の境域(オカルト)2.png

記事『霊とは何か』などで示したように、本来は、霊的な世界が、物質的、感覚的な世界を包み込む関係にあるのですが、今は、両者の境界である「霊界の境域」を際立たせるため、仮に並行的な世界として描いています。

さらに、シュタイナーは言っていませんが、この境域は、「感覚的な世界」にも「霊的な世界」にも属さない、本来の、「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域に通じています

通常、このような領域は、「感覚的世界」としての、あるいは「霊的な世界」としての、一つの秩序的な枠組みにより、覆い隠されています。しかし、霊界の境域では、それらの枠組みが外されるため、根底にある、「虚無」ないし「闇」、または「無限」が、その姿を覗かせることになるのです。そこは、我々の思考では、限定づけることのできない、本来的に、「無限定」の世界であり、まさに「混沌」そのものの世界です。

この「虚無」ないし「闇」、または「無限」の領域は、仏教的には、「空」などと呼ばれ、最も根源的には、我々の本来の姿ということになります。しかし、現に、ある性質をもった、「閉じた存在」としてある我々にとっては、そのあり方を脅かす、破壊的な作用を及ぼします。キルケゴールやハイデッガーなどの実存主義哲学で問題にされる「虚無」にも、これらの領域が反映されています。後にみるように、統合失調症においても、この領域が、大きな影響をもたらします。

このように、「霊界の境域」は、秩序を外れた、曖昧で、混沌とした世界ですが、それが様々な問題をもたらします。

シュタイナーが想定しているのは、「霊界参入」という、目的をもって、意識的に目指された、霊界への参入です。修行に基づいて、意識を高め、この感覚的な世界を越え出て、霊的に「進化」ないし「成長」しようというものです。ところが、それには、この、「霊界の境域」を通過し、越えて行かなければなりません。そこは、様々な危険をはらんだ領域なので、そのための「試練」の意味合いを帯びて来ます。

しかし、この領域に入り込むのは、何も、意図した場合だけでなく、意図せずとも、無自覚的に、入り込む場合も多いのです。その典型が、統合失調の場合で、統合失調者は、体質的その他の理由で、この領域に入り込みやすいのです。実際に、発症するときには、現にそこに入り込んでしまっている、ということができます。そこで受けた、様々な霊的な作用(その典型が、前回みた「想念形態」などによる「声」です)に、振り回され、混乱しているのが、統合失調状況なのです。

さらに、現代では、この「霊界の境域」は、 もはや、どこか遠くにではなく、我々の身近に、常に口を開いて臨んでいる、ということができます。たとえば、それは、人と人の交わる場である、「人と人の間」に、常に働いているのです。さらに言えば、現代では、ある意味で、この「感覚的な世界」そのものが、「霊界の境域」と化しつつある、と言うこともできるのです。

感覚的な世界や霊的な世界というのも、先の図でみたように、一つの秩序的な枠組みによって、閉じられた世界として、形成されているに過ぎません。現代においては、その枠組みは、かなり緩まっているので、霊界の境域と通じやすくなっているのです。このような秩序的な枠組みは、固定的に外せないものとして、初めから設定されているのではなく、様々な要素によって、作り出されているものです。それには、我々の集合的な意識も大きく影響していますが、それが、現代において、大きく揺らいでいることも、一つの大きな理由です。

現代は、感覚的な世界や霊的な世界という区別そのものが、曖昧になり、両者が混交する、まさに「霊界の境域」と似た様相になりつつあると言えるのです。

このような状況においては、特に意図せずとも、誰もが、「霊界の境域」に入り込む可能性があり、様々な危険と遭遇する可能性があります。シュタイナーも、現代においては、霊界の境域のこと知ることが、殊更重要だと言っています。

「霊界の境域」の「危険性」とは、既にみたように、一言で言えば、容易に理解しがたい、「曖昧」で「混沌」とした世界ということです。

これを、もう少し具体的に言えば、まずもって、そこには、我々の、通常の感覚的な世界の経験からは、理解しがたい、「未知」の要素が入り込むということです。そこは、それまで知らずにいた、様々な「霊的な作用」が、現れ出る、最初の領域なのです。しかし、それは、それとして明白にではなく、それまでの、感覚的な世界の中に、紛れ込むようにして、入り込むので、厄介です。それらは、この感覚的な世界そのものの出来事と、混同される可能性があります。

統合失調の場合も、大抵は、そのような作用を、霊的な作用とは認識できずに、この感覚的な世界のものと混同してしまいます。たとえば、「声」なども、現実に存在する、周りの人間のものと受け取ってしまうのです。あるいは、たとえ、霊的な作用と認識できたとしても、その解釈は、この感覚的世界のものに彩られ、かえって、訳の分からない、混沌としたものになる可能性が高いのです。

統合失調状況の場合、さらに深く領域に入り込めば、先にみた「虚無」ないし「闇」、または「無限」と何らかの形で、「遭遇」することになります。それは、根本的とも言える、破壊的な作用を及ぼすことにもなり得ます。統合失調の者の語りに、絶望的とも言える、虚無的ないし破壊的な彩りがあるとすれば、それは、このような、領域の反映と言うことができます。

シュタイナーが、自覚的に、修行によって鍛えられた意識をもって、この領域を越え出る必要があるとしているのは、このように、様々な危険に対処できるだけの、知識をもち、また、それだけの「高められた自我」を築いていなければならないからです。そしてそのような、「自我」は、この感覚的な世界においてこそ、築かれるものでもあるのです。そこに、あえて「感覚的な世界」に生きて、そこから霊的な世界に参入する意義も、認められます。

霊界の境域で、働く「霊的な作用」というのにも、様々あります。一つは、前回みたような、「想念形態」(エレメンタル)で、人間の想念を反映しています。人間の想念が、攻撃的であったり、邪悪であったりすれば、そのような領域も、それを反映する存在に占められるということです。

さらに、「霊界の境域」にこそ住まう、様々な「霊的存在」もいます。それは、シュタイナーでは、「元素霊」とも言われますが、一種の「精霊的存在」です。通常、「妖精」とか、「自然霊」と言われます。そのような、この感覚的世界に近い、境域に住まう存在は、純粋に霊的な存在と言うよりも、人間に近いところのある存在です。また、人間に対して害意があったり、破壊的な意図があったりする存在も、多くいます。あるいは、人間から発するエネルギーを、搾取(捕食)する存在であったりします。これらは、この領域に、人間が生み出す想念形態にこそ巣くうものとも言え、ある意味で、人間が呼び寄せているものです。

そのような存在の中には、「悪魔的」と言えるような存在も含まれます。シュタイナーでいえば、「アーリマン存在」や「ルシファー存在」です。あるいは、このような悪魔的な存在こそが、霊界の境域での、様々な霊的な存在の背後にあって、それらを管理し、操作しているということもできます。霊界の境域の「統轄者」のようなものです。(※)

いずれにしても、霊界の境域に住まうのは、人間にとっては、通常、未知のもので、攻撃的なものも多く、精神的に混乱したり、破壊的な作用を受ける、危険な存在です。統合失調の場合にも、このような存在が関与するがゆえに、一筋縄には行かず、様々な破壊的な作用を受けてしまう、ということがあります。このような領域を越え出るためには、それらの存在について知っていて、さらに、対処する、何ほどかの知恵も身につけていなければなりません。あるいは、少なくとも、現に、そのような境域での体験を通して、試行錯誤的に、身につける必要があります。

このように、霊界の境域は、「危険性」の高い領域で、そこに捕らえられて、抜け出せなくなってしまう可能性もあります。しかし、そこは、本来、越え出られる、「境界」的な領域なのであり、それこそが、試練の意味合いをもつものでもあるのです。

そして、シユタイナーが強調するのは、霊界の境域に入って、初めに遭遇するのが、「霊的鏡像」と呼ばれる、自己自身の生み出した「想念形態」であり、それを正しく認識することが、境域を越えるうえで、重要な役割を果たすということです。

しかし、それについては、次回述べます。

なお、「霊界の境域」については、ブログ『狂気をくぐり抜ける』でも、たとえば記事『「霊界の境域」を超える二方向性 』、 『 「人と人の間」と「霊界の境域」』などで、詳しく述べているので、そちらも参照ください。

※ デーヴィッド・アイクは、「低次アストラル領域」に、支配的な宇宙人である「レプティリアン」が住まうと言っています。しかし、この「低次アストラル領域」というのも、ここで言う「霊界の境域」と解してよく、「宇宙人」というのも、「霊的存在」と重なる、あるいは、区別し難いものであることは、何度か述べたとおりです。

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2019年08月21日

「生き霊」と「想念形態(エレメンタル)」

記事『「霊」とは何か 』で、人間の肉体に宿る「霊」というものは、単一の、不可分のものというわけではないこと。それは、分離することもあり、その分離した霊は、「生き霊」といわれることを述べました。

今回は、この人間の「魂」ないし「霊」が分離して、独立して働くという現象と、その重要な意味について述べたいと思います。「霊」というと、死後の問題で、生きている間の問題ではないかのように思われがちですが、決してそうでないことを示す、重要な例です。

「生き霊」については、「死霊」とともに、霊能者が、憑依している霊の一つとして、あげられることがよくあります。しかし、これは、昔から語られていたもので、源氏物語にも、有名なシーンとして、出てきます。葵上が「物の怪」に苦しめられて、僧の祈祷を受けているとき、六条御息所が、朝起きてみると、自分の体に(祈祷に使う)香の匂いがするので、寝ている間に、魂の一部が、恋敵の葵上のところに行って、物の怪として苦しめていたことに気づき、愕然となるというものです。

この例のように、通常は、無意識的に、自分でも気づかない間に、思いの一部が体を離れて、生き霊として、某かの行動をするというのが普通です。たとえ、気づかれないとしても、人間同士の様々な、情念の絡む出来事には、このように、生き霊が影響している可能性があるのです。

しかし、さらに、意識的に、自分の生き霊を生み出して、それを操ることで、人に対し、様々な影響力を行使するというようなこともあるのです。それは、まさに、「魔術」の一方法です。

陰陽師を描いた絵には、陰陽師が使役する、奇異な姿形をした、「式神」が描かれていることがあります。これは、一種の「精霊的存在」なのですが、自分自身が生み出した、「生き霊」という可能性もあるのです。

西洋神秘学では、この「生き霊」は、「想念形態」(エレメンタル)と呼ばれます。

「生き霊」というと、恋愛感情や、恨みの感情のように、感情的な要素に重点があるように思われます。しかし、「想念形態」というのは、思考的な要素に重点があり、人の思考、思念というものが、分離、独立して、一つの生命のように、機能するものです。思考、思念そのものが、実体的な「力」、あるいは「存在」として、現実に働く、ということです。

前回までにみた、「気」は、人の意思と結びつきながら、情報を運ぶ、見えないエネルギーでした。この「想念形態」も、人が発するものとして、「気」に近く、まさに「気」のエネルギーでできているのですが、単なる「エネルギー」ではなく、一つの生きた「生命」を吹き込まれたものなのです。

旧約聖書では、神が土くれを人の形にして、「息」を吹き込むことによって、人間ができることが記されています。それと同じように、その者の発した「気」に、「息」(魂の一部)が吹き込まれることによって、 「想念形態」ができると言っていいでしょう。それは、「思いの強烈さ」がもたらすもので、その意味では、感情的な要素が、やはり重要な要素となるといえます。なにしろ、人間も、神と同様、一つ生命の、「創造者」となるのです。

ただし、この「想念形態」は、永遠の存在というわけではなく、エネルギーを充填されなければ、やがて消えて行くものです。その意味では、「一時的な存在」または「仮の存在」と言ってもいいでしょう。

とは言え、西洋神秘学では、この「想念形態」を、多くの精神的、霊的な現象の元にあるものとして、重視します。キプロスの有名なヒーラー、ダスカロスも、統合失調症(分裂病)のような精神的病から、透視やテレパシー、ヒーリングのような能力、カルマのような霊的現象まで、「想念形態」こそが原因となるということを、詳しく述べています。(『メッセンジャー』、『太陽の秘儀』太陽出版 参照)

統合失調症では、「声」を聞くということがよく起こりますが、その「声」は、多くの場合、「他者の想念形態の声」だと言います。タスカロス自身、その「声」に同調することによって、本人が聞くのと同じものを、聞くことができると言います。統合失調症は、その声に振り回されて、混乱しているわけです。

そのような「想念形態」は、既に述べたように、エネルギーを充填されなければ、やがて消えて行くものです。しかし、それは、恐れたり、捕らわれたりすればするほど、エネルギーを充填されて、強力になり、長く、影響を与え続けます。だから、それに対しては、自然に無視するような態度でいることが重要です。しかし、それは、簡単なことではないので、まずは、「想念形態」というものがあること、やがては消え行くものであることを、知っていることが重要になるのです。

ただし、この「想念形態」も、先にみたように、背後の存在によって、魔術的に操作されることがあります。ダスカロスも、ルシファーと呼ぶ悪魔的存在に、管理されることがあると言っています。そうなると、背後の悪魔的存在自体が関わって来て、一筋縄では行かないことになりますが、エネルギーを充填しないように、無視する態度でいることが重要であることには、変わりはありません。

いずれ、この悪魔的存在についても、詳しくみることにします。

ちなみに、統合失調症と似たものに、「解離性障害」(「多重人格」というのもその一つ)というのがあって、こちらは、自分自身の人格が、いくつかに分かれてしまう現象です。まさに、「生き霊」ないし「想念形態」を生み出し、それが自分の周りにとりつくような現象です。この場合にも、「声」を聞くことがありますが、それは、「他者」のではなく、まさに、「自分自身の想念形態の声」を聞いているものと思われるのです。

しかし、この「解離」というのを、逆からみるならば、「人格」とか「自我」といわれるものこそ、想念形態の集合したものということになります。我々が「我々自身」と考えるものこそ、実は、「想念形態」そのものということです。「思考」こそが、「我々自身」を作り上げている、ということにもなります。

いすれにしても、このような「狂気」に関わる事柄は、もう一つのブログ『狂気をくぐり抜ける』に詳しく述べているので、詳しく知りたい方は、そちらを参照してください。

想念形態は、その他にも、様々な現象をもたらしますが、たとえば、「カルマ」というのも、自分自身の想念形態が、いずれは、自分自身に帰って来ることによって、もたらされるとされます。たとえば、他人に向けられた攻撃的な想念形態も、いずれは、自分自身に帰り、自分自身に影響を与えることになるのです。

生き霊には、無意識的なものと意識的なものがあると言いましたが、想念形態にも、似たような違いがあります。ただ、タスカロスは、「欲望的思考」型の想念形態と「思考的欲望」型の想念形態としています。

欲望的思考型の想念形態は、無意識的な欲望によって、大きく左右される想念形態です。それだけ、不安定で、予測もつかず、厄介な代物です。

一方、思考的欲望型の想念形態は、より意識化され、思考によって、明確に、統制された、想念形態といえます。これが、先にみたように、魔術的に悪用されることもあるわけですが、癒し、守護など、よい目的のために用いられることもあります。特定の神秘家が、具体的な目的のために創造することもありますが、祈りや祝福などの漠然とした思いによっても、生じる可能性があるものです。それらが、実際に、人によい影響を与えることがあるということです。

ここでは、ほんの一例を述べたのみですが、このように、想念形態は、「思考」というものが、我々の「現実」にとって、いかに重要なものかを指し示しているものなのです。「思考」こそが、「想念形態」というものを介して、「現実」を「呼び寄せ」、あるいは「作り出し」ているとさえ言えるのです。いわゆる、「引き寄せの法則」の元になるものです。

(「思考が現実を作り出す」という点は、今回の記事だけでは分かりにくいと思うので、いずれもう少し詳しくみます。)

それは、当然、無意識的に、漠然と、欲望によって生み出されたものよりも、思考として、明確に練られ、統制されたものほど、はっきりした、ポジティブな効果をもたらすことになります。一般に、我々が、不安定で、望みもしないかのような「現実」に、苛まれるのは、「想念形態」が、欲望的思考型として、不安定で、不確かなものであることを、反映しているのでしょう。

このような観点からも、「思考」の現実的な力の元となるものとして、「想念形態」というものがあることを知ることは、重要なことと言えます。また、(通常、無意識的に発されているので)自分が、どのような「想念形態」を発していて、とのような影響を与えているかに気づくことが、重要なことになります。

次回は、さらに、シュタイナーが言っている、自分の発する「想念形態」についてみてみます。
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2019年07月31日

科学的観点から捉えられた「気」

前回みたように、気功師の発する気について、科学的観点から、様々な研究がされたことがあります。NHKのドキュメント番組でも、特集が放映されていたのを覚えています。

特に、東京電機大学町好雄、日本医科大学品川嘉也両博士の研究が、有名です。いずれも、興味深く、その研究によって、様々に分かったことがあります。(町好雄『「気」を科学する』東京電機大学出版局、品川嘉也『氣功の科学』カッパブックス 参照)

町氏は、サーモグラフィーによって、気功師が気を発するときに、体表面の温度の上昇(2度から5度)がみられることを明らかにしました。それは、「ツボ」と呼ばれる場所を中心にして、周囲に広がります。そして、それは、気功を受ける人にも伝えられ、同様の反応をもたらす、つまり、同調されることも発見しました。

通常、体表面の温度は、自律神経のコントロール下にあるので、意志により上昇することはありません。従って、この事実は、気そのものを捉えたものではないにしても、気と呼ばれる何らかの作用が、確かにあり、それが受ける側にも伝えられたことを、はっきりと物理的に捉えられる形で、示したことになります。

氏は、この体表面の温度の上昇をもたらすものを、電磁波の一種である「遠赤外線」として捉えることにも成功します。ところが、それは、非常に微弱なものなので、それ自体がエネルギーとして、相手方に作用を起こすとは、とても考えられません。しかし、氏は、その遠赤外線には、1ヘルツ前後の低周波や音波のシグナルが含まれている(乗っている)ことを発見します。そして、それこそが、遠赤外線で相手方に伝えられ、情報として作用し、生体に様々な作用を起こさせると考えます。

一方、品川氏は、脳波の測定によって、気功師が気を発するときに、アルファ波が前頭寄りに広がるという現象を発見します。そして、それもまた、気を受けた人に瞬時に伝えられ、同様の脳波をもたらします。これを、「脳波の同調現象」といいます。

このような脳波は、ヨガの行者など、熟練した瞑想家に現れることはあっても、通常みられるものではありません。従って、気によって、何らかの「情報」が伝えられて、相手方の生体に作用した結果とみるほかないものです。

この脳波の同調現象は、町氏の研究でも確かめられています。氏は、これは、先にみた、遠赤外線に乗せられた低周波や音波の情報が、相手方の脳に伝えられることで、起こるものとしています。その脳波の同調により、生体の様々な癒しの作用がもたらされるとするのです。

これらの研究は、「気」そのものを捉えたものではないですが、気を発するときに、それに伴って生じる現象が、はっきりと物理的に確かめられる形であることを示したという意味で、画期的なものといえます。

前回、神沢瑞至という気功師の、動物に対する気功の例をあげましたが、これらの研究も、「気」という、何らかの作用があることを、はっきりと目に見える形で、(物理的に)示したことになります。

ただし、繰り返しますが、これらは、「気」そのものを、物理的なものとして捉えたわけではありません。言い換えれば、気が、物理的なもので説明できることを、明らかにしたものではありません。品川氏も、気は、物理的なものとしてではなく、宇宙と人間をつなぐ、「見えない情報」として捉えています。町氏は、気の実際の現れを、「電磁波の一種である遠赤外線に乗った、1ヘルツの低周波又は音波という情報」として捉えたと言います。しかし、遠隔の気功の場合など、このような理解で、とても「気」のすべてを説明できるものではないことは、認めています。

電磁波は、距離の二乗に反比例して、エネルギーを減じますが、気では、そのようなことはみられないこと。電磁波を遮断する環境でも、働くことがあることなどからも、気は、物理的エネルギーそのものとは解し得ません。さらに、気は、特定の誰かに向けてなど、気功師の選択的な意思に基づいて、作用することからも、主観的な「意識」と強く結びついている、独自のエネルギーと解すべきものです。

気は、物理的なエネルギーそのものではなく、主観的な意識と結びついているが、決して、観念的、抽象的なものではなく、物理的エネルギーに近い作用をなすもの、あるいは、実際に、物理的エネルギーや情報を伴って作用することのあるもの、ということです。

湯浅泰雄著『気とは何か』(NHKブックス)も、気を総合的に考察して、「要するに、「気」とは主観的であると共に客観的であり、心理的であると共に生理-物理的でもあるような生命体に特有の未知のエネルギーである」としています。そして、「気の正体そのものはどんな感覚的手段によっても認識されることはない。なぜなら、そこには「心」のはたらきが含まれているからである。言いかえれば、実験科学的手段によって検出できるのは、生理的・物理的レベルにおいて表出される客観的な効果だけなのであって、気の存在そのものは、それらに基づいて単に推理されるにとどまる。」と言っています。

これらのことを総合的すれば、要するに、気は、「物質的なもの」と「霊的なもの(意識)」を媒介する、中間的なものということで、よいのではないでしょうか。

もちろん、物質科学的なレベルでの追求も重要なことですが、気功の研究が、現在行き詰まっているようにみえるのは、それのみでは、明らかにできる事柄が限られて来るからです。「物質的なものと霊的なもの(意識)を媒介する、中間的なもの」という視点から、視野を広げて、総合的に考察する必要があると思います。

なお、ブログ『狂気をくぐり抜ける』の記事『 「超能力」「気」と「量子力学」 』では、「物質」と「意識」の関係を考えるうえで、「気」という中間的なものに注目することの重要性について述べています。参照ください。

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2019年07月19日

「物質的」/「霊的」なものを媒介する「気」

記事『「霊」とは何か』で触れたように、「物質的なもの」と「霊的なもの」の中間的な領域にあって、両者を媒介するものに、「気」があります。西洋の神秘学では、「エーテル」とも呼ばれます。

「物質的なもの」は、これまでみて来たとおり、外界の「目に見えるもの」として、(あるいは「目に見えないもの」でも)、数学的な科学法則で捉えられるものです。それに対して、「霊的なもの」は、「目に見えない」「精神的なもの」で、数学的な科学法則では捉えられません。そして、その本質は、「意識」と解されます。

とは言え、これまでにも、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、互いに混交する部分もあることを、みて来ました。「物質的なもの」と「霊的なもの」は、画然と区別される、別の領域というよりも、全体として、「物質的なもの」が「霊的なもの」に、包摂される関係にあります。そして、互いに関係しつつ、浸透し合う部分があります。

このようなことを理解するには、中間領域の、互いを媒介する「気」に注目することが、重要です。

「気」は、「意識」そのものではなく、一種の「エネルギー」ですが、意識と強く結びついています。一方、「エネルギー」として、物質的なものに近い働きをしますが、「物理的なエネルギー」そのものではありません(数学的な科学法則で捉えることはできません)。まさに、「中間的」なものということです。この辺りは、次回に、科学的な観点から、もう少し詳しくみることにします。

「気」は、東洋思想では、宇宙を構成する根源的な「実体」とされ、あらゆる存在の元に働くものです。人間の身体にも、この「気」が流れています。東洋医学では、その気の歪み、滞りが、病気の元になるとみなします。この気の流れる経路は、「経絡」と呼ばれ、その結節点が、「つぼ」と呼ばれます。西洋的な物質的な身体観とは異なり、気という、見えないレベル、あるいはより根源的なレベルで、身体を捉えていたことになります。

西洋神秘学でも、この、体のようにまとわれる、エーテルのまとまりを、「エーテル体」と呼びます。単なる「物質」ではなく、「生命体」の元となるものと言えば、分かりやすいでしょう。植物を初め、あらゆる生命体には、「エーテル体」があります。

人間の場合も、これが、身体の生命力を支えているだけでなく、思考や記憶を媒介する、重要な要素です。思考や、記憶などの、精神的な作用が、「エーテル体」を介して、身体や外界に反映されるのです。さらには、「カルマ」と呼ばれる、前世から引き継がれた傾向も、「エーテル体」に刻まれるとされます。「気」が、情報の媒体として、「霊的なもの」と身体や外界を、結びつけているということです。

日本でも、「気」は、「気にする」「気にかける」「気を悪くする」など、様々な心理的な動きを、目に見えるかのように表す言葉として、使われています。論理的、観念的な傾向の強い、西洋や中国の場合とはまた違って、情緒的なレベルで、繊細に捉えられていたことが分かります。その表現は、本当に、まるで、気の動きを「見ていた」かのようです。

現代でも、この「気」の働きを、とりあえず、目に見えるもののように、実感するには、気功師の技を見てみるのが、手っ取り早いでしょう。

人間相手の気功だと、暗示を受けているとか、演技とかの疑いも晴れないかもしれません。しかし、神沢瑞至(かんざわただし)という気功師は、遠隔から、猛獣等の動物を、気功によって、バタンと眠らせる技をよく披露しています(※)。確かに、何がしかの「見えない作用」が働いたと、みるしかないものと思います。

そして、それは、気功師の意志を媒介し、動物の生体的な機構に何らかの作用を及ぼした、ということになるはずです。つまり、「気」です。

これは、既にみた、「超能力」の作用とも近いものです。実際、多くの「超能力」というのも、この「気」の作用によってこそ、なされるものとみることができます。情報を媒介する「気」を、受け取ることによって、透視やテレパシーが可能になり、あるいは、意志を媒介する、気の作用によって、外界に何らかのPK的な作用を及ぼす、とみることができるからです。

あるいは、最近は、「食べない人」というのが、かなり表に表れるようになりました。呼吸をエネルギー源にして生きる人と言う意味で、「ブレサリアン」などとも呼ばれます。(ここに、「ブレサリアン」に関する記事あるので参照ください。https://matome.naver.jp/odai/2139377953147453501?&page=1

呼吸を通して、取り入れるエネルギーとは、端的に言えば、「気」ということになります。かつて、仙人は、「霞みを食って生きる」と言われましたが、まさに、この「霞み」に相当します。

「気」は、先に、「生命力」の元となることをみました。「ブレサリアン」は、まさに、「気」を、「生命力」として、直接身体的なエネルギーへと変換するシステムを、身につけた人ということになります。ただし、元々、「物質的なもの」と「霊的なもの」を媒介するものが「気」だとすれば、これは本来は、誰にも可能なことのはずなのです。ただ、具体的に、そのエネルギーを変換するシステムが、通常は、身についていないとみられます。

かつて、気には、科学の方面からも注目を集めて、いろいろな実験がされた時期があります。それにより、いろいろ興味深いことも分かったのですが、それは次回にみたいと思います。

しかし、最近は、気に注目することは、あまりなくっていると感じます。霊的なものそのものに注目することは、かなり増えていますが、この中間的な「気」に注目することは、少なくなっているのです。そのように、あまりに「霊的なもの」のみで突き進んでしまうと、「物質的なもの」との繋がりを見失い、極端な方向へ遊離してしまうことも危惧されます。

一方で、「物質的なもの」のみの方向から、何でも「物質的なもの」で解決できるかのように、「霊的なもの」に迫ろうとするのは、「疑似科学」となって、かえって、合理性を欠く、怪しげなものとなってしまう可能性があります。次回にもみますが、「気」は、その作用が科学的に捉えられるとしても、「物質的なもの」そのものではないことが、分かっています。

それらの「中間的なもの」として、「気」に注目することは、その両者を、自然に結びつけることを可能にするという意味でも、重要と思われるのです。

※ なお、神沢瑞至氏に関する記事の例です。(http://comaco1.com/2017/06/21/post-1045/ )
また、海外で取りあげられた、実演の動画があります。(https://www.youtube.com/watch?v=21Yh6C96AKo )

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